以前、ある反原発パレードに参加した時、ひとりの若い女性の参加者がチェルノブイリの「奇形」児の写真を何枚も貼ったプラカードを掲げていました。パレードの趣旨は、互いの立場や主張の違いを超え「反原発」の一点で行動しよう、というものでした。もやもやとしたものを感じましたが、結局何も言えないまま、その日のパレードは終わり、彼女は人波に消えてしまいました。
それから数ヵ月後、ある反原発運動体が主催する、食品の放射能汚染に関する学習会に参加。講師が「障害児が増えているのは、ミネラル不足のせい。ミネラルを補給すれば、障害は直る」と発言。講師の主催団体が発行する資料には「(放射能から)日本人の遺伝子を守る心構えを」というタイトルの一文がありました。反原発運動が、放射能の恐怖を「障害」や「奇形」への忌避感と結びつける方向にも広がり始めているという一部の現実に対して、ただ手をこまねいてはいられない、と感じました。
専門家でも活動家でもない自分ですが、上記のテーマで小さな集いを主催いたしました。予想を超える10名以上の参加者があり、この問題に対して多くのことを感じている人が少なくないことを実感しました。以下、集いを通して考えた私自身の思いを語りたいと思います。
★★
「私はふつうの子どもが産めますか」という福島の少女の問いかけについて、私はただ単純に、少女が障害のある人と日常的に分けられ、知る機会を奪われ続けてきた結果であるという捉え方をしていました。放射能被害の象徴として「奇形」児の写真を掲げるような運動のあり方も、「奇形」児・「障害」児とともに学び生きることが保障されれば、きっと大きく変化していくだろう、という趣旨の発言もしました。それに対して、別の角度から数人の方が意見をくださいました。当日語られた内容の要旨を紹介たします。
●「奇形」児の写真を掲げて反原発デモに参加する人たちに直接たずねてきた。「障害は不幸なのか」「障害児が産まれるから反原発なのか」「障害者の存在を否定するのか」と。反応はさまざま。ある人は泣いて謝ってきた。わかってくれればそれでいい。怒り出して「胎児に障害があれば堕ろす」と言う人、逃げ出す人……。
●「子どもを守る」という母親たちの思いが、優生思想のよみがえりという形で現れてきているのに恐怖を感じた。
●今回に限らず、環境問題の取り組みの中で問題だと思うのは、農薬などの危険性を訴える時に、「障害」児が生まれてくることが引き合いに出されがちだ。
●「私は子どもが産めますか」という福島の少女の言葉。原発事故が将来生まれてくるであろう自分の子にまで及ぶかもしれないという不安と怒り。しかし、それが「障害」児が生まれたらどうしよう、という文脈で語られるとしたら、「障害」をもつすべての人々にとって、存在そのものを否定されるようなことになるのでは。
●放射能汚染への恐怖・怒り・不安と、「障害」児・者がありのままに生きるということは、「生きる」「殺さない」「弱い人を踏みつけない」という点で手をつなぐことができるのでは。
●放射能による健康被害の恐怖と、「障害」児・者を忌避する意識について。多くの人が日常的に「障害」のある人と分断され、互いに関わりあう経験をほとんどしていない、ということだけが原因ではないのでは?
●身体の中に変なものは入れたくない、というのは自然な思い。放射能被害を恐れる気持ちと、「障害」児が生まれてくることを忌避する意識の間に、あいまいな部分、線引きできない部分がある。
●病・死への恐怖がある以上、「障害」者への差別はなくならないのでは。「死」が避けたいものである以上、それに至る「病」も同様に避けたい事態ということになる。この部分を直視することによってはじめて「生」の意味がつかめるのでは。「死」の問題、それと表裏一体の「生」の意味を捉えきれない限り、差別はなくならないのでは?
●核で金儲けをするしくみに反対。
●「障害」への恐怖が原動力になって脱原発が実現するならば、それは放射能と同じぐらい恐ろしいこと。
複数の方から「放射能による健康被害を恐れる気持ちと、障害のある人を忌避してしまう気持ちの間に線を引くのは難しいのでは」という発言がありました。
集会後、参加者の一人から以下の趣旨のメールをいただきました。
――人間として「死」を恐れ忌避するのと同様に、「死」に連なる「病」もまた、恐れ忌避されている。そのラインの上で考えると、われわれが「死」を恐れている以上、「病者」や「障害者」に対する差別はなくならないのでは?
「死」と表裏一体の「生」の意味を感じたり考えたりできる人は、もっと「いのち」そのものについて肯定的になれるのでは?
この問題提起に、深く考えさせられました。未熟な部分の多い私ですが、最低限言いたいのは、次のことです。仮に、「障害」児が生まれるかもしれない「放射能の恐怖」に多くの人が恐れおののき、その結果、「反原発」の大きなうねりが起こり、日本中の原発が廃炉になったとしたら、果たしてそれは「けっこうなこと」なのでしょうか? 原発がなくなっても、「障害」をもつ人々を排除することが正当化されたら、それは放射能と同じぐらい恐ろしいことだと言わざるを得ません。同様な恐怖は、いわゆる「右からの反原発運動」に対しても強く感じているところです。
「放射能汚染の恐ろしさを「障害者」に対する違和感や恐怖心と重ね合わせたところで語ってほしくない」という堤愛子さんの言葉を、多くの人にかみしめてほしいと思います。
2月の定例会では、このテーマで話し合いました。
原発・優生思想・障害者差別について、日常の素朴なモヤモヤをつぶやき合ってみようよと思ったわけです。
○日頃から食べ物について気を使っていて、やはり着色料等はできるだけ避けようとしている。だから放射能をあびた食品は選ばないようにする。→これって風評被害に加担しているの?
○チェルノブイリや枯葉剤のベトナムで報道されている障害をみると、あってはならないと思う。→これって障害者差別につながるの?
○今よりももっとできるようになりたい。自分を高めたいと思うし、子どもにもそう思う。→これって優生思想なの?
これらを短絡的に考えるのはよくないけれど、こんなモヤモヤから糸口を解きほぐしてみようと思ったわけです。いずれにしてもあの3月11日から、それぞれが、自分の日常の生活を振り返ってみることに迫られているのではないでしょうか。
それから数ヵ月後、ある反原発運動体が主催する、食品の放射能汚染に関する学習会に参加。講師が「障害児が増えているのは、ミネラル不足のせい。ミネラルを補給すれば、障害は直る」と発言。講師の主催団体が発行する資料には「(放射能から)日本人の遺伝子を守る心構えを」というタイトルの一文がありました。反原発運動が、放射能の恐怖を「障害」や「奇形」への忌避感と結びつける方向にも広がり始めているという一部の現実に対して、ただ手をこまねいてはいられない、と感じました。
専門家でも活動家でもない自分ですが、上記のテーマで小さな集いを主催いたしました。予想を超える10名以上の参加者があり、この問題に対して多くのことを感じている人が少なくないことを実感しました。以下、集いを通して考えた私自身の思いを語りたいと思います。
★★
「私はふつうの子どもが産めますか」という福島の少女の問いかけについて、私はただ単純に、少女が障害のある人と日常的に分けられ、知る機会を奪われ続けてきた結果であるという捉え方をしていました。放射能被害の象徴として「奇形」児の写真を掲げるような運動のあり方も、「奇形」児・「障害」児とともに学び生きることが保障されれば、きっと大きく変化していくだろう、という趣旨の発言もしました。それに対して、別の角度から数人の方が意見をくださいました。当日語られた内容の要旨を紹介たします。
●「奇形」児の写真を掲げて反原発デモに参加する人たちに直接たずねてきた。「障害は不幸なのか」「障害児が産まれるから反原発なのか」「障害者の存在を否定するのか」と。反応はさまざま。ある人は泣いて謝ってきた。わかってくれればそれでいい。怒り出して「胎児に障害があれば堕ろす」と言う人、逃げ出す人……。
●「子どもを守る」という母親たちの思いが、優生思想のよみがえりという形で現れてきているのに恐怖を感じた。
●今回に限らず、環境問題の取り組みの中で問題だと思うのは、農薬などの危険性を訴える時に、「障害」児が生まれてくることが引き合いに出されがちだ。
●「私は子どもが産めますか」という福島の少女の言葉。原発事故が将来生まれてくるであろう自分の子にまで及ぶかもしれないという不安と怒り。しかし、それが「障害」児が生まれたらどうしよう、という文脈で語られるとしたら、「障害」をもつすべての人々にとって、存在そのものを否定されるようなことになるのでは。
●放射能汚染への恐怖・怒り・不安と、「障害」児・者がありのままに生きるということは、「生きる」「殺さない」「弱い人を踏みつけない」という点で手をつなぐことができるのでは。
●放射能による健康被害の恐怖と、「障害」児・者を忌避する意識について。多くの人が日常的に「障害」のある人と分断され、互いに関わりあう経験をほとんどしていない、ということだけが原因ではないのでは?
●身体の中に変なものは入れたくない、というのは自然な思い。放射能被害を恐れる気持ちと、「障害」児が生まれてくることを忌避する意識の間に、あいまいな部分、線引きできない部分がある。
●病・死への恐怖がある以上、「障害」者への差別はなくならないのでは。「死」が避けたいものである以上、それに至る「病」も同様に避けたい事態ということになる。この部分を直視することによってはじめて「生」の意味がつかめるのでは。「死」の問題、それと表裏一体の「生」の意味を捉えきれない限り、差別はなくならないのでは?
●核で金儲けをするしくみに反対。
●「障害」への恐怖が原動力になって脱原発が実現するならば、それは放射能と同じぐらい恐ろしいこと。
複数の方から「放射能による健康被害を恐れる気持ちと、障害のある人を忌避してしまう気持ちの間に線を引くのは難しいのでは」という発言がありました。
集会後、参加者の一人から以下の趣旨のメールをいただきました。
――人間として「死」を恐れ忌避するのと同様に、「死」に連なる「病」もまた、恐れ忌避されている。そのラインの上で考えると、われわれが「死」を恐れている以上、「病者」や「障害者」に対する差別はなくならないのでは?
「死」と表裏一体の「生」の意味を感じたり考えたりできる人は、もっと「いのち」そのものについて肯定的になれるのでは?
この問題提起に、深く考えさせられました。未熟な部分の多い私ですが、最低限言いたいのは、次のことです。仮に、「障害」児が生まれるかもしれない「放射能の恐怖」に多くの人が恐れおののき、その結果、「反原発」の大きなうねりが起こり、日本中の原発が廃炉になったとしたら、果たしてそれは「けっこうなこと」なのでしょうか? 原発がなくなっても、「障害」をもつ人々を排除することが正当化されたら、それは放射能と同じぐらい恐ろしいことだと言わざるを得ません。同様な恐怖は、いわゆる「右からの反原発運動」に対しても強く感じているところです。
「放射能汚染の恐ろしさを「障害者」に対する違和感や恐怖心と重ね合わせたところで語ってほしくない」という堤愛子さんの言葉を、多くの人にかみしめてほしいと思います。
2月の定例会では、このテーマで話し合いました。
原発・優生思想・障害者差別について、日常の素朴なモヤモヤをつぶやき合ってみようよと思ったわけです。
○日頃から食べ物について気を使っていて、やはり着色料等はできるだけ避けようとしている。だから放射能をあびた食品は選ばないようにする。→これって風評被害に加担しているの?
○チェルノブイリや枯葉剤のベトナムで報道されている障害をみると、あってはならないと思う。→これって障害者差別につながるの?
○今よりももっとできるようになりたい。自分を高めたいと思うし、子どもにもそう思う。→これって優生思想なの?
これらを短絡的に考えるのはよくないけれど、こんなモヤモヤから糸口を解きほぐしてみようと思ったわけです。いずれにしてもあの3月11日から、それぞれが、自分の日常の生活を振り返ってみることに迫られているのではないでしょうか。

