2月。音楽室のモニターに映し出された日の丸を見て、私はぎょっとした。新採の音楽科・笠松先生は、生徒たちに「皆さんは来月、卒業式で国歌を聞きますね」という言葉で授業を始めた。「どんな歌か、みんな知ってますか?」の問いかけに、数人の生徒が「知ってる」と笑顔でうなずいている。「今日は日本の国歌について、学習しましょう」
笠松先生は歌詞入りの君が代の動画を流した。例の曲がおごそかに流れ始める。
笠松先生は2月の音楽授業の単元に「世界の国歌」を設定した。日本語訳歌詞付の国歌の動画を見るのだが、どの国の動画にも武器を持った兵士の隊列、戦車などの兵器、戦争のシーンが出てきて、驚かされた。
笠松先生に「ちょっと怖いと思う」と言ったら「そうなんですよね。もっとその国の自然や文物の映像があるといいんだけど、これしかなくて…」という話だった。多くの国の国歌が、いかに外敵を退け領土と国民を守ったかを誇らしく謳い上げている。軍隊、兵器、戦闘の映像が親和性をもつのは特段不思議なことではない。
中国の国歌のように、粘り強いたたかいの末に他国の支配をはねのけ独立を勝ち取った歴史をもつ国が誇らしく謳い上げるのは余りにも当然かもしれない。
それでも、歴史の解釈や受け取り方のグラデーションを無視するような礼賛に私は違和感を強くおぼえる。
韓国では「進歩政党」の中で以下の問題提起がなされている。「国旗に対する敬礼と共に行う国旗に対する誓いは、朴正煕(パク・チョンヒ)の維新体制と共に全国民の日常に食い込み、国民を馴致し、独裁者と国家を同一視させ、独裁者への屈従を強要する役割も果たした。国家の命令により良心 を画一化し、愛国を強要する教育は、愛国心を高めるどころか、むしろ青少年の 人権と自由を抑圧し、国家の犯罪を正当化するという歴史的な事実を忘れてはならない」(レイバーネットHP)。
イギリスの国歌が取り上げられた時、モニターに映し出された「国王陛下万歳」の文字を見た二、三人の生徒の口から「万歳」の言葉が飛び出した。イギリスによって支配され塗炭の苦しみを強いられた国や地域の人々、その歴史を知る人々にとって、この国家がこの上もなく苦痛を与えることは、容易に想像できるはずのことだ。
話を君が代授業に戻そう。
笠松先生は、動画に映し出される歌詞を示しながら「君が代の君、は日本に住んでいる人みんなってことです。みんなが、いつまでも平和に暮らしていけますように、という歌です」と生徒たちに説明した。
組合の仲間にこの話をしたら、こんな話聞いたことがない。君が代の君は天皇のことだ。根も葉もないことを子どもたちに教えているとは…と絶句していた。
教職浪人をしていた頃に、「民が代」の話を小耳に挟んだことがある。天皇じゃなくて、民衆を真ん中に置く、という趣旨自体は確かに悪かろうはずはないのだが、いつの頃か「民が代」なんて言葉も聞くことがなくなって久しくなった。
「緑の山河」を引くまでもなく、君が代の象徴する天皇制を相対化しようという試みは、戦後しばらくの間一定の支持を得ながら行われてきた。しかし、すでに定年を迎えようとしている私自身すでに、その記憶を受け継いでいない。
国旗も国歌も、国境線の中で暮らすその国の人たちを、一つのシンボルで象徴するものである。私は、一人一人違う多様な人たちを、たった一つのシンボルで象徴すること自体に恐ろしい暴力性を感じている。先の大戦とアジア・太平洋の諸国・地域に対する侵略と武力行使と日の丸・君が代の歴史を引くまでもなく、国旗・国歌の存在そのものがすでに暴力であり、それは人間の暮らしと最初から相容れないものだと私は考えざるを得ない。国旗も国歌もこの地球上のどこにもいらない。
笠松先生は歌詞入りの君が代の動画を流した。例の曲がおごそかに流れ始める。
笠松先生は2月の音楽授業の単元に「世界の国歌」を設定した。日本語訳歌詞付の国歌の動画を見るのだが、どの国の動画にも武器を持った兵士の隊列、戦車などの兵器、戦争のシーンが出てきて、驚かされた。
笠松先生に「ちょっと怖いと思う」と言ったら「そうなんですよね。もっとその国の自然や文物の映像があるといいんだけど、これしかなくて…」という話だった。多くの国の国歌が、いかに外敵を退け領土と国民を守ったかを誇らしく謳い上げている。軍隊、兵器、戦闘の映像が親和性をもつのは特段不思議なことではない。
中国の国歌のように、粘り強いたたかいの末に他国の支配をはねのけ独立を勝ち取った歴史をもつ国が誇らしく謳い上げるのは余りにも当然かもしれない。
それでも、歴史の解釈や受け取り方のグラデーションを無視するような礼賛に私は違和感を強くおぼえる。
韓国では「進歩政党」の中で以下の問題提起がなされている。「国旗に対する敬礼と共に行う国旗に対する誓いは、朴正煕(パク・チョンヒ)の維新体制と共に全国民の日常に食い込み、国民を馴致し、独裁者と国家を同一視させ、独裁者への屈従を強要する役割も果たした。国家の命令により良心 を画一化し、愛国を強要する教育は、愛国心を高めるどころか、むしろ青少年の 人権と自由を抑圧し、国家の犯罪を正当化するという歴史的な事実を忘れてはならない」(レイバーネットHP)。
イギリスの国歌が取り上げられた時、モニターに映し出された「国王陛下万歳」の文字を見た二、三人の生徒の口から「万歳」の言葉が飛び出した。イギリスによって支配され塗炭の苦しみを強いられた国や地域の人々、その歴史を知る人々にとって、この国家がこの上もなく苦痛を与えることは、容易に想像できるはずのことだ。
話を君が代授業に戻そう。
笠松先生は、動画に映し出される歌詞を示しながら「君が代の君、は日本に住んでいる人みんなってことです。みんなが、いつまでも平和に暮らしていけますように、という歌です」と生徒たちに説明した。
組合の仲間にこの話をしたら、こんな話聞いたことがない。君が代の君は天皇のことだ。根も葉もないことを子どもたちに教えているとは…と絶句していた。
教職浪人をしていた頃に、「民が代」の話を小耳に挟んだことがある。天皇じゃなくて、民衆を真ん中に置く、という趣旨自体は確かに悪かろうはずはないのだが、いつの頃か「民が代」なんて言葉も聞くことがなくなって久しくなった。
「緑の山河」を引くまでもなく、君が代の象徴する天皇制を相対化しようという試みは、戦後しばらくの間一定の支持を得ながら行われてきた。しかし、すでに定年を迎えようとしている私自身すでに、その記憶を受け継いでいない。
国旗も国歌も、国境線の中で暮らすその国の人たちを、一つのシンボルで象徴するものである。私は、一人一人違う多様な人たちを、たった一つのシンボルで象徴すること自体に恐ろしい暴力性を感じている。先の大戦とアジア・太平洋の諸国・地域に対する侵略と武力行使と日の丸・君が代の歴史を引くまでもなく、国旗・国歌の存在そのものがすでに暴力であり、それは人間の暮らしと最初から相容れないものだと私は考えざるを得ない。国旗も国歌もこの地球上のどこにもいらない。

