燈子と猫の郵便局

夜間郵便局の時計は、

今日も少しだけ遅れていた。

カチ。

カチ。

カチ。

真鍮の振り子が揺れる。

薪ストーブの火は小さく燃え、

やかんから立ちのぼる湯気が

灯りの中で静かにほどけていた。

佳は湯飲みにお茶を注いでいる。

炭はカウンターの上で丸くなっていた。

珍しく眠そうだった。

燈子は一枚の便箋を前に座る。

何度も書いては消し、

書いては止まる。

言いたい言葉はあるのに、

うまく出てこない。

不思議だった。

母への言葉なのに。

たった一つの言葉なのに。

どうしてこんなに難しいのだろう。

窓の外では、

夜の商店街に風が吹いていた。

遠くで自転車のベルが鳴る。

誰かの生活の音。

それが少しだけ心を落ち着かせた。

燈子はペンを持つ。

ゆっくり。

本当にゆっくり。

便箋の上に文字を書く。

・・・・・・・・・・・・・

おかあさん

ありがとう

・・・・・・・・・・・・・

たったそれだけだった。

けれど。

書き終えた瞬間、

胸の奥で何かがほどけた気がした。

言えなかった言葉。

ずっと残っていた言葉。

空気の奥に沈んでいた言葉。

それがようやく姿を見せた。

郵便局の灯りが、

ふわりと揺れた。

炭が片目を開ける。

「やっと書いたな」

どこか安心したような声だった。

燈子は少し笑う。

「うん」

佳は静かに微笑んだ。

「届きますよ」

その言葉は、

なぜか信じられた。

窓の外を見る。

商店街の向こう。

夜空のどこか。

見えない場所へ。

きっと届く。

そんな気がした。

燈子は便箋を胸に抱く。

冷たいはずの紙は、

少しだけ暖かかった。

・・・・・・・・・・・・・

帰る時間になった。

燈子は立ち上がる。

炭は伸びをした。

佳はいつもの場所に立っている。

郵便局の灯りが二人を照らしていた。

「また来ます」

燈子は言った。

佳がうなずく。

「お待ちしています」

炭はそっぽを向いたまま言う。

「遅れるなよ」

燈子は笑った。

「うん」

・・・・・・・・・・・・

扉を開く。

カラン──

真鍮の呼び鈴が鳴る。

夜風が頬を撫でた。

燈子は少しだけ振り返る。

夜間郵便局。

灯り。

黒猫。

届かなかった言葉たち。

その景色を目に焼き付ける。

そして歩き出した。

夜の商店街を。

少しだけ軽くなった心と一緒に。

・・・・・・・・・・・・

第一章 黒猫の案内人編・完

作者より

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

燈子と炭、佳との出会いを描いた 「第一章 黒猫の案内人編」はこれで終了です。

この物語は、

言えなかった言葉。

届けられなかった気持ち。

忘れられなかった想い。

そんなものを少しずつ描いていくつもりです。

・・・・・・・・・・・・

次回から始まる

第二章 手紙たちの行方編

では、

夜間郵便局を訪れる様々な依頼人たちの物語が始まります。

誰かの「ありがとう」

誰かの「ごめんなさい」

誰かの「会いたい」

そんな手紙が燈子を少しずつ変えていきます。

これからもゆっくり見守っていただけたら嬉しいです。

冬灯(ふゆあかり)