「……!」
及川は反射的に背筋を伸ばした。
「お、お疲れ様です」
今日のオペで、及川から手技を引き取った人だった。
藤崎先生は、いつも通り穏やかな表情で立っている。
その時、綾瀬が二人の横を通り過ぎようとした。
綾瀬の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
藤崎先生の視線も、一瞬だけ綾瀬へ向いた。
何かを言いかけたような間。
けれど、綾瀬はすぐにいつもの顔へ戻った。
「お疲れ様です」
それだけ言って、藤崎先生の横を通り過ぎていく。
藤崎先生は、ほんの一瞬だけその背中を見た。
それから、及川へ視線を戻す。
「落ち着いた?」
「……はい」
「なら、戻ろう」
「はい」
藤崎先生は、それ以上何も聞かなかった。
及川は缶コーヒーを握ったまま、その後ろを歩いた。
さっきまで綾瀬と二人でいたことについても、何も言わない。
それが逆に怖かった。
医局へ戻るなり、藤崎先生は電子カルテを開いた。
「及川」
「はい」
「さっきの症例、術後経過をもう一度整理しておいて」
「分かりました」
「それと、今日のオペの記録。自分がどこで判断に迷ったのか、明日までにまとめて」
「……はい」
「あと、この症例の文献も見ておこうか。関連するものを三本」
「三本!?」
「うん。勉強になると思うよ」
涼やかな笑顔だった。
全部、必要なことではある。
今日の手術を振り返るのも、文献を読むのも、レジデントとして当然だ。
でも。
いつもより、少し多くないか。
「先生」
「何?」
「なんか、怒ってませんか」
藤崎先生は不思議そうに首を傾げた。
「俺が?」
「……はい」
「どうして?」
出た。
この人は、こういう時ほど何も分からない顔をする。
声も柔らかい。
表情も崩れない。
理由なんて、口に出せるわけがない。
「いえ。何でもないです」
「そう」
藤崎先生は微笑んだまま、資料を一枚差し出した。
「じゃあ、まずこれから読もうか」
「……はい」
及川は資料を受け取った。
ブラックコーヒーも苦かった。
けれど。
藤崎先生の笑顔も、なかなか苦い。

