特別支援学校の窓から

 「喪失」という言葉で真っ先に浮かぶのは、「朝鮮」。
 特別支援学校労働者になって2年目、朝鮮学校からの転校生が、朝鮮学校で使っていた名前と違う名前で入ってきた。これが、私が初めて目の当たりにした民族差別だった。日本人がキム・ヨンサム(仮名)という生徒の名の、朝鮮語の響きを受け止められないのは、「朝鮮」に触れた経験がないことによるものだ、と感じた私は、生徒との朝の挨拶などに朝鮮語を混ぜることを始めた。「アンニョン!おはよう!」という具合に。こんなささやかな「実践」とも言えないようなことから、私が授業の中で「朝鮮」を入れることに至るまで、抵抗感を示すのは決まって大人(教員)だった。それは生徒の温かい反応と、きわだって対照的なものだった。
 2016年にオリパラ教育が全面実施された時、私は同僚にこんなことを言われた。「あなたは韓国語できるから、オリパラの授業に生かせるよね」…ゾッとした。
 オリパラ教育の「重点的に育成すべき資質」の一つに「豊かな国際感覚」があり、それを伸ばすために「世界ともだちプロジェクト」という大会参加予定国等の学習が設定されている。こんなものに利用されるのは絶対に嫌だ!私は、生徒の前で朝鮮語を話す回数を大幅に減らすことを余儀なくされた。自分にそのような意図が全くなくても、私が発信した「朝鮮」は、学校の中でいともたやすく絡めとられ、オリパラ成功のための「豊かな国際感覚」に作り替えられてしまう。
 2017年11月発行の「東京同和教育ニュース」が手元にある。そこには都内のある小学校の「人権教育」の指針が掲載されていた。その中に「オリパラ教育」が挙げられていたのに驚愕した。オリパラの枠に押し込められた「障害者スポーツ」を、分けられていることを前提に「一緒に行って理解を深める」地域の特別支援学校との交流に関わる取組、また、「それぞれの国の国民として誇りをもち、他国を尊重し、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与」という改悪教育基本法丸写しの「外国人に関わる取組」に至っては、国境の枠に人々を押し込んでいく。人権教育を装いながら、オリパラの「国別対抗スポーツ」の仕組みの中に巧みに外国につながる子どもたちの背景までをも落とし込んでいく巧妙な差別に、唖然とさせられた。
 昨年(2021年)、ついに「総合」の時間に実施する「世界ともだちプロジェクト」授業の割り当てが1コマ私のところに来た。学校の方針として、教員全体に受け入れられる形で初めて実施される「朝鮮」の授業が、オリパラ教育だという悍ましい事実。思い悩んだ末、秀吉の朝鮮侵略から朝鮮戦争に至るまでの日朝の歴史を駆け足で説明した後、平昌五輪で起きたカリワン山の深刻な自然破壊について話した。同僚・生徒の反応は淡々としたもので、良いのか悪いのかわからないが、後で何かを言われたりするようなことは無かった。
 河瀬直美の記録映画に代表されるように、問題点の指摘や反対意見さえも、オリパラは「ダイバーシティ」「多様性」というキーワードで収斂し、果てしなく奪っていく。2020東京大会は終わったが、「オリパラ教育」によって奪われ、喪失させられた「朝鮮」をどう奪い返すか、私はまだ何も考えられないまま、茫然と立ち尽くしている。