午前六時。
店内の照明がほんの一瞬だけ揺れ、自動ドアの向こうに広がっていた暗い森が消えた。
代わりに戻ってきたのは、まだ朝靄の残る駐車場と、山道沿いのガードレールだった。
昨夜から何度見ても、この切り替わりだけは慣れそうにない。
「瀬尾、床」
「はい」
俺はモップを持ち直した。
二日目の異世界営業は、最初の夜ほど大騒ぎにはならなかった。
その後もレジ対応や補充に追われたが、途中から俺もいちいち驚いている暇がなくなった。
買い物に来たなら客。
分からない金は精算機。
勝手に外へ出ない。
今のところ、それだけ覚えていればどうにかなっている。
六時を過ぎてからは、さらに普通のコンビニだった。
減った商品を前へ出し、ゴミをまとめ、フライヤー周りを拭く。
先輩はカウンター脇の端末を片手に、何かの数字を確認していた。
「また増やすんですか?」
画面を横から覗くと、ホットスナックの発注数が昨日より多い。
「売れたからな」
「このペースで増やして大丈夫なんです?」
「売れなくなったら減らす」
「普通だ」
「コンビニだからな」
異世界につながっているくせに、発注だけはやたら現実的だった。
午前六時五十分を回った頃。
バックヤード側の扉が開いた。
「おはようございます」
聞き慣れない女の声がした。
明るいけれど朝の店内に合わせたような、少し柔らかい声だった。
「おう、水野」
先輩が顔も上げずに返す。
俺が振り向くと、見知らぬ女の子がバックヤードの入口に立っていた。
身長は百六十センチに少し届かないくらいだろうか。
細身で、肩のあたりまで伸びた焦げ茶色の髪を後ろでゆるく一つに束ねている。前髪の隙間から見える目も同じような濃い茶色で、眠そうというより、朝からちゃんと起きている人の目をしていた。
白いTシャツの上に薄手のシャツを羽織り、黒いパンツ。肩には大きめの生成り色のトートバッグを掛けている。
そのバッグの隅には、青や赤の絵の具らしき汚れが薄く残っていた。
女の子は俺を見ると、一度足を止めた。
「あれ、新しい人ですか?」
「ああ。瀬尾」
先輩の紹介が雑すぎる。
「瀬尾悠斗です。一昨日から夜勤に入りました」
「水野彩葉です。朝入ってます。よろしくお願いします」
水野さんは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
俺も慌てて返す。
「昨日は私、休みだったんで。新人さん入ったって聞いてなくて」
「俺も朝番の人が何人いるのかまだ知りません」
「まあ、この店そういうの雑ですよね」
「ですよね」
「おい」
先輩だけが不満そうな声を出した。
水野さんは小さく笑って、そのままバックヤードへ入っていった。
数分後、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン姿で戻ってくる。
胸元には、俺たちと同じ三日月を抱えた白猫。
ただ、先輩が着ている時よりずっと制服らしく見えた。
「引き継ぎあります?」
「特にねえ。揚げ物の発注ちょい増やした」
「またですか?」
水野さんがカウンター脇の端末を覗き込んだ。
画面を何度か指で送ってから、首を傾げる。
「今日も揚げ物の発注、これですか?」
「ああ」
「よく売れますね、この店」
感心したように言ってから、水野さんはホットスナックケースを見た。
朝なので中身はほとんど残っていない。
「そんなに美味しいのかな?」
「全国のミッドマートと同じだろ」
「ですよねえ」
先輩の答えに、水野さんはますます不思議そうな顔をした。
「でも、この山の中でこの数ですよ? 夜中にそんなに人来ます?」
俺の口が開きかけた。
――リザードマンが一人で三つ買うんですよ。
そこまで浮かんで、止まる。
言うな。
二日目に教えられたことが頭の中で鳴った。
事情を知らない相手に、この店のことを事実として話そうとしたら。
俺は、この店のことを全部忘れる。
「瀬尾さん?」
「あ、いや」
「夜勤、結構忙しいんですか?」
「……意外と」
ものすごく曖昧な答えになった。
水野さんは少し首を傾げたが、深く追及はしなかった。
「この辺、夜になると本当に何もないのに。不思議ですね」
「不思議ですね」
俺は心の底から同意した。
先輩は横で、何食わぬ顔をして伝票をまとめている。
「榊原さんは理由知ってるんです?」
「売れるから売れる」
「理由になってないですよ」
「朝からめんどくせえ質問すんな」
「またそれ」
どうやら先輩は朝番相手にも同じらしい。
水野さんが呆れたように笑う。
そのやり取りを見ながら、俺は少しだけ安心した。
この店にも、普通の時間がある。
朝になれば、異世界なんて知らない人が働きに来る。
昨夜、二メートルのリザードマンへ昆布おにぎりを説明していた同じレジで、水野さんが普通に釣り銭を確認している。
どちらが本当のミッドマート北森店なのか。
たぶん、両方なのだろう。
「じゃ、お疲れ」
七時になり、先輩がエプロンを外した。
「お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
俺も水野さんへ頭を下げる。
「瀬尾さんもお疲れさまです。夜勤、大変だと思いますけど頑張ってください」
「ありがとうございます」
「揚げ物いっぱい売ってくださいね」
「……頑張ります」
誰に売っているかは、絶対に言えないけれど。
◇
同じ日の午後十時。
「三日目だな」
店へ入るなり、先輩にそう言われた。
「記録に並びました?」
「並んだな」
「じゃあ明日も来たら新記録ですね」
「そうなるな」
「なんか嫌な記録だな……」
「俺は助かる。新人にまた一から教えんのだりぃから」
「そこは普通に応援してくださいよ」
もうその理由にも慣れてきた。
三日目。
たった三日なのに、ここでは妙に重みがある。
俺は猫のエプロンを結び、昨日より少しだけ迷わず売り場へ出た。
品出し。
期限確認。
レジ。
フライヤー。
二十三時を過ぎる頃には、先輩に言われなくてもホットスナック用の紙袋を補充していた。
「お」
「なんです?」
「いや」
「今、ちょっと成長を認めました?」
「気のせい」
「そこは認めてくださいよ」
先輩は答えず、油温を確認した。
やがて午前零時。
ピッ。
短い電子音。
照明が一瞬揺れ、自動ドアの外から駐車場が消える。
暗い森。
湿った土の匂い。
三日目ともなると、俺も叫ばなくなった。
「慣れたな」
「さすがに同じ変化三回目ですからね」
「じゃあ今日は一人でいけるな」
「何がです?」
「接客」
「客によります」
「来てから考えろ」
その言葉どおり、何が来るかは来るまで分からなかった。
◇
午前零時二十分。
俺は飲料棚の前でペットボトルを補充していた。
冷蔵ケースを開けると、冷気が腕を撫でる。
奥から新しい炭酸水を前へ出し、扉を閉める。
その時だった。
ウィーン。
入口の自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を出す。
けれど、通路の向こうに誰もいない。
自動ドアだけが静かに閉まった。
「……先輩」
「あ?」
「今、ドア開きましたよね」
「開いたな」
「誰もいませんけど」
「そうか?」
「そうかって」
俺は入口を見直した。
やっぱり誰もいない。
森から風でも入ったのだろうか。
そう思って棚へ向き直る。
次の瞬間。
足元から少し離れた場所に置いてあった買い物かごが、ふわりと持ち上がった。
「……え?」
赤い取っ手がひとりでに起きる。
かごは床から三十センチほど浮いたまま、ゆっくり菓子売り場へ動き始めた。
「先輩」
「んー?」
「かごが」
「動いてるな」
「動いてるな、じゃなくて!」
俺はかごを追った。
誰かが持っている。
そうとしか思えない高さと動きだった。
でも、持っている手も腕も身体も見えない。
かごだけが空中を進んでいく。
「何なんですか、あれ!」
「客だろ」
「だから誰が!」
「……お前、見えてねえの?」
「何がですか!」
「あー……そういう感じか」
先輩はレジの向こうから、かごのすぐ横――俺には何も見えない場所へ視線を向けていた。
どうやら先輩には、俺とは違う何かが見えているらしい。
浮いているかごは菓子棚の前で止まった。
小袋のキャンディが一つ、棚からすっと抜ける。
空中で少し傾いたあと、かごの中へ落ちた。
ぽす。
「うわ……」
次に別の棚から小さな袋菓子。
それも浮いて、かごへ入る。
俺は距離を取ったまま、その光景を見守った。
怖い。
怖いのだが、買い物の仕方だけなら普通だ。
商品を選んで、かごへ入れている。
姿が見えないだけで。
「……いらっしゃいませ」
もう一度、小さめの声で言ってみた。
空中のかごが止まった。
少し間があって。
「うむ」
声がした。
「しゃべった!」
「客なんだからしゃべるだろ」
「姿見えないんですよ!?」
声は高くも低くもなく、澄んでいた。
鈴を遠くで鳴らしたような、少し響く声。
どこから聞こえているのかは分からない。
空気そのものが話しているように感じる。
「何か、お探しですか?」
恐る恐る聞く。
「水」
「水ですか?」
「水」
声と同時に、かごが飲料棚の方へ動いた。
「あ、こっちです」
俺も先回りする。
棚にはミネラルウォーター、お茶、ジュース、炭酸水。
見えない客はしばらく迷っているらしい。
かごだけが小さく左右に揺れた。
やがて、さっき俺が補充した炭酸水のペットボトルが棚から浮き上がった。
「それ、炭酸水ですよ」
「たんさんすい」
「えっと、泡が入ってる水です」
「泡を、水に?」
「はい」
自分で言っていて説明が雑だと思った。
ペットボトルが空中でくるりと回る。
透明な液体の中を細かな気泡が上っていった。
「魔法か」
「違います」
たぶん。
少なくとも俺は、炭酸水を魔法で作っているという話を聞いたことはない。
「飲むと、しゅわしゅわします」
「しゅわしゅわ」
「そうです」
「面白い」
ペットボトルがかごへ入った。
一本。
少し間を置いて、もう一本。
「二本いくんですね」
「面白いものは二つ要る」
「そういう基準なんだ」
思わず呟くと、どこからか小さな笑い声がした。
どうやら聞こえていたらしい。
そのあと見えない客は、炭酸水をもう一本追加した。
「三本になってる」
「二つでは足りぬと思った」
「気に入ってるじゃないですか」
俺は少しだけ緊張が解けた。
姿が見えなくても、話してみれば普通の客だ。
普通という言葉の基準が、ここ数日でかなり怪しくなっている気はするけれど。
見えない客がレジへ向かう。
俺もカウンターへ戻ろうとして、一歩下がった。
その瞬間。
肩が何かにぶつかった。
「うわっ!」
何もない空間なのに、確かに感触があった。
冷たい。
硬いというより、水の膜に身体を押し返されたような奇妙な感触。
「痛い」
すぐ横から、さっきの声。
「す、すみません!」
俺は反射的に頭を下げた。
でも、どこへ向かって謝ればいいのか分からない。
右か。
左か。
正面か。
「先輩!」
「なんだよ」
「なんかぶつかりました!」
先輩が一度だけこっちを見た。
それから、あまりにも普通の口調で言った。
「そこ、精霊いるから気をつけろ」
「先に言ってくださいよ!」
思わず声が大きくなった。
「避けると思った」
「見えてないって言ったでしょうが!」
「そうだったな」
「先輩、見えてるんですか?」
「ああ」
「なんで?」
「なんでって言われてもなあ」
先輩は少し考えながら、ホットスナックケースの中で傾いていた紙袋を直した。
「まあ、コンビニのバイトには関係ないことなんて、どうでもいいだろ」
「いや、俺、客が見えてないんですけど」
「……あー」
そこで先輩は、初めて少しだけ真面目に考え込んだ。
「客が見えないのは困るのか?」
「困りますよ!」
「うーん」
「そこで悩むんですか!?」
「声は聞こえてるし、商品も勝手に動くだろ。何とかなるんじゃねえか」
「雑すぎる!」
「今レジ並んでるぞ」
「あっ」
見ると、買い物かごがカウンター前で静かに浮いていた。
客を待たせている。
「すみません、お待たせしました」
「よい」
俺は気持ちを切り替えた。
かごから商品が一つずつ浮かび、レジ台へ置かれていく。
キャンディ。
小袋菓子。
炭酸水が三本。
見えない手があるつもりで見れば、動きは妙に丁寧だった。
俺は一つずつバーコードを読み取る。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
「お会計はこちらでお願いします」
半セルフ精算機を示す。
「ここか」
「はい」
何もない空中から、小さな銀色の硬貨が現れた。
一枚。
二枚。
三枚。
見えない指につままれているのか、硬貨だけが空中を移動し、投入口へ落ちていく。
ちゃりん。
ちゃりん。
画面が勝手に金額を処理する。
もう驚かない。
いや、ちょっとは驚いている。
でも三日目ともなると、レジが異世界の硬貨を受け付けることより、姿のない客がちゃんと一枚ずつ入れていることの方が気になった。
「袋、使いますか?」
「頼む」
「はい」
俺は炭酸水を立てて入れ、その横へ菓子を詰めた。
袋の持ち手をまとめる。
そこで手が止まった。
「……あの」
「何だ」
「どこに渡せばいいです?」
一拍。
「ここ」
「ここってどこです?」
袋の持ち手が、俺の手からふわりと持ち上がった。
「うわ」
反射的に離す。
レジ袋が宙に浮いた。
中に入った三本の炭酸水の重さで少し下へ引っ張られているのに、確かに誰かが持っている。
「ありがとうございました」
「うむ」
袋が入口へ向かって移動する。
自動ドアが開いた。
誰もいないはずの空間が通り過ぎる時、店内にひやりとした風が流れた。
俺の前髪が少し揺れる。
「しゅわしゅわ、楽しみだ」
澄んだ声が残った。
浮いているレジ袋が、そのまま暗い森へ消えていく。
ドアが閉まった。
静かになった店内で、俺はしばらく入口を見つめていた。
「……先輩」
「なんだ」
「精霊ってコンビニ来るんですね」
「来てたな」
「来てたな、じゃなくて」
「俺に言われても知らん」
「ですよね」
もう分かっていた。
この人に聞けば何でも答えが返ってくるわけじゃない。
ただ、俺より少し慣れているだけだ。
いや、少しどころではない気もするが。
「でも」
先輩がホットスナックケースを拭きながら言った。
「普通に接客できてたじゃん」
「普通の接客の中に、透明な客へ袋を渡す業務って入ってます?」
「今日から入った」
「マニュアル更新してくださいよ」
「お前が書け」
「新人にやらせる仕事じゃないでしょ」
「三日目だろ」
「まだ新人ですよ!」
先輩は面倒そうに笑った。
俺はため息をつきながら、浮いていた買い物かごを元の場所へ戻す。
三日前。
俺は面白い話が思いつかないと頭を抱えていた。
今は、朝になれば揚げ物の発注数を不思議がる女の子がいて。
夜になれば、姿の見えない精霊が炭酸水を三本買っていく。
相変わらず、誰にも本当のことは言えない。
分からないことも増えるばかりだ。
それでも。
「瀬尾」
「はい?」
「炭酸水、前出ししとけ。三本減った」
「……はい」
異世界だろうが精霊だろうが、売れた商品は補充する。
どうやら俺は、この店のやり方に少しずつ慣れ始めているらしい。
店内の照明がほんの一瞬だけ揺れ、自動ドアの向こうに広がっていた暗い森が消えた。
代わりに戻ってきたのは、まだ朝靄の残る駐車場と、山道沿いのガードレールだった。
昨夜から何度見ても、この切り替わりだけは慣れそうにない。
「瀬尾、床」
「はい」
俺はモップを持ち直した。
二日目の異世界営業は、最初の夜ほど大騒ぎにはならなかった。
その後もレジ対応や補充に追われたが、途中から俺もいちいち驚いている暇がなくなった。
買い物に来たなら客。
分からない金は精算機。
勝手に外へ出ない。
今のところ、それだけ覚えていればどうにかなっている。
六時を過ぎてからは、さらに普通のコンビニだった。
減った商品を前へ出し、ゴミをまとめ、フライヤー周りを拭く。
先輩はカウンター脇の端末を片手に、何かの数字を確認していた。
「また増やすんですか?」
画面を横から覗くと、ホットスナックの発注数が昨日より多い。
「売れたからな」
「このペースで増やして大丈夫なんです?」
「売れなくなったら減らす」
「普通だ」
「コンビニだからな」
異世界につながっているくせに、発注だけはやたら現実的だった。
午前六時五十分を回った頃。
バックヤード側の扉が開いた。
「おはようございます」
聞き慣れない女の声がした。
明るいけれど朝の店内に合わせたような、少し柔らかい声だった。
「おう、水野」
先輩が顔も上げずに返す。
俺が振り向くと、見知らぬ女の子がバックヤードの入口に立っていた。
身長は百六十センチに少し届かないくらいだろうか。
細身で、肩のあたりまで伸びた焦げ茶色の髪を後ろでゆるく一つに束ねている。前髪の隙間から見える目も同じような濃い茶色で、眠そうというより、朝からちゃんと起きている人の目をしていた。
白いTシャツの上に薄手のシャツを羽織り、黒いパンツ。肩には大きめの生成り色のトートバッグを掛けている。
そのバッグの隅には、青や赤の絵の具らしき汚れが薄く残っていた。
女の子は俺を見ると、一度足を止めた。
「あれ、新しい人ですか?」
「ああ。瀬尾」
先輩の紹介が雑すぎる。
「瀬尾悠斗です。一昨日から夜勤に入りました」
「水野彩葉です。朝入ってます。よろしくお願いします」
水野さんは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
俺も慌てて返す。
「昨日は私、休みだったんで。新人さん入ったって聞いてなくて」
「俺も朝番の人が何人いるのかまだ知りません」
「まあ、この店そういうの雑ですよね」
「ですよね」
「おい」
先輩だけが不満そうな声を出した。
水野さんは小さく笑って、そのままバックヤードへ入っていった。
数分後、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン姿で戻ってくる。
胸元には、俺たちと同じ三日月を抱えた白猫。
ただ、先輩が着ている時よりずっと制服らしく見えた。
「引き継ぎあります?」
「特にねえ。揚げ物の発注ちょい増やした」
「またですか?」
水野さんがカウンター脇の端末を覗き込んだ。
画面を何度か指で送ってから、首を傾げる。
「今日も揚げ物の発注、これですか?」
「ああ」
「よく売れますね、この店」
感心したように言ってから、水野さんはホットスナックケースを見た。
朝なので中身はほとんど残っていない。
「そんなに美味しいのかな?」
「全国のミッドマートと同じだろ」
「ですよねえ」
先輩の答えに、水野さんはますます不思議そうな顔をした。
「でも、この山の中でこの数ですよ? 夜中にそんなに人来ます?」
俺の口が開きかけた。
――リザードマンが一人で三つ買うんですよ。
そこまで浮かんで、止まる。
言うな。
二日目に教えられたことが頭の中で鳴った。
事情を知らない相手に、この店のことを事実として話そうとしたら。
俺は、この店のことを全部忘れる。
「瀬尾さん?」
「あ、いや」
「夜勤、結構忙しいんですか?」
「……意外と」
ものすごく曖昧な答えになった。
水野さんは少し首を傾げたが、深く追及はしなかった。
「この辺、夜になると本当に何もないのに。不思議ですね」
「不思議ですね」
俺は心の底から同意した。
先輩は横で、何食わぬ顔をして伝票をまとめている。
「榊原さんは理由知ってるんです?」
「売れるから売れる」
「理由になってないですよ」
「朝からめんどくせえ質問すんな」
「またそれ」
どうやら先輩は朝番相手にも同じらしい。
水野さんが呆れたように笑う。
そのやり取りを見ながら、俺は少しだけ安心した。
この店にも、普通の時間がある。
朝になれば、異世界なんて知らない人が働きに来る。
昨夜、二メートルのリザードマンへ昆布おにぎりを説明していた同じレジで、水野さんが普通に釣り銭を確認している。
どちらが本当のミッドマート北森店なのか。
たぶん、両方なのだろう。
「じゃ、お疲れ」
七時になり、先輩がエプロンを外した。
「お疲れさまです」
「お疲れさまでした」
俺も水野さんへ頭を下げる。
「瀬尾さんもお疲れさまです。夜勤、大変だと思いますけど頑張ってください」
「ありがとうございます」
「揚げ物いっぱい売ってくださいね」
「……頑張ります」
誰に売っているかは、絶対に言えないけれど。
◇
同じ日の午後十時。
「三日目だな」
店へ入るなり、先輩にそう言われた。
「記録に並びました?」
「並んだな」
「じゃあ明日も来たら新記録ですね」
「そうなるな」
「なんか嫌な記録だな……」
「俺は助かる。新人にまた一から教えんのだりぃから」
「そこは普通に応援してくださいよ」
もうその理由にも慣れてきた。
三日目。
たった三日なのに、ここでは妙に重みがある。
俺は猫のエプロンを結び、昨日より少しだけ迷わず売り場へ出た。
品出し。
期限確認。
レジ。
フライヤー。
二十三時を過ぎる頃には、先輩に言われなくてもホットスナック用の紙袋を補充していた。
「お」
「なんです?」
「いや」
「今、ちょっと成長を認めました?」
「気のせい」
「そこは認めてくださいよ」
先輩は答えず、油温を確認した。
やがて午前零時。
ピッ。
短い電子音。
照明が一瞬揺れ、自動ドアの外から駐車場が消える。
暗い森。
湿った土の匂い。
三日目ともなると、俺も叫ばなくなった。
「慣れたな」
「さすがに同じ変化三回目ですからね」
「じゃあ今日は一人でいけるな」
「何がです?」
「接客」
「客によります」
「来てから考えろ」
その言葉どおり、何が来るかは来るまで分からなかった。
◇
午前零時二十分。
俺は飲料棚の前でペットボトルを補充していた。
冷蔵ケースを開けると、冷気が腕を撫でる。
奥から新しい炭酸水を前へ出し、扉を閉める。
その時だった。
ウィーン。
入口の自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を出す。
けれど、通路の向こうに誰もいない。
自動ドアだけが静かに閉まった。
「……先輩」
「あ?」
「今、ドア開きましたよね」
「開いたな」
「誰もいませんけど」
「そうか?」
「そうかって」
俺は入口を見直した。
やっぱり誰もいない。
森から風でも入ったのだろうか。
そう思って棚へ向き直る。
次の瞬間。
足元から少し離れた場所に置いてあった買い物かごが、ふわりと持ち上がった。
「……え?」
赤い取っ手がひとりでに起きる。
かごは床から三十センチほど浮いたまま、ゆっくり菓子売り場へ動き始めた。
「先輩」
「んー?」
「かごが」
「動いてるな」
「動いてるな、じゃなくて!」
俺はかごを追った。
誰かが持っている。
そうとしか思えない高さと動きだった。
でも、持っている手も腕も身体も見えない。
かごだけが空中を進んでいく。
「何なんですか、あれ!」
「客だろ」
「だから誰が!」
「……お前、見えてねえの?」
「何がですか!」
「あー……そういう感じか」
先輩はレジの向こうから、かごのすぐ横――俺には何も見えない場所へ視線を向けていた。
どうやら先輩には、俺とは違う何かが見えているらしい。
浮いているかごは菓子棚の前で止まった。
小袋のキャンディが一つ、棚からすっと抜ける。
空中で少し傾いたあと、かごの中へ落ちた。
ぽす。
「うわ……」
次に別の棚から小さな袋菓子。
それも浮いて、かごへ入る。
俺は距離を取ったまま、その光景を見守った。
怖い。
怖いのだが、買い物の仕方だけなら普通だ。
商品を選んで、かごへ入れている。
姿が見えないだけで。
「……いらっしゃいませ」
もう一度、小さめの声で言ってみた。
空中のかごが止まった。
少し間があって。
「うむ」
声がした。
「しゃべった!」
「客なんだからしゃべるだろ」
「姿見えないんですよ!?」
声は高くも低くもなく、澄んでいた。
鈴を遠くで鳴らしたような、少し響く声。
どこから聞こえているのかは分からない。
空気そのものが話しているように感じる。
「何か、お探しですか?」
恐る恐る聞く。
「水」
「水ですか?」
「水」
声と同時に、かごが飲料棚の方へ動いた。
「あ、こっちです」
俺も先回りする。
棚にはミネラルウォーター、お茶、ジュース、炭酸水。
見えない客はしばらく迷っているらしい。
かごだけが小さく左右に揺れた。
やがて、さっき俺が補充した炭酸水のペットボトルが棚から浮き上がった。
「それ、炭酸水ですよ」
「たんさんすい」
「えっと、泡が入ってる水です」
「泡を、水に?」
「はい」
自分で言っていて説明が雑だと思った。
ペットボトルが空中でくるりと回る。
透明な液体の中を細かな気泡が上っていった。
「魔法か」
「違います」
たぶん。
少なくとも俺は、炭酸水を魔法で作っているという話を聞いたことはない。
「飲むと、しゅわしゅわします」
「しゅわしゅわ」
「そうです」
「面白い」
ペットボトルがかごへ入った。
一本。
少し間を置いて、もう一本。
「二本いくんですね」
「面白いものは二つ要る」
「そういう基準なんだ」
思わず呟くと、どこからか小さな笑い声がした。
どうやら聞こえていたらしい。
そのあと見えない客は、炭酸水をもう一本追加した。
「三本になってる」
「二つでは足りぬと思った」
「気に入ってるじゃないですか」
俺は少しだけ緊張が解けた。
姿が見えなくても、話してみれば普通の客だ。
普通という言葉の基準が、ここ数日でかなり怪しくなっている気はするけれど。
見えない客がレジへ向かう。
俺もカウンターへ戻ろうとして、一歩下がった。
その瞬間。
肩が何かにぶつかった。
「うわっ!」
何もない空間なのに、確かに感触があった。
冷たい。
硬いというより、水の膜に身体を押し返されたような奇妙な感触。
「痛い」
すぐ横から、さっきの声。
「す、すみません!」
俺は反射的に頭を下げた。
でも、どこへ向かって謝ればいいのか分からない。
右か。
左か。
正面か。
「先輩!」
「なんだよ」
「なんかぶつかりました!」
先輩が一度だけこっちを見た。
それから、あまりにも普通の口調で言った。
「そこ、精霊いるから気をつけろ」
「先に言ってくださいよ!」
思わず声が大きくなった。
「避けると思った」
「見えてないって言ったでしょうが!」
「そうだったな」
「先輩、見えてるんですか?」
「ああ」
「なんで?」
「なんでって言われてもなあ」
先輩は少し考えながら、ホットスナックケースの中で傾いていた紙袋を直した。
「まあ、コンビニのバイトには関係ないことなんて、どうでもいいだろ」
「いや、俺、客が見えてないんですけど」
「……あー」
そこで先輩は、初めて少しだけ真面目に考え込んだ。
「客が見えないのは困るのか?」
「困りますよ!」
「うーん」
「そこで悩むんですか!?」
「声は聞こえてるし、商品も勝手に動くだろ。何とかなるんじゃねえか」
「雑すぎる!」
「今レジ並んでるぞ」
「あっ」
見ると、買い物かごがカウンター前で静かに浮いていた。
客を待たせている。
「すみません、お待たせしました」
「よい」
俺は気持ちを切り替えた。
かごから商品が一つずつ浮かび、レジ台へ置かれていく。
キャンディ。
小袋菓子。
炭酸水が三本。
見えない手があるつもりで見れば、動きは妙に丁寧だった。
俺は一つずつバーコードを読み取る。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
「お会計はこちらでお願いします」
半セルフ精算機を示す。
「ここか」
「はい」
何もない空中から、小さな銀色の硬貨が現れた。
一枚。
二枚。
三枚。
見えない指につままれているのか、硬貨だけが空中を移動し、投入口へ落ちていく。
ちゃりん。
ちゃりん。
画面が勝手に金額を処理する。
もう驚かない。
いや、ちょっとは驚いている。
でも三日目ともなると、レジが異世界の硬貨を受け付けることより、姿のない客がちゃんと一枚ずつ入れていることの方が気になった。
「袋、使いますか?」
「頼む」
「はい」
俺は炭酸水を立てて入れ、その横へ菓子を詰めた。
袋の持ち手をまとめる。
そこで手が止まった。
「……あの」
「何だ」
「どこに渡せばいいです?」
一拍。
「ここ」
「ここってどこです?」
袋の持ち手が、俺の手からふわりと持ち上がった。
「うわ」
反射的に離す。
レジ袋が宙に浮いた。
中に入った三本の炭酸水の重さで少し下へ引っ張られているのに、確かに誰かが持っている。
「ありがとうございました」
「うむ」
袋が入口へ向かって移動する。
自動ドアが開いた。
誰もいないはずの空間が通り過ぎる時、店内にひやりとした風が流れた。
俺の前髪が少し揺れる。
「しゅわしゅわ、楽しみだ」
澄んだ声が残った。
浮いているレジ袋が、そのまま暗い森へ消えていく。
ドアが閉まった。
静かになった店内で、俺はしばらく入口を見つめていた。
「……先輩」
「なんだ」
「精霊ってコンビニ来るんですね」
「来てたな」
「来てたな、じゃなくて」
「俺に言われても知らん」
「ですよね」
もう分かっていた。
この人に聞けば何でも答えが返ってくるわけじゃない。
ただ、俺より少し慣れているだけだ。
いや、少しどころではない気もするが。
「でも」
先輩がホットスナックケースを拭きながら言った。
「普通に接客できてたじゃん」
「普通の接客の中に、透明な客へ袋を渡す業務って入ってます?」
「今日から入った」
「マニュアル更新してくださいよ」
「お前が書け」
「新人にやらせる仕事じゃないでしょ」
「三日目だろ」
「まだ新人ですよ!」
先輩は面倒そうに笑った。
俺はため息をつきながら、浮いていた買い物かごを元の場所へ戻す。
三日前。
俺は面白い話が思いつかないと頭を抱えていた。
今は、朝になれば揚げ物の発注数を不思議がる女の子がいて。
夜になれば、姿の見えない精霊が炭酸水を三本買っていく。
相変わらず、誰にも本当のことは言えない。
分からないことも増えるばかりだ。
それでも。
「瀬尾」
「はい?」
「炭酸水、前出ししとけ。三本減った」
「……はい」
異世界だろうが精霊だろうが、売れた商品は補充する。
どうやら俺は、この店のやり方に少しずつ慣れ始めているらしい。


