その日の放課後、空は昼すぎからずっと曇っていた。
帰りのホームルームが終わるころには、窓を打つ雨音がはっきり聞こえるほどになっていた。
「うわ、けっこう降ってる」
教室のあちこちからそんな声が上がる中、ひまりは鞄を抱えて小さくため息をついた。
朝はまだ降っていなかったから、傘を持ってきていない。
どうしよう。
そう思いながら昇降口へ向かうと、すでにそこで待っていた人影があった。
「蓮」
名前を呼ぶと、蓮がすぐに顔を上げる。
手には黒い傘が一本。
「迎えに来た」
短いひと言なのに、胸があたたかくなる。
「でも傘、一本しかないよ?」
「だから来た」
真顔で返されて、ひまりは思わず笑ってしまう。
「相合傘ってこと?」
「いや?」
「え」
「俺は最初からそのつもり」
あまりにも自然に言うから、ひまりの頬が一気に熱くなった。
昇降口の屋根の下にはまだ生徒がたくさんいる。そんな中で、蓮は少しも気にした様子がない。
傘を開くと、ひまりの手を取ってそのまま外へ連れ出した。
細かな雨がアスファルトを濡らし、空気が少しひんやりしている。
けれど蓮の隣は、近すぎるせいか妙にあたたかかった。
「近い……」
歩き出してすぐ、ひまりは小さくつぶやく。
「濡れるだろ」
「それはそうだけど」
「もっとこっち」
蓮はそう言って、ひまりの肩を軽く引き寄せた。
ほとんど腕が触れ合う距離。
傘の下に二人だけの空間ができて、ひまりの鼓動が落ち着かない。
「蓮のほうが濡れてない?」
「平気」
見ると、傘は明らかにひまり側へ傾いている。
蓮の肩が少し濡れているのに、本人はまるで気にしていない。
「平気じゃないよ」
「おまえが濡れるほうがいや」
さらっと言われて、ひまりは何も返せなくなる。
雨音が、二人の沈黙をやさしく埋めていく。
ふと横を見ると、蓮は前を向いたままひまりの手をしっかり握っていた。
「手、つないだままなんだ」
「だめ?」
低い声で聞かれて、ひまりは慌てて首を振る。
「だめじゃない」
「ならいい」
本当にそれだけで満足そうにするから、ひまりは少しだけ笑った。
そのとき、向こうから同じ学校の男子生徒が二人歩いてきた。
すれ違う瞬間、そのうちの一人がひまりに気づいて軽く手を上げる。
「白石さん、傘なくて大変だったね」
「あ、うん」
ひまりも小さく返した、その直後。
握られた手に急に力がこもった。
蓮だ。
視線を向けると、明らかに不機嫌そうな顔をしている。
男子たちが通り過ぎてから、ひまりはおそるおそる口を開く。
「また嫉妬してる?」
「してる」
即答だった。
「話しただけだよ」
「わかってる」
「でも怒ってる」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
ひまりが言うと、蓮は少しだけ黙った。
それから、雨音にまぎれそうな低い声でつぶやく。
「……名前呼ばれたのがいやだった」
ひまりは目を瞬く。
「え」
「慣れた感じだった」
そんなところまで見ているのかと驚く。
蓮は視線をそらしたまま、でも手は離さない。
「俺だけがいい」
あまりにもまっすぐで、ひまりの胸がきゅっとなる。
「名前呼ぶの、蓮だけがいいの?」
「できれば」
真顔で言われて、ひまりは困ってしまう。
けれど、その重さの奥にある不安もちゃんと見えていた。
だからひまりは、つないだ手を少しだけ握り返す。
「じゃあ私も」
「何」
「蓮のこと、名前で呼ぶの好き」
その瞬間、蓮の足がぴたりと止まった。
「……今わざと?」
「ちがうよ」
本気で言ったのに、蓮の目が熱を帯びる。
「ひまり」
名前を呼ばれただけで、雨の冷たさなんてどこかへ飛んでいく。
気づけば、ちょうど公園の屋根つきベンチの前まで来ていた。
蓮はそのままひまりをそこへ連れていく。
雨は変わらず降っていて、人影はない。
傘を閉じた蓮が、ひまりをじっと見つめる。
「れん?」
「今の、反則」
「だから何が」
「可愛すぎる」
またそれだ。
でも今日は、その言葉のあとに続く空気がいつもより甘かった。
蓮はひまりの頬に触れ、親指でそっとなでる。
「キスしたい」
雨音の中で聞くその声は、いつもよりやさしくて、ずるいほど甘い。
ひまりは鼓動を早くしながら、小さくうなずいた。
すると蓮は少しだけ安心したみたいに目を細める。
ゆっくり顔が近づいてきて、ひまりは自然に目を閉じた。
触れた唇は、雨の日の空気とは反対にあたたかかった。
そっと重なって、少し離れて、またやさしく重なる。
静かで、丁寧で、大事にされているのがよくわかるキス。
「ん……」
思わずもれた小さな声に、蓮の指がぴくりと動く。
けれど急がず、今度は頬に、次は額に、やさしく口づけを落としていく。
「れん……」
「好き」
耳元で落とされたそのひと言に、胸がいっぱいになる。
ひまりがそっと蓮の制服をつかむと、蓮はそのままひまりを抱き寄せた。
「今日、迎えに来てよかった」
「うん」
「傘一本で足りたし」
「それが目的だったの?」
「半分」
少し笑いながら言う蓮に、ひまりもつられて笑ってしまう。
雨はまだ降っている。
でも今は、この狭い屋根の下だけが、二人だけの世界みたいだった。
蓮はひまりの髪をやさしくなでてから、もう一度だけ軽く唇を重ねる。
「帰ろう」
「うん」
再び傘を開いて並んで歩き出す。
さっきよりもっと自然に肩が触れ合って、つないだ手ももう恥ずかしくなかった。
雨の日は少し苦手だったはずなのに。
今日はたぶん、ずっと忘れられない。
蓮とこんなふうに近づけるなら、雨も悪くないと思えたから。
帰りのホームルームが終わるころには、窓を打つ雨音がはっきり聞こえるほどになっていた。
「うわ、けっこう降ってる」
教室のあちこちからそんな声が上がる中、ひまりは鞄を抱えて小さくため息をついた。
朝はまだ降っていなかったから、傘を持ってきていない。
どうしよう。
そう思いながら昇降口へ向かうと、すでにそこで待っていた人影があった。
「蓮」
名前を呼ぶと、蓮がすぐに顔を上げる。
手には黒い傘が一本。
「迎えに来た」
短いひと言なのに、胸があたたかくなる。
「でも傘、一本しかないよ?」
「だから来た」
真顔で返されて、ひまりは思わず笑ってしまう。
「相合傘ってこと?」
「いや?」
「え」
「俺は最初からそのつもり」
あまりにも自然に言うから、ひまりの頬が一気に熱くなった。
昇降口の屋根の下にはまだ生徒がたくさんいる。そんな中で、蓮は少しも気にした様子がない。
傘を開くと、ひまりの手を取ってそのまま外へ連れ出した。
細かな雨がアスファルトを濡らし、空気が少しひんやりしている。
けれど蓮の隣は、近すぎるせいか妙にあたたかかった。
「近い……」
歩き出してすぐ、ひまりは小さくつぶやく。
「濡れるだろ」
「それはそうだけど」
「もっとこっち」
蓮はそう言って、ひまりの肩を軽く引き寄せた。
ほとんど腕が触れ合う距離。
傘の下に二人だけの空間ができて、ひまりの鼓動が落ち着かない。
「蓮のほうが濡れてない?」
「平気」
見ると、傘は明らかにひまり側へ傾いている。
蓮の肩が少し濡れているのに、本人はまるで気にしていない。
「平気じゃないよ」
「おまえが濡れるほうがいや」
さらっと言われて、ひまりは何も返せなくなる。
雨音が、二人の沈黙をやさしく埋めていく。
ふと横を見ると、蓮は前を向いたままひまりの手をしっかり握っていた。
「手、つないだままなんだ」
「だめ?」
低い声で聞かれて、ひまりは慌てて首を振る。
「だめじゃない」
「ならいい」
本当にそれだけで満足そうにするから、ひまりは少しだけ笑った。
そのとき、向こうから同じ学校の男子生徒が二人歩いてきた。
すれ違う瞬間、そのうちの一人がひまりに気づいて軽く手を上げる。
「白石さん、傘なくて大変だったね」
「あ、うん」
ひまりも小さく返した、その直後。
握られた手に急に力がこもった。
蓮だ。
視線を向けると、明らかに不機嫌そうな顔をしている。
男子たちが通り過ぎてから、ひまりはおそるおそる口を開く。
「また嫉妬してる?」
「してる」
即答だった。
「話しただけだよ」
「わかってる」
「でも怒ってる」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
ひまりが言うと、蓮は少しだけ黙った。
それから、雨音にまぎれそうな低い声でつぶやく。
「……名前呼ばれたのがいやだった」
ひまりは目を瞬く。
「え」
「慣れた感じだった」
そんなところまで見ているのかと驚く。
蓮は視線をそらしたまま、でも手は離さない。
「俺だけがいい」
あまりにもまっすぐで、ひまりの胸がきゅっとなる。
「名前呼ぶの、蓮だけがいいの?」
「できれば」
真顔で言われて、ひまりは困ってしまう。
けれど、その重さの奥にある不安もちゃんと見えていた。
だからひまりは、つないだ手を少しだけ握り返す。
「じゃあ私も」
「何」
「蓮のこと、名前で呼ぶの好き」
その瞬間、蓮の足がぴたりと止まった。
「……今わざと?」
「ちがうよ」
本気で言ったのに、蓮の目が熱を帯びる。
「ひまり」
名前を呼ばれただけで、雨の冷たさなんてどこかへ飛んでいく。
気づけば、ちょうど公園の屋根つきベンチの前まで来ていた。
蓮はそのままひまりをそこへ連れていく。
雨は変わらず降っていて、人影はない。
傘を閉じた蓮が、ひまりをじっと見つめる。
「れん?」
「今の、反則」
「だから何が」
「可愛すぎる」
またそれだ。
でも今日は、その言葉のあとに続く空気がいつもより甘かった。
蓮はひまりの頬に触れ、親指でそっとなでる。
「キスしたい」
雨音の中で聞くその声は、いつもよりやさしくて、ずるいほど甘い。
ひまりは鼓動を早くしながら、小さくうなずいた。
すると蓮は少しだけ安心したみたいに目を細める。
ゆっくり顔が近づいてきて、ひまりは自然に目を閉じた。
触れた唇は、雨の日の空気とは反対にあたたかかった。
そっと重なって、少し離れて、またやさしく重なる。
静かで、丁寧で、大事にされているのがよくわかるキス。
「ん……」
思わずもれた小さな声に、蓮の指がぴくりと動く。
けれど急がず、今度は頬に、次は額に、やさしく口づけを落としていく。
「れん……」
「好き」
耳元で落とされたそのひと言に、胸がいっぱいになる。
ひまりがそっと蓮の制服をつかむと、蓮はそのままひまりを抱き寄せた。
「今日、迎えに来てよかった」
「うん」
「傘一本で足りたし」
「それが目的だったの?」
「半分」
少し笑いながら言う蓮に、ひまりもつられて笑ってしまう。
雨はまだ降っている。
でも今は、この狭い屋根の下だけが、二人だけの世界みたいだった。
蓮はひまりの髪をやさしくなでてから、もう一度だけ軽く唇を重ねる。
「帰ろう」
「うん」
再び傘を開いて並んで歩き出す。
さっきよりもっと自然に肩が触れ合って、つないだ手ももう恥ずかしくなかった。
雨の日は少し苦手だったはずなのに。
今日はたぶん、ずっと忘れられない。
蓮とこんなふうに近づけるなら、雨も悪くないと思えたから。



