特別支援学校の窓から

 先日、地域の教員の集いに参加した時のことです。特別支援学校勤務だと自己紹介をしたところ、ある高校の教員・A先生に話しかけられました。
 A先生のクラスに、障害のある生徒(B君)がいて、かなり悩んでいる様子でした。B君は、「言葉を話すことがほとんどできない、3歳児ぐらい」の知的障害があり、母親が毎日送り迎えをし、若い男性の介助員?が付き添って学校生活を送っているという話でした。
 他の「健常児」のクラスメートとの関係はほとんどなく、B君に関わるのは介助員や教員など「大人」ばかり。母親は、わが子を地域で育てたいという強い願いをもち、小中ともに地域の学校に通い、進学した高校は、応募者が定員に満たない状況だったので、入学することができたという話でした。
 A先生によると、母親は「障害」児を地域の学校で育てるグループに加わっていて、高校も地域の子どもたちと一緒に、という思いでわが子の進学を決めたようでした。しかし、B君の学校生活をみると、母親の思いとはうらはらに、生徒同士の交流がほとんどなく、もっぱら介助員をはじめ大人の中にいる実態で、A先生は、何のためにB君が高校生活を送っているのか、疑問に感じる、と言っていました。
 クラスの中で、B君の居場所や役割を作り、他のクラスメートとの間をとりもつのが、B君の周囲にいる大人の役目なのでは、と、よほど言おうかと思いました。しかし、クラス全体の様子も、B君のことも全くわからないまま正論を吐くことを、私はためらいました。
 A先生の言葉の端々に、B君は「障害」児に合った学校(特別支援学校)のほうがいいのでは、というニュアンスを感じました。同時に、特別支援学校の中のことをほとんどご存じないように見受けられました。
 A先生の話の中で気になったのは、B君の母親について、地域の学校にこだわりすぎている、被害者意識が強い、という言い方をしたことです。さすがにカチンときて、よほど「障害をもつ子どもを育てる、ということが、この日本社会の中でどれだけの重圧か、母親の立場に立って想像することさえできないのですか!」と言ってやろうかと思いました。しかし、へたれな私は「B君のお母さんと会ったこともないので、被害者意識が強いかどうか、それは私にはわかりません」というまぬけな答えしかできませんでした。
 A先生は「高校は小中学校とは違う、将来に向けて、進路に対して、真剣に向かい合わなければならない所だ」と声高に言ってきたので、私は「では「健常児」の生徒はみな真剣に進路に向かい合っているのですか?」と問い返しました。A先生から答えはありませんでした。
 以前にもマイノリティの生徒の教育を考える集いで、複数の小中学校の教員が「やっぱりあの子は特別支援対象じゃないのかな」と話しているのが聞こえてきたことがありました。共通しているのは、「障害」児=特別な子=専門家の手にゆだねる、という思考パターンだと思います。ともあれ、少なくともクラスの「障害」児をめぐる困難の原因を、「障害」児自身と保護者に求めるのだけは願い下げです。
 「普通校」の教員の方々に、「障害」児と付き合うことの、「障害」児とクラスメートの小さな関わりを発見することの喜びを感じてほしい、というのは欲張りでしょうか。学校現場が「ゆとり」を取り戻し、B君母子の願いを共に考え、悩み、受け止める懐の深さをもてるように、と願うのは贅沢すぎることなのでしょうか。相手に希望と勇気を与えられる「正論」が吐けるように…と思うのは、ゴーマンかましすぎでしょうか?