特別支援学校の窓から

 今から二十数年前の三月上旬、私は当時勤務していたA校(知的障害養護学校)の校務分掌の出張で、A区内の中学校心障学級(心身障碍児学級ー現:特別支援学級)の合同行事に出席した。
 行事の内容は、卒業する三年生を励ます会で、区内の中学3校の心障学級(現:特別支援学級)の三年生を中心に、下級生、保護者、教員、来賓が参列。A区長の挨拶、3年生ひとりひとりの進路先発表と決意表明、保護者の励ましの言葉等、実にものものしい雰囲気だった。子どもたちはみな標準服に身を包み、窮屈そうに座って、大人たちの話を拝聴させられていた。学校で、何回も行事の練習を重ねてきたことは、想像に難くなかった。
 三年生の代表が、会を催した大人たちへのお礼の言葉を述べた時、私は心の中でつぶやいた。この会は、とどのつまり大人の見栄のためにやってるんじゃないのか、「ありがとうございます」と言わされる子どもたちこそいい面の皮だ、と。

 A校に転勤したばかりの頃、先輩の教員から、かつてA区内の中学校心障学級では「愛される精薄」が合言葉だった、という話を聞いた。当時、中学校心障学級の進路指導は「就労」が中心で、「就労」させるためには、子どもたちを「愛される」存在にしていかなければならない、という意味合いだ。当然のように彼らに「愛される」存在になることを要求して恥じない「健常者」側の傲慢さに、開いた口がふさがらなかった。心障学級では、最近までしばしば教員たちが「そんなんじゃ、A養護学校の高等部にしか行けないぞ」と子どもにはっぱをかけていた、という話も聞いた。中卒での就労にこだわってきた背景には、当時の子どもたちの家庭の厳しい経済状況もあったが、子どもの最終学歴に「養護」の二文字を残したくない、という保護者の希望が強くあった、という「都市伝説」もどきの話まであった。
 「励ます会」に話を戻す。来賓の中に、心障学級から工場に就職した卒業生がいた。彼は、後輩たちにはなむけの言葉とともに、自分の就労体験を語った。その中に、今も忘れられない話がある。
 ある夏の日、彼は先輩の工員に、サイダーを買ってくるように頼まれた。彼は勘違いしてジュースを買ってきてしまった。先輩は罵声とともに、ジュースを彼の頭上に浴びせかけた。彼は、涙をこらえながらジュースで濡れた服を着替え、仕事に向かったと語った。つらいこと、大変なことはあるけれども、頑張って仕事を続けている、という誇らしげな彼の言葉に、呆然とした。「愛される」どころか「ばかにされる」ことまで甘受しなければならないのだろうか。後輩たちは、教員は、来賓は、そして保護者は、彼のこの話をどう聞いたのだろうか。会終了後、私はアンケートに、あまりにもひどすぎる、と綿々とつづった。

 数年後、高等部の部会で作業学習に関する話し合いをした時、私は「子どもたちには手を動かすことが楽しいと感じ、ものを作ることが好きになってほしい」と発言した。即座に、他の教員たちから「作業学習はそんな甘いものではない」と一蹴された。卒業後の進路を、在学中に何としても確保しなければならない、という大命題の前に、私の発言など「寝言」にしか聞こえないだろう。作業学習は就労の前段階の訓練であり、特別支援学校は進路先から求められる「期待される人間像」に子どもたちを仕上げていく場と化して久しい。 
 障害名は「精薄」から「知的障害」に変わっても、特別支援教育を通して子どもたちを、進路先に「愛される」存在にしていかなければならない現実は、いまだ変わっていない。