去年の三月。
私の勤務する学校に、在日朝鮮人二世の生徒が編入してくるという話を聞いて、胸が高鳴るのを覚えました。
私は学生時代に朝鮮語に出会い、社会人になった今も地域の学習サークルでささやかに学びを続け、そして、多くの朝鮮半島につながる仲間たちと出会いました。
その生徒は民族学校の中等部二年の時に難病にかかり、長い入院生活のあと、体調がよくなったということで、私の勤める学校の中学部三年に編入してきました。朝鮮語を学びつづけてきてよかった! 朝鮮のこと、民族学校のこと、いろんなことを聞きたい、話したいと指折り数えてその生徒を待ちました。私の所属は高等部で、仕事の上ではその生徒と何の関係もない立場ですが、職場でただ一人朝鮮語を学んでいる者として、とにかくできることならば何かしたい……そんな思いが頭の中を巡りました。
三月の職員会議で、配布されたその生徒の名前「房勝柱」が漢字で記され、その上に「ぼう・しょうちゅう」と日本語読みの振り仮名がふられていました。
私は不審に思い、質問をしました。在日朝鮮人問題を少しでも知っている人ならば、かれらが本名を名乗るという当たり前のことすらきわめて不自由な状態にあり、その多くは日本式の「通名」を名乗ることを余儀なくされているという事実を見聞きしているでしょう。そして、植民地時代に日本当局が悪名高い「創氏改名」を強いて朝鮮人の名前を奪ったことも……。
結局、在日一世の親が入学の書類に日本語読みの振り仮名を振っている、ということで、房勝柱は「ぼう・しょうちゅう」と呼ばれることになりました。
目の前で起きたこのことについて、私はいろいろと考えました。民族学校もこの学校も同じ学校であり、スンジュも他の生徒も同じ人間だ。もしこれが日本人の名前だったら、どんなに面倒な、変わった読み方の名前でも正しく呼ぶのが礼儀とされてはいないか。ならば、同じ人間であるはずの外国人の名前だって同じように大切なものではないか? 第一「パン・スンジュ」と「ぼう・しょうちゅう」ではまるで別人ではないか……。
日本語読みの振り仮名を振った在日一世の親の胸中を、日本人の私に推し量ることはできません。「在日」するということがかれらにとって、私の想像を絶する厳しいものだということがぼんやりと頭に浮かぶだけでした。
この一連の体験は、これまで私の関わってきた中国留学生との交流の取り組みに厳しい反省を与えられました。本気で相手と友達となりたいと思うならば、まず相手の名前をきちんと覚えて正しく呼ぶという当たり前のことを、私は今まであまりにもなおざりにしてきました。そんないい加減な姿勢のまま周囲の人に、留学生たちが心を開いてくれないだの親しくなるのは難しいだの、的外れな、そして差別に満ちた愚痴ばかりをこぼしてきた……。
私は彼を「パン・スンジュ」と呼ぼうと決意し、スンジュの入学を心ときめかせて待ちました。
担任でも何でもない立場のかなしさで、私はスンジュとまとまった話をすることもままならず、朝と帰りに「スンジュ、アンニョン」「スンジュ、チャルガ(さようなら)」と挨拶するのが精一杯でした。本当は「自分の名前を忘れないで」と言いたかったのですが、自分の本名を何の苦しみも矛盾もなく名乗れる日本人の立場からは、口が裂けても言える言葉ではありませんでした。
心痛む追憶が一つあります。ある日、いつものようにスンジュに朝鮮語で挨拶をした時に、担任のひとりが「ここは日本だ」と私にすごんできたことがありました。その時、私は何も言い返せませんでした。とっさのこととは言え、差別を黙認し、スンジュを守ることができなかった。これは、ひとりの日本人として私が一生背負っていくべき罪です。
スンジュはまもなく病気が進行し、入院、手術、退院してつかの間の学校生活を送りまた入院、とすさまじい闘病生活を送りました。その間に私のできたことといったら、学校の様子などあたりさわりのないことを拙い朝鮮語でつづった手紙をたまに送ることだけでした。
五月。
スンジュは世を去りました。
私には大きな後悔が残りました。勇気を出して、もっと自分の気持ちをさらけだして手紙を書き、互いの間にある「ガラスの壁」を打ち破るべきだった……。学校のある地域は、都内でも在日外国人の多い地域にあります。スンジュとの出会いが残した大きな課題に、この先の人生でどう応えていくか。いまだ糸口すらつかめませんが、二度と後悔だけはしたくないです。
本名を呼び名乗る。
それは、在日の側の解放ではなく、ほかならぬ私たち日本人自身の、人間を取り戻す解放なのです。
私の勤務する学校に、在日朝鮮人二世の生徒が編入してくるという話を聞いて、胸が高鳴るのを覚えました。
私は学生時代に朝鮮語に出会い、社会人になった今も地域の学習サークルでささやかに学びを続け、そして、多くの朝鮮半島につながる仲間たちと出会いました。
その生徒は民族学校の中等部二年の時に難病にかかり、長い入院生活のあと、体調がよくなったということで、私の勤める学校の中学部三年に編入してきました。朝鮮語を学びつづけてきてよかった! 朝鮮のこと、民族学校のこと、いろんなことを聞きたい、話したいと指折り数えてその生徒を待ちました。私の所属は高等部で、仕事の上ではその生徒と何の関係もない立場ですが、職場でただ一人朝鮮語を学んでいる者として、とにかくできることならば何かしたい……そんな思いが頭の中を巡りました。
三月の職員会議で、配布されたその生徒の名前「房勝柱」が漢字で記され、その上に「ぼう・しょうちゅう」と日本語読みの振り仮名がふられていました。
私は不審に思い、質問をしました。在日朝鮮人問題を少しでも知っている人ならば、かれらが本名を名乗るという当たり前のことすらきわめて不自由な状態にあり、その多くは日本式の「通名」を名乗ることを余儀なくされているという事実を見聞きしているでしょう。そして、植民地時代に日本当局が悪名高い「創氏改名」を強いて朝鮮人の名前を奪ったことも……。
結局、在日一世の親が入学の書類に日本語読みの振り仮名を振っている、ということで、房勝柱は「ぼう・しょうちゅう」と呼ばれることになりました。
目の前で起きたこのことについて、私はいろいろと考えました。民族学校もこの学校も同じ学校であり、スンジュも他の生徒も同じ人間だ。もしこれが日本人の名前だったら、どんなに面倒な、変わった読み方の名前でも正しく呼ぶのが礼儀とされてはいないか。ならば、同じ人間であるはずの外国人の名前だって同じように大切なものではないか? 第一「パン・スンジュ」と「ぼう・しょうちゅう」ではまるで別人ではないか……。
日本語読みの振り仮名を振った在日一世の親の胸中を、日本人の私に推し量ることはできません。「在日」するということがかれらにとって、私の想像を絶する厳しいものだということがぼんやりと頭に浮かぶだけでした。
この一連の体験は、これまで私の関わってきた中国留学生との交流の取り組みに厳しい反省を与えられました。本気で相手と友達となりたいと思うならば、まず相手の名前をきちんと覚えて正しく呼ぶという当たり前のことを、私は今まであまりにもなおざりにしてきました。そんないい加減な姿勢のまま周囲の人に、留学生たちが心を開いてくれないだの親しくなるのは難しいだの、的外れな、そして差別に満ちた愚痴ばかりをこぼしてきた……。
私は彼を「パン・スンジュ」と呼ぼうと決意し、スンジュの入学を心ときめかせて待ちました。
担任でも何でもない立場のかなしさで、私はスンジュとまとまった話をすることもままならず、朝と帰りに「スンジュ、アンニョン」「スンジュ、チャルガ(さようなら)」と挨拶するのが精一杯でした。本当は「自分の名前を忘れないで」と言いたかったのですが、自分の本名を何の苦しみも矛盾もなく名乗れる日本人の立場からは、口が裂けても言える言葉ではありませんでした。
心痛む追憶が一つあります。ある日、いつものようにスンジュに朝鮮語で挨拶をした時に、担任のひとりが「ここは日本だ」と私にすごんできたことがありました。その時、私は何も言い返せませんでした。とっさのこととは言え、差別を黙認し、スンジュを守ることができなかった。これは、ひとりの日本人として私が一生背負っていくべき罪です。
スンジュはまもなく病気が進行し、入院、手術、退院してつかの間の学校生活を送りまた入院、とすさまじい闘病生活を送りました。その間に私のできたことといったら、学校の様子などあたりさわりのないことを拙い朝鮮語でつづった手紙をたまに送ることだけでした。
五月。
スンジュは世を去りました。
私には大きな後悔が残りました。勇気を出して、もっと自分の気持ちをさらけだして手紙を書き、互いの間にある「ガラスの壁」を打ち破るべきだった……。学校のある地域は、都内でも在日外国人の多い地域にあります。スンジュとの出会いが残した大きな課題に、この先の人生でどう応えていくか。いまだ糸口すらつかめませんが、二度と後悔だけはしたくないです。
本名を呼び名乗る。
それは、在日の側の解放ではなく、ほかならぬ私たち日本人自身の、人間を取り戻す解放なのです。

