私が教員になったばかりの頃、管理職は校長と教頭だけで、あとは同じヒラ教員身分だった。今に比べてのんびりしていい時代だったが、勤続年数を重ねて中堅・ベテランの域に入ると、否応なく学年主任・学部主任・分掌の窓口などの仕事が回ってきたものだった。
たしか、勤めはじめて7年目ぐらいの頃だったろうか。3月初旬に学部主任からいきなり声をかけられ、次年度の学部主任をやってほしい、と言われた。別に、私の「実力」を買って声をかけてきたわけではない。その学校に長くいる教員に、手当たり次第に打診しているのだ。私は即座に拒絶した。結局、他の人が引き受けることになり一件落着したが。
私は、人の上に立つ仕事は大嫌い。特別支援学校は、個々の生徒とじっくり付き合いを重ねられることが魅力だ。人間はいろいろ。「長好き太郎」で仕切りたがりの人もいれば、私のように、全体をマクロに見渡し陣頭指揮をとることがこの上なく苦手な者もいる。今までも、行事の担当などをするたびに、会議で提案をするわけだが、私は口下手な上にアガリ症でうまく説明できず、他の先生方から手厳しい声を浴びることがしばしばだった。仕切りたがりタイプの先生方にとって、私のようなグズは本当にイライラするだろうな、ということは想像がつく。私は仕事のお鉢が回ってきたからやっているだけだ。私の仕事ぶりにイライラするのなら、イライラする当人が代わりにやればいい。自分の考え方を押しつけ、相手が弱いと見ると高圧的な態度になり、重箱の隅をつつくように批判だけを展開して、担当者を振り回して悦に入る教員はどこにでもいる。窓口だの主任だの、考えただけでおぞましい。私のホンネは、ただ眼の前の子どものことだけを考えていたい、それだけだ。自分のキャパシティはそれでいっぱいいっぱいだということは、自分自身が一番よく知っている。
年を経るごとに勤続年数はいたずらに積みあがり、それでも、あまりの「リーダーシップのなさ」が幸い?して、学部主任の話をもちかけられることはなくなった。
そんな矢先に学校現場に入ってきたのが「職階制」だ。最初に主幹教諭が導入された頃、共産党系の大手組合は教員間の平等で民主的な関係を壊すものとして反対していたが、主任教諭導入の頃になると「みんなで主任教諭になりましょう」と呼びかける豹変ぶりで、あきれてものが言えなかった。
たしかに、以前は学校に関わるすべてのことは、学年会・分掌会→学部会→職員会議、と提案の流れが決まっていて、そういう意味では議論を全員参加でオープンに行なうことができた。今は、企画調整会議と言う主幹級以上の先生方が大体を決めてしまい、職員会議も単なる連絡・伝達の場になってしまった。生徒が「○先生、主任なの?」と私たちに聞いてくることも日常茶飯事だ。
それでも、私のような教員には絶大なメリットがあることは事実だ。分掌の長や学部・学年主任は、いずれも主幹・主任がつとめるようになった。これで安心。給与も違うから、私より責任の重い職務を、私より数多くの仕事をこなして当り前だ。批判の多い学校の職階制だが、少なくとも私にとっては、福音である面も大きいのだ。
自分の思い通りに学校を仕切りたいと願う人たちは、こぞって主幹・主任試験を受けている。本人たちの願いどおり、学部・学年・分掌などの重要ポストに配置され、めでたしめでたしだ。重要な仕事、人をリードする仕事は、定年まで彼らにまかせておけばいい。私は、心置きなく目の前の子どもたちと付き合い、彼らのことだけを考えながら、淡々と定年を迎えたい。
職階制に幸あれ!
たしか、勤めはじめて7年目ぐらいの頃だったろうか。3月初旬に学部主任からいきなり声をかけられ、次年度の学部主任をやってほしい、と言われた。別に、私の「実力」を買って声をかけてきたわけではない。その学校に長くいる教員に、手当たり次第に打診しているのだ。私は即座に拒絶した。結局、他の人が引き受けることになり一件落着したが。
私は、人の上に立つ仕事は大嫌い。特別支援学校は、個々の生徒とじっくり付き合いを重ねられることが魅力だ。人間はいろいろ。「長好き太郎」で仕切りたがりの人もいれば、私のように、全体をマクロに見渡し陣頭指揮をとることがこの上なく苦手な者もいる。今までも、行事の担当などをするたびに、会議で提案をするわけだが、私は口下手な上にアガリ症でうまく説明できず、他の先生方から手厳しい声を浴びることがしばしばだった。仕切りたがりタイプの先生方にとって、私のようなグズは本当にイライラするだろうな、ということは想像がつく。私は仕事のお鉢が回ってきたからやっているだけだ。私の仕事ぶりにイライラするのなら、イライラする当人が代わりにやればいい。自分の考え方を押しつけ、相手が弱いと見ると高圧的な態度になり、重箱の隅をつつくように批判だけを展開して、担当者を振り回して悦に入る教員はどこにでもいる。窓口だの主任だの、考えただけでおぞましい。私のホンネは、ただ眼の前の子どものことだけを考えていたい、それだけだ。自分のキャパシティはそれでいっぱいいっぱいだということは、自分自身が一番よく知っている。
年を経るごとに勤続年数はいたずらに積みあがり、それでも、あまりの「リーダーシップのなさ」が幸い?して、学部主任の話をもちかけられることはなくなった。
そんな矢先に学校現場に入ってきたのが「職階制」だ。最初に主幹教諭が導入された頃、共産党系の大手組合は教員間の平等で民主的な関係を壊すものとして反対していたが、主任教諭導入の頃になると「みんなで主任教諭になりましょう」と呼びかける豹変ぶりで、あきれてものが言えなかった。
たしかに、以前は学校に関わるすべてのことは、学年会・分掌会→学部会→職員会議、と提案の流れが決まっていて、そういう意味では議論を全員参加でオープンに行なうことができた。今は、企画調整会議と言う主幹級以上の先生方が大体を決めてしまい、職員会議も単なる連絡・伝達の場になってしまった。生徒が「○先生、主任なの?」と私たちに聞いてくることも日常茶飯事だ。
それでも、私のような教員には絶大なメリットがあることは事実だ。分掌の長や学部・学年主任は、いずれも主幹・主任がつとめるようになった。これで安心。給与も違うから、私より責任の重い職務を、私より数多くの仕事をこなして当り前だ。批判の多い学校の職階制だが、少なくとも私にとっては、福音である面も大きいのだ。
自分の思い通りに学校を仕切りたいと願う人たちは、こぞって主幹・主任試験を受けている。本人たちの願いどおり、学部・学年・分掌などの重要ポストに配置され、めでたしめでたしだ。重要な仕事、人をリードする仕事は、定年まで彼らにまかせておけばいい。私は、心置きなく目の前の子どもたちと付き合い、彼らのことだけを考えながら、淡々と定年を迎えたい。
職階制に幸あれ!

