光のそばで 〜及川蒼真が見た景色〜

着替えを終えて医局へ戻る途中、藤崎先生が言った。


「及川、定食屋でも行く?」

「行きます!」

「即答だね」

「行きます!」

「二回言った」

「大事なことなので」


藤崎先生が笑った。


* * *


「いただきます」


目の前に置かれた焼き魚定食に、及川は両手を合わせた。


白米。

味噌汁。

焼き魚。

小鉢。


洒落た店ではない。

高級店でもない。

でも、手術が終わった後の腹には、こういうものが一番うまい。


白米を一口食べた瞬間、及川は息を吐いた。


「あぁ……うまい」


向かいで藤崎先生が笑う。


「幸せそうだね」

「幸せですよ。まだ仕事残ってますけど」

「じゃあ、しっかり食べて」


そう言って普通に焼き魚を食べているこの男が、及川の指導医だった。


論文でも名前を見る。

手術も上手い。

患者への説明も穏やかで、上級医からの信頼も厚い。


そして、なぜか定食屋で焼き魚を食べていても王子感が消えない。


意味が分からない。


「先生って、手先器用ですよね」

「ありがとう。突然何?」

「いや、今日も思いましたけど。剥離とか結紮とか、細かい作業が綺麗なんですよね。無駄がないというか」

「そう?」

「そうです」


及川は箸を動かしながら、藤崎先生の手を見る。


長い指。

細かい作業をしていても、不自然な力が入らない。


「何かやってたんですか、昔」


藤崎先生は少し考えた。


「バイオリンかな」

「……バイオリン」

「うん」

「三歳から、とかですか?」


藤崎先生が笑った。


「王道な質問なのかもしれないけど、正解」

「うわぁ……」

「何、その声」

「いや、似合いすぎて」

「褒められてる?」

「褒めてます。顔良くて、医者で、オペ上手くて、バイオリンって。設定盛りすぎじゃないですか」

「設定って」


藤崎先生が声を立てずに笑った。


最近、こういう力の抜けた顔を見ることが増えた。


綾瀬が病院を辞めたからなのか。

それとも、自分が肝胆膵班に入り、毎日一緒に仕事をするようになったからなのか。


「先生」

「うん?」

「俺、この班選んで良かったです」


藤崎先生の箸が、少しだけ止まった。


「そう」

「反応薄くないですか?」

「嬉しいよ」

「本当に?」

「本当に」

「顔に出てませんけど」

「及川に言われたくないな」

「俺はめちゃくちゃ出ますよ」

「知ってる」


藤崎先生が笑う。


及川も笑った。


藤崎先生が留学するまで、それほど長くない。


この人の下で学べる時間には限りがある。


そう思ったら、急に惜しくなった。


もっとオペに入りたい。

もっと症例を見たい。

もっと質問したい。

もっとできるようになりたい。


そして、いつか。


「任せられる」


ではなく、


「任せたい」


そう思ってもらえる外科医になりたい。


「先生」

「何?」

「俺、メキメキ成長するんで」

「またそれ?」

「帰国したら、びっくりしますよ」


藤崎先生が少し目を細めた。


「それは楽しみだね」

「その頃には、膵頭十二指腸切除の一部くらい任せてもらえるようになってますよ」

「いいね」

「ですよね!」

「じゃあ、そのつもりで鍛えようか」

「……え」

「言ったでしょ?」


藤崎先生は綺麗に笑った。


「帰国したら、びっくりするんでしょ?」

「言いましたけど、今すぐ仕事を増やしてくれとは言ってません」

「同じようなものじゃない?」

「全然違いますよ!」


藤崎先生は楽しそうに笑った。