少し前。
藤崎先生と綾瀬と三人で、食事に行った。
その席で二人は、ようやく恋人同士であることを認めた。
しかも、婚約したことまで教えてくれた。
もちろん、そのことはまだ院内では秘密だ。
及川も綾瀬の味方として、その秘密は守ると約束している。
――だから昨日も、話を合わせた。
発端は、綾瀬が病棟の同僚たちとバレンタインチョコレートを手作りしたことだった。
同僚の看護師たちに、誰に渡すチョコなのか聞かれたらしく、綾瀬は咄嗟に「及川先生」と答えてしまったらしい。
それが火種となり、10A病棟でちょっとした噂になってしまった。
及川にとっては完全に寝耳に水だったけれど、本人から話を合わせてほしいと頼まれてしまったのだから、仕方がない。
一点だけ問題だったのは、10A病棟の若い看護師がその噂を及川に教えてくれた時、よりによって藤崎先生も同じ場にいたことだった。
しかもその直後、藤崎先生は笑顔のまま、10Aへ行ってきた方がいいんじゃないかと、業務命令まで出してきた。
昨夜、チョコは無事に手元に届いただろうけれど、あの時の先生の笑顔は恐ろしかった。
――完全な貰い事故だ!
まあ、仕方がない。
あれも綾瀬の味方としての仕事だ。
そう思うことにした。
* * *
昼休憩になり、及川は藤崎先生と二人で食堂へ向かった。
昨日のことがあるだけに、多少の気まずさはある。
けれど藤崎先生は、朝から何も言ってこなかった。
なんとなく機嫌が良いようにも見えるけれど。
いつも通り仕事をして、いつも通り指示を出し、今も何事もなかったように昼食を食べている。
昨日のうちに、綾瀬から事情は聞いたはずだ。
チョコが本当は誰のためのものだったのかも、もう知っているだろう。
なら、及川から蒸し返す必要もない。
このまま何事もなく終われば、それでいい。
そう思っていた。
「あ、及川先生」
聞き覚えのある声に、及川は顔を上げた。
10A病棟の若い看護師だった。
昨日、綾瀬が及川のためにチョコを作っていたと、嬉しそうに教えてくれた張本人だ。
嫌な予感がした。
「あ、昨日のチョコ、どうでした?」
――やっぱり来た!
及川の箸が止まる。
一瞬だけ、向かいに座る藤崎先生を見た。
藤崎先生は何事もなかったように食事を続けている。
「ああ……うん。もらったよ」
もちろん、もらっていない。
けれど昨日、綾瀬から話を合わせてほしいと頼まれている。
ここで否定するわけにはいかなかった。
「どうでした?」
「どうって?」
「味ですよ。綾瀬さん、初めて手作りしたって言ってたから」
それは知らなかった。
食べていないものの感想を求められても困る。
「……美味しかったよ」
無難に答えると、その看護師が嬉しそうに笑った。
「ですよね。綾瀬さん、すごく頑張って作ってましたもんね」
「そうなんだ」
「幸せそうに作ってましたよ」
及川は、ちらりと向かいを見た。
藤崎先生は相変わらず、何事もなかったような顔で食事をしている。
その平然とした横顔を見ているうちに、及川は少しだけ腹が立ってきた。
こっちは昨日、完全な貰い事故だったというのに。
少しくらい仕返しをしても、罰は当たらない気がする。
及川は何気ない顔で、その看護師に向かって言ってみた。
「まあ、綾瀬の気持ちはありがたく受け取ったよ」
その瞬間。
藤崎先生の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。
及川は見逃さなかった。
けれど、すぐにまた食事を始める。
表情は何も変わらない。
その看護師は、当然そんなことには気づいていなかった。
「でも及川先生、結婚してますもんね」
「そうそう。だから友チョコ」
「戦友チョコですよ」
「ああ、そうらしいね」
「先生も罪な男ですね」
及川は笑った。
ここでやめておけばよかった。
本当に。
でも。
「あの綾瀬に好かれるって、光栄なことだよね」
そう言ってちらりと見ると、藤崎先生が静かに箸を置いた。
そして、お茶を一口飲む。
それだけだった。
「じゃあ、私戻りますね。午後も頑張ってください」
「ありがと」
その看護師が去っていく。
及川はその背中を見送ってから、ゆっくり正面を向いた。
藤崎先生は、何事もなかったように食事を再開していた。
「……先生」
「何?」
いつもと同じ穏やかな顔。
「……何でもないです」
及川も食事を再開する。
何もない。
何もなさすぎる。
……ちょっと、やりすぎたか?
ほんの少しだけ、嫌な予感がした。
藤崎先生と綾瀬と三人で、食事に行った。
その席で二人は、ようやく恋人同士であることを認めた。
しかも、婚約したことまで教えてくれた。
もちろん、そのことはまだ院内では秘密だ。
及川も綾瀬の味方として、その秘密は守ると約束している。
――だから昨日も、話を合わせた。
発端は、綾瀬が病棟の同僚たちとバレンタインチョコレートを手作りしたことだった。
同僚の看護師たちに、誰に渡すチョコなのか聞かれたらしく、綾瀬は咄嗟に「及川先生」と答えてしまったらしい。
それが火種となり、10A病棟でちょっとした噂になってしまった。
及川にとっては完全に寝耳に水だったけれど、本人から話を合わせてほしいと頼まれてしまったのだから、仕方がない。
一点だけ問題だったのは、10A病棟の若い看護師がその噂を及川に教えてくれた時、よりによって藤崎先生も同じ場にいたことだった。
しかもその直後、藤崎先生は笑顔のまま、10Aへ行ってきた方がいいんじゃないかと、業務命令まで出してきた。
昨夜、チョコは無事に手元に届いただろうけれど、あの時の先生の笑顔は恐ろしかった。
――完全な貰い事故だ!
まあ、仕方がない。
あれも綾瀬の味方としての仕事だ。
そう思うことにした。
* * *
昼休憩になり、及川は藤崎先生と二人で食堂へ向かった。
昨日のことがあるだけに、多少の気まずさはある。
けれど藤崎先生は、朝から何も言ってこなかった。
なんとなく機嫌が良いようにも見えるけれど。
いつも通り仕事をして、いつも通り指示を出し、今も何事もなかったように昼食を食べている。
昨日のうちに、綾瀬から事情は聞いたはずだ。
チョコが本当は誰のためのものだったのかも、もう知っているだろう。
なら、及川から蒸し返す必要もない。
このまま何事もなく終われば、それでいい。
そう思っていた。
「あ、及川先生」
聞き覚えのある声に、及川は顔を上げた。
10A病棟の若い看護師だった。
昨日、綾瀬が及川のためにチョコを作っていたと、嬉しそうに教えてくれた張本人だ。
嫌な予感がした。
「あ、昨日のチョコ、どうでした?」
――やっぱり来た!
及川の箸が止まる。
一瞬だけ、向かいに座る藤崎先生を見た。
藤崎先生は何事もなかったように食事を続けている。
「ああ……うん。もらったよ」
もちろん、もらっていない。
けれど昨日、綾瀬から話を合わせてほしいと頼まれている。
ここで否定するわけにはいかなかった。
「どうでした?」
「どうって?」
「味ですよ。綾瀬さん、初めて手作りしたって言ってたから」
それは知らなかった。
食べていないものの感想を求められても困る。
「……美味しかったよ」
無難に答えると、その看護師が嬉しそうに笑った。
「ですよね。綾瀬さん、すごく頑張って作ってましたもんね」
「そうなんだ」
「幸せそうに作ってましたよ」
及川は、ちらりと向かいを見た。
藤崎先生は相変わらず、何事もなかったような顔で食事をしている。
その平然とした横顔を見ているうちに、及川は少しだけ腹が立ってきた。
こっちは昨日、完全な貰い事故だったというのに。
少しくらい仕返しをしても、罰は当たらない気がする。
及川は何気ない顔で、その看護師に向かって言ってみた。
「まあ、綾瀬の気持ちはありがたく受け取ったよ」
その瞬間。
藤崎先生の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。
及川は見逃さなかった。
けれど、すぐにまた食事を始める。
表情は何も変わらない。
その看護師は、当然そんなことには気づいていなかった。
「でも及川先生、結婚してますもんね」
「そうそう。だから友チョコ」
「戦友チョコですよ」
「ああ、そうらしいね」
「先生も罪な男ですね」
及川は笑った。
ここでやめておけばよかった。
本当に。
でも。
「あの綾瀬に好かれるって、光栄なことだよね」
そう言ってちらりと見ると、藤崎先生が静かに箸を置いた。
そして、お茶を一口飲む。
それだけだった。
「じゃあ、私戻りますね。午後も頑張ってください」
「ありがと」
その看護師が去っていく。
及川はその背中を見送ってから、ゆっくり正面を向いた。
藤崎先生は、何事もなかったように食事を再開していた。
「……先生」
「何?」
いつもと同じ穏やかな顔。
「……何でもないです」
及川も食事を再開する。
何もない。
何もなさすぎる。
……ちょっと、やりすぎたか?
ほんの少しだけ、嫌な予感がした。

