四月。
綾瀬が病院を辞めてから、10A病棟の空気は少し変わった。
退職した綾瀬が藤崎先生と結婚すること。
その父親が、あの綾瀬教授だったこと。
しばらくは病棟でも医局でも話題になったけれど、それも時間とともに少しずつ落ち着いていった。
そして及川にも、新しい一年が始まった。
外科レジデントとして各班を回った一年を終え、及川が選んだのは肝胆膵班だった。
藤崎先生がいる班だ。
別に、それだけが理由ではない。
難しい領域だと思ったし、もっとできるようになりたかった。
せっかく外科を選んだのなら、簡単な方へ逃げたくもなかった。
ただ、藤崎先生の下で、もう少し学んでみたいと思ったのも事実だった。
肝胆膵班に入ってから、仕事は一気に増えた。
術前カンファレンス。
画像の読み込み。
術式の確認。
手術。
術後管理。
文献検索。
藤崎先生は、容赦がなかった。
「及川、この画像どう見る?」
「門脈右枝は問題ないと思います」
「思います?」
「……問題ありません」
「根拠は?」
「はい」
答えれば、次が来る。
「じゃあ、この症例なら術式は?」
答える。
「その理由は?」
また答える。
少しでも曖昧なら、すぐに突っ込まれた。
ただし、答えられないからといって怒られるわけではない。
「分かりません」
そう言えば、
「じゃあ、一緒に見ようか」
そこから始まる。
誤魔化した時の方が、よほど怖かった。
「及川」
「はい」
「今、分かったふりした?」
「……ちょっとだけ」
「やめようね」
笑顔だった。
ものすごく綺麗な笑顔だった。
「はい」
そんな毎日だった。
* * *
その日の手術は、腹腔鏡下胆嚢摘出術だった。
途中から、藤崎先生が及川に手術操作を任せた。
「ここからやってみようか」
「はい」
何度も見てきた。
助手にも入った。
予習もした。
頭の中では分かっている。
それでも、自分の手で進めるとなると話は違う。
剥離を進め、視野を確認する。
もう一度、位置関係を見る。
手が、一瞬止まった。
以前なら、ここで焦っていた。
早く答えを出さなければならないと思っていた。
手術を止めてはいけない。
上級医を待たせてはいけない。
そう思えば思うほど、視野が狭くなった。
そして以前、一度それで判断が遅れた。
あの時は、
「代わる」
藤崎先生の短い一言で、手術を引き取られた。
あの声を、及川は今でも覚えている。
けれど今日は違った。
「及川」
落ち着いた声がした。
「はい」
「何に迷ってる?」
及川は画面を見る。
焦らなくていい。
分からないなら、確認すればいい。
一人で手術をしているわけではない。
「胆嚢管との位置関係を、もう一度確認したいです」
「うん」
藤崎先生はそれ以上何も言わなかった。
及川は視野を作り直し、周囲を確認する。
少し角度を変える。
見えてきた。
「……ここです」
「そうだね」
「このまま剥離を進めます」
一拍置いて。
「うん。続けて」
その言葉に、及川は小さく息を吐いた。
手を動かす。
今度は止まらなかった。
手術が終わり、患者は問題なく退室した。
手袋を外した及川は、大きく息を吐いた。
「はぁー……」
隣では、藤崎先生も手袋を外している。
及川はちらりと見る。
何も言わない。
「先生」
「何?」
「俺、頑張ったと思いません?」
「うん」
藤崎先生はあっさり頷いた。
「頑張ったね」
及川の顔が緩む。
「ですよね!」
「見事な胆摘だったよ」
及川の表情が、一瞬で警戒に変わった。
「……皮肉じゃないですよね?」
藤崎先生が微笑む。
何も言わずに。
「怖い怖い。笑顔だけで返すのやめてもらっていいですか」
「褒めてるよ」
「本当ですか?」
「本当」
「本当の本当に?」
「及川」
「はい」
「しつこい」
「すみません」
藤崎先生は小さく笑った。
それから、何でもないことのように言った。
「前より、待てるようになったね」
及川は顔を上げた。
「え?」
「今日。途中で迷った時」
藤崎先生は手を洗いながら続ける。
「前なら、焦ってそのまま進もうとしてた」
及川は黙った。
覚えていたのか。
「今日はちゃんと止まって、何に迷ってるのか自分で整理できてた」
「……はい」
「それでいいと思うよ」
藤崎先生はいつも通りだった。
特別なことを言っているようには見えない。
「外科医だからって、全部一人で判断できる必要はないから」
及川は、少しだけ目を見開いた。
「分からない時に分からないと言えることも、確認することも大事だからね」
「……はい」
「だから、今日は任せられたよ」
たったそれだけだった。
けれど、さっきまで手術を終えた達成感でいっぱいだった胸の奥に、別の何かが落ちてきた。
任せられた。
その言葉が、思った以上に嬉しかった。
綾瀬が病院を辞めてから、10A病棟の空気は少し変わった。
退職した綾瀬が藤崎先生と結婚すること。
その父親が、あの綾瀬教授だったこと。
しばらくは病棟でも医局でも話題になったけれど、それも時間とともに少しずつ落ち着いていった。
そして及川にも、新しい一年が始まった。
外科レジデントとして各班を回った一年を終え、及川が選んだのは肝胆膵班だった。
藤崎先生がいる班だ。
別に、それだけが理由ではない。
難しい領域だと思ったし、もっとできるようになりたかった。
せっかく外科を選んだのなら、簡単な方へ逃げたくもなかった。
ただ、藤崎先生の下で、もう少し学んでみたいと思ったのも事実だった。
肝胆膵班に入ってから、仕事は一気に増えた。
術前カンファレンス。
画像の読み込み。
術式の確認。
手術。
術後管理。
文献検索。
藤崎先生は、容赦がなかった。
「及川、この画像どう見る?」
「門脈右枝は問題ないと思います」
「思います?」
「……問題ありません」
「根拠は?」
「はい」
答えれば、次が来る。
「じゃあ、この症例なら術式は?」
答える。
「その理由は?」
また答える。
少しでも曖昧なら、すぐに突っ込まれた。
ただし、答えられないからといって怒られるわけではない。
「分かりません」
そう言えば、
「じゃあ、一緒に見ようか」
そこから始まる。
誤魔化した時の方が、よほど怖かった。
「及川」
「はい」
「今、分かったふりした?」
「……ちょっとだけ」
「やめようね」
笑顔だった。
ものすごく綺麗な笑顔だった。
「はい」
そんな毎日だった。
* * *
その日の手術は、腹腔鏡下胆嚢摘出術だった。
途中から、藤崎先生が及川に手術操作を任せた。
「ここからやってみようか」
「はい」
何度も見てきた。
助手にも入った。
予習もした。
頭の中では分かっている。
それでも、自分の手で進めるとなると話は違う。
剥離を進め、視野を確認する。
もう一度、位置関係を見る。
手が、一瞬止まった。
以前なら、ここで焦っていた。
早く答えを出さなければならないと思っていた。
手術を止めてはいけない。
上級医を待たせてはいけない。
そう思えば思うほど、視野が狭くなった。
そして以前、一度それで判断が遅れた。
あの時は、
「代わる」
藤崎先生の短い一言で、手術を引き取られた。
あの声を、及川は今でも覚えている。
けれど今日は違った。
「及川」
落ち着いた声がした。
「はい」
「何に迷ってる?」
及川は画面を見る。
焦らなくていい。
分からないなら、確認すればいい。
一人で手術をしているわけではない。
「胆嚢管との位置関係を、もう一度確認したいです」
「うん」
藤崎先生はそれ以上何も言わなかった。
及川は視野を作り直し、周囲を確認する。
少し角度を変える。
見えてきた。
「……ここです」
「そうだね」
「このまま剥離を進めます」
一拍置いて。
「うん。続けて」
その言葉に、及川は小さく息を吐いた。
手を動かす。
今度は止まらなかった。
手術が終わり、患者は問題なく退室した。
手袋を外した及川は、大きく息を吐いた。
「はぁー……」
隣では、藤崎先生も手袋を外している。
及川はちらりと見る。
何も言わない。
「先生」
「何?」
「俺、頑張ったと思いません?」
「うん」
藤崎先生はあっさり頷いた。
「頑張ったね」
及川の顔が緩む。
「ですよね!」
「見事な胆摘だったよ」
及川の表情が、一瞬で警戒に変わった。
「……皮肉じゃないですよね?」
藤崎先生が微笑む。
何も言わずに。
「怖い怖い。笑顔だけで返すのやめてもらっていいですか」
「褒めてるよ」
「本当ですか?」
「本当」
「本当の本当に?」
「及川」
「はい」
「しつこい」
「すみません」
藤崎先生は小さく笑った。
それから、何でもないことのように言った。
「前より、待てるようになったね」
及川は顔を上げた。
「え?」
「今日。途中で迷った時」
藤崎先生は手を洗いながら続ける。
「前なら、焦ってそのまま進もうとしてた」
及川は黙った。
覚えていたのか。
「今日はちゃんと止まって、何に迷ってるのか自分で整理できてた」
「……はい」
「それでいいと思うよ」
藤崎先生はいつも通りだった。
特別なことを言っているようには見えない。
「外科医だからって、全部一人で判断できる必要はないから」
及川は、少しだけ目を見開いた。
「分からない時に分からないと言えることも、確認することも大事だからね」
「……はい」
「だから、今日は任せられたよ」
たったそれだけだった。
けれど、さっきまで手術を終えた達成感でいっぱいだった胸の奥に、別の何かが落ちてきた。
任せられた。
その言葉が、思った以上に嬉しかった。

