夜間郵便局の時計は、
いつも少しだけ遅れていた。
燈子が扉を開く。
扉の上についた真鍮の呼び鈴が鳴った。
カラン──
古い郵便局らしい、
少し澄んだ音だった。
中はいつものように暖かい。
入口の近くには小さな薪ストーブがあり、
上に置かれたやかんから白い湯気が立っている。
古い木のカウンター。
壁一面の郵便棚。
天井近くでは真鍮の時計が静かに時を刻んでいた。
燈子はその景色を見ると、
なぜだか少し安心した。
帰ってきた。
そんな気持ちになる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
炭がカウンターの上にいた。
長いひげが期待したようにぴくぴく動いている。
黄色い瞳は真剣そのものだった。
その視線の先には、
大きなぼたもちが置かれていた。
「何してるの?」
燈子は聞いた。
炭は顔を上げる。
「見れば分かる」
「ぼたもち?」
「ぼたもちだ」
少し誇らしそうだった。
郵便局の奥では、
佳が急須から濃い緑色のお茶を湯飲みに注いでいる。
やわらかな湯気が灯りの中で揺れていた。
「またですか」
佳は言った。
炭は鼻を鳴らす。
「悪いか」
「昨日も食べていました」
「昨日は昨日だ」
佳はお茶を注ぎながら続ける。
「もっと前も食べていましたよ」
「覚えているな」
「覚えています」
燈子は思わず笑った。
佳は小さなため息をつき、
炭の前に湯飲みをそっと置く。
「喉につまりますから」
「つまらん」
炭はそう言って、
ぼたもちにかぶりついた。
三秒後。
ゴホッ。
燈子は吹き出した。
佳は静かに言う。
「言ったでしょう」
「つまってない」
「今むせました」
「むせてない」
炭は真顔だった。
それが余計に面白い。
郵便局の灯りが少し揺れた。
燈子は久しぶりに声を出して笑った気がした。
・・・・・・・・・・・・・
その時だった。
カラン──
呼び鈴が鳴った。
燈子は振り向く。
「……え?」
第二話で会った女の子だった。
女の子も燈子に気付く。
少しだけ恥ずかしそうに笑った。
そして佳に向かって頭を下げる。
「ありがとうございました」
佳は穏やかに微笑んだ。
「届きましたか」
女の子はうなずく。
「はい」
少し間を置く。
そして。
「言えました」
その顔は、
前に会った時よりもずっと明るかった。
炭はぼたもちを抱えたまま言う。
「だから言っただろ」
いつも通り偉そうだった。
けれど。
女の子は笑う。
「うん」
その返事だけで十分だった。
燈子の胸が少しだけ熱くなる。
本当に届くんだ。
ありがとうは。
言葉は。
ちゃんと。
・・・・・・・・・・・・
女の子が帰ったあと。
郵便局には再び静けさが戻った。
ストーブの薪が小さく音を立てる。
炭は湯飲みをじっと見ていた。
佳はその様子を見ている。
まるで長年そうしてきたようだった。
燈子はふと尋ねた。
「どうしてそんなに手紙を届けたいの?」
炭はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
夜の商店街。
遠くの街灯。
ゆっくり流れる風。
そして言った。
「人間はな」
ぼたもちを抱えたまま。
「言葉を残さないと前に進めない」
燈子は黙って聞いていた。
炭は続ける。
「ありがとうも」
「ごめんなさいも」
「好きも」
「さようならも」
少しだけ寂しそうだった。
「ちゃんと置いていかないと」
真鍮の時計が小さく時を刻む。
カチ。
カチ。
カチ。
「前に進めなくなる」
・・・・・・・・・・・・
燈子はポケットの中の手紙を触った。
まだ言えていない言葉がある。
ずっと胸の奥に残っている言葉。
そして初めて認めた。
「わたしにも……」
声は小さかった。
「言えなかった言葉がある」
佳がやさしく微笑む。
「知っています」
その返事に、
なぜだろう。
少しだけ救われた気がした。
郵便局の灯りが揺れる。
炭は最後のぼたもちを大事そうに抱えていた。
その姿が少しだけ可笑しかった。
つづく
いつも少しだけ遅れていた。
燈子が扉を開く。
扉の上についた真鍮の呼び鈴が鳴った。
カラン──
古い郵便局らしい、
少し澄んだ音だった。
中はいつものように暖かい。
入口の近くには小さな薪ストーブがあり、
上に置かれたやかんから白い湯気が立っている。
古い木のカウンター。
壁一面の郵便棚。
天井近くでは真鍮の時計が静かに時を刻んでいた。
燈子はその景色を見ると、
なぜだか少し安心した。
帰ってきた。
そんな気持ちになる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
炭がカウンターの上にいた。
長いひげが期待したようにぴくぴく動いている。
黄色い瞳は真剣そのものだった。
その視線の先には、
大きなぼたもちが置かれていた。
「何してるの?」
燈子は聞いた。
炭は顔を上げる。
「見れば分かる」
「ぼたもち?」
「ぼたもちだ」
少し誇らしそうだった。
郵便局の奥では、
佳が急須から濃い緑色のお茶を湯飲みに注いでいる。
やわらかな湯気が灯りの中で揺れていた。
「またですか」
佳は言った。
炭は鼻を鳴らす。
「悪いか」
「昨日も食べていました」
「昨日は昨日だ」
佳はお茶を注ぎながら続ける。
「もっと前も食べていましたよ」
「覚えているな」
「覚えています」
燈子は思わず笑った。
佳は小さなため息をつき、
炭の前に湯飲みをそっと置く。
「喉につまりますから」
「つまらん」
炭はそう言って、
ぼたもちにかぶりついた。
三秒後。
ゴホッ。
燈子は吹き出した。
佳は静かに言う。
「言ったでしょう」
「つまってない」
「今むせました」
「むせてない」
炭は真顔だった。
それが余計に面白い。
郵便局の灯りが少し揺れた。
燈子は久しぶりに声を出して笑った気がした。
・・・・・・・・・・・・・
その時だった。
カラン──
呼び鈴が鳴った。
燈子は振り向く。
「……え?」
第二話で会った女の子だった。
女の子も燈子に気付く。
少しだけ恥ずかしそうに笑った。
そして佳に向かって頭を下げる。
「ありがとうございました」
佳は穏やかに微笑んだ。
「届きましたか」
女の子はうなずく。
「はい」
少し間を置く。
そして。
「言えました」
その顔は、
前に会った時よりもずっと明るかった。
炭はぼたもちを抱えたまま言う。
「だから言っただろ」
いつも通り偉そうだった。
けれど。
女の子は笑う。
「うん」
その返事だけで十分だった。
燈子の胸が少しだけ熱くなる。
本当に届くんだ。
ありがとうは。
言葉は。
ちゃんと。
・・・・・・・・・・・・
女の子が帰ったあと。
郵便局には再び静けさが戻った。
ストーブの薪が小さく音を立てる。
炭は湯飲みをじっと見ていた。
佳はその様子を見ている。
まるで長年そうしてきたようだった。
燈子はふと尋ねた。
「どうしてそんなに手紙を届けたいの?」
炭はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
夜の商店街。
遠くの街灯。
ゆっくり流れる風。
そして言った。
「人間はな」
ぼたもちを抱えたまま。
「言葉を残さないと前に進めない」
燈子は黙って聞いていた。
炭は続ける。
「ありがとうも」
「ごめんなさいも」
「好きも」
「さようならも」
少しだけ寂しそうだった。
「ちゃんと置いていかないと」
真鍮の時計が小さく時を刻む。
カチ。
カチ。
カチ。
「前に進めなくなる」
・・・・・・・・・・・・
燈子はポケットの中の手紙を触った。
まだ言えていない言葉がある。
ずっと胸の奥に残っている言葉。
そして初めて認めた。
「わたしにも……」
声は小さかった。
「言えなかった言葉がある」
佳がやさしく微笑む。
「知っています」
その返事に、
なぜだろう。
少しだけ救われた気がした。
郵便局の灯りが揺れる。
炭は最後のぼたもちを大事そうに抱えていた。
その姿が少しだけ可笑しかった。
つづく
