十二月に入ってから、夜の山はすっかり冬の顔になった。
ミッドマート北森店でも、入口近くの小さな売り場には厚手の靴下や使い捨てカイロが並び、その横には冬向け商品の販促札が増えている。
けれど、午前零時を過ぎれば、自動ドアの向こうにあるのは日本の寒い駐車場ではない。
黒い森だ。
「先輩、肉まんあと二個です」
「一個追加」
「最近、一個ずつしか追加しませんね」
「廃棄出したくねえからな」
「堅実だ」
「バイトだぞ」
先輩はそう言いながら、レジ横の伝票へ目を落とした。
俺は肉まんを一個だけ蒸し器へ追加する。
異世界につながっていても、売れ残った中華まんは普通に廃棄になる。
その現実感には、もう慣れた。
ウィーン。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
反射で声を出した。
入ってきたのは人間に見える男だった。
年は三十代半ばくらい。
身長は百八十センチを少し超える程度で、がっしりしている。ただ大きいというより、立っているだけで姿勢の良さが分かる体つきだった。
短く整えた焦げ茶色の髪。灰色の目。顎にはうっすらと無精髭がある。
銀色の胸当てと肩当てはよく手入れされているが、細かな傷がいくつも残っていた。濃紺の外套の下には革鎧。腰には、飾り気の少ない長剣が一本。
新品ではない。
ちゃんと使っている装備だ。
男は入店すると、まず店内を一周するように視線を動かした。
それから俺を見る。
「温かい飲み物はどこだ」
「こっちです」
俺は迷わずホット飲料の棚を示した。
剣を持った知らない男が来ても、最初に考えるのが接客になっている。
少し前なら、腰の剣ばかり見ていた気がする。
男は棚の前へ行き、缶コーヒーを一本取った。
黒いやつ。
「それ、甘くないですよ」
「構わん」
「苦いですけど」
「その方がいい」
「了解です」
答えも短い。
男はそのまま弁当棚へ向かい、塩むすびを二個取った。
選び方まで妙に無駄がない。
カウンターの近くでは、常連のリザードマンがチキンの紙袋を受け取っていた。
「今日は三つでいいんですか?」
「うむ」
「仲間の分は?」
「今日は我だけだ」
「助かります」
「なぜだ」
「揚げる数の話です」
リザードマンの喉が低く鳴る。
笑っているらしい。
その横を、さっきの男が通った。
リザードマンは一度だけ男の腰の剣を見たが、特に何も言わなかった。
男の方も、二メートル近いトカゲ人間を見ても足を止めない。
この店に来る客としては、それももう珍しくなかった。
◇
午前一時を少し回った頃。
最初の男は、まだ店内にいた。
日用品棚の前で、使い捨てカイロを手にしている。
「これは何だ」
「袋を開けると温かくなるやつです」
「火は使わない?」
「使わないです」
「魔力も?」
「たぶん使ってないです」
「たぶん?」
「仕組みまで説明しろって言われると、俺も自信ないんで」
男は俺を見た。
「店員なのにか」
「売り方と使い方は分かります」
カウンターの中から先輩が言う。
「十分だろ」
「先輩が言うと説得力あるなあ……」
「何だよ」
「別に」
男はカイロを二つ取った。
その時だった。
ウィーン。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
俺が声を出す。
入ってきた客を見て、最初に思ったのは――魔族っぽい、だった。
人間より少し青みのある灰色の肌。
身長は百八十センチほど。細身だが肩や腕にはしっかり筋肉がついている。
白に近い銀髪を耳の下で切り揃え、額の左右から黒い角が一本ずつ後ろへ流れていた。瞳は暗い赤色で、目つきは鋭い。
黒い長衣の上に、胸と腹だけを守る革と金属の軽い防具。腰には短く湾曲した剣がある。
以前来た魔王軍の将軍とは違う。
少なくとも、俺には同じ人物には見えない。
新しい客だ。
その魔族らしい男が、一歩店内へ入る。
そこで止まった。
灰色の肌の顔が、日用品棚の方を向く。
同時に。
さっきの人間の男も、動きを止めた。
空気が変わった。
本当に、分かるくらい変わった。
さっきまで聞こえていた冷蔵ケースの低い音が、急に大きく感じる。
魔族らしい男の赤い目が細くなる。
「……貴様」
人間の男の声が低くなった。
「なぜここにいる」
「それはこちらの台詞だ、騎士団長」
騎士団長。
俺は男を見る。
やっぱり偉い人だったらしい。
でも、その確認をしている場合ではなかった。
騎士団長の右手が、腰の剣へ下がる。
魔族の男も、身体を半歩だけ斜めにした。
右手が、湾曲した剣の柄へ近づく。
俺の背中が固まった。
あの大剣の男が、一瞬だけ頭をよぎる。
武器を持った客同士。
しかも、どう見ても知り合いではない。
いや。
知り合いではあるのかもしれない。
仲が最悪なだけで。
「先輩」
俺が呼ぶより早かった。
「ここでは剣を抜くな」
先輩の声が飛んだ。
大きくない。
怒鳴ってもいない。
レジの中から、いつもの低い声で言っただけだった。
その直後。
「店の中では争わぬ」
常連のリザードマンまで口を開いた。
チキンの紙袋を片手に持ったまま。
騎士団長の手が止まる。
魔族の男も剣へ触れない。
数秒。
誰も動かなかった。
俺だけが、肉まんの蒸し器の湯気を見ていた。
この状況で、なぜか肉まんだけが平和だった。
「……この者が何者か分かって言っているのか」
騎士団長が先輩を見る。
先輩は伝票を一枚めくった。
「知らん」
「知らない?」
「客だろ」
いつもの答えだった。
魔族の男が鼻で小さく息を吐く。
「随分と呑気な店だ」
「買うなら買え。やるならここでやるな」
先輩が言う。
常連のリザードマンも頷いた。
「ここで揉めれば、他の客が買い物できぬ」
理由が、ものすごく普通だった。
騎士団長が店内を見る。
白い床。
商品棚。
ホットスナックケース。
猫のマークが付いた買い物かご。
それから、剣の柄から手を離した。
「……承知した」
魔族の男も肩の力をわずかに抜く。
「こちらも、店を壊すつもりはない」
「なら離れて買え」
先輩が言った。
「雑!」
思わず突っ込んだ。
「分かりやすいだろ」
「そうですけど!」
騎士団長は何も言わず、日用品棚の奥へ移動した。
魔族の男は反対側の菓子棚へ向かう。
本当に、別々の棚へ行った。
俺はしばらく二人を交互に見ていた。
「瀬尾」
「はい」
「客見すぎ」
「いや、見ますよ!」
「万引き疑ってんのか」
「そういう意味じゃないです!」
◇
それからの十分ほどは、妙な時間だった。
同じ店内に、騎士団長と魔族がいる。
でも二人とも、ちゃんと買い物をしている。
騎士団長はカイロを追加で二つ取り、さっきの缶コーヒーと塩むすびをかごへ入れた。
魔族の男は菓子棚の前でかなり長く悩んだ末、板チョコを二枚取った。
さらに飲料棚へ行き、温かいココアを一本。
俺は少しだけ意外に思ったが、口には出さなかった。
見た目で食べ物の好みを決めつけるな。
前にも学んだ。
二人は互いの位置を気にしている。
騎士団長が右の棚へ動けば、魔族の男は左へずれる。
魔族がレジ側へ近づけば、騎士団長は少し止まる。
一度だけ、二人が飲料棚の角で鉢合わせそうになった。
騎士団長が止まる。
魔族の男も止まる。
俺まで止まる。
三人で数秒、無言になった。
「……どうぞ」
先に言ったのは騎士団長だった。
魔族の男の眉がわずかに上がる。
「譲られる筋合いはない」
「なら、先に行け」
「それを譲ると言うのだ」
「面倒くさいな、あの二人」
俺が小声で言うと、先輩がレジから返した。
「放っとけ」
「こっちの通路塞がれてるんですけど」
「じゃあ言え」
仕方なく俺は二人へ近づいた。
「すみません、通路だけ空けてもらっていいですか?」
騎士団長と魔族の男が、同時に俺を見る。
ちょっと怖い。
でも、言わないと補充ができない。
「商品出したいんで」
俺が抱えていたペットボトルの箱を少し持ち上げる。
二人は無言で左右へ分かれた。
「ありがとうございます」
俺はその間を通った。
剣を持った敵同士らしい二人に道を空けてもらって、水を補充する。
何をしているんだろう、俺は。
箱を開け、一本ずつ棚へ並べる。
背中に視線を感じたが、振り返らない。
こういう時ほど、普通に仕事をした方がいい。
たぶん。
補充を終えて戻ると、二人はもう別方向へ歩いていた。
戦わない。
でも、仲良くなったわけでもない。
その距離感が、むしろ分かりやすかった。
そのあと魔族の男が、温かいココアの缶を持って俺を呼んだ。
「店員」
「はい」
「これは甘いのか」
「かなり甘い方です」
「温かい?」
「そこから取ったなら温かいです」
男は缶を掌で包むように持つ。
金属ではない灰色の指に、白い缶が妙に目立った。
「悪くない」
「飲む前に分かるんですか?」
「冷えた夜に、温かいものを持てるだけでも違う」
「それは分かります」
外の森がどれほど寒いのか、俺には正確には分からない。
でも自動ドアが開くたびに入ってくる冷気なら知っている。
男はココアをかごへ入れた。
その少し向こうで、騎士団長が一瞬こちらを見た。
何も言わず、また自分のかごへ視線を戻す。
先にレジへ来たのは魔族の男だった。
「こちらへどうぞ」
俺は商品を通す。
板チョコ二枚。
ホットココア一本。
それから、いつの間に取ったのか、小袋のナッツ。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
普通の会計音が鳴る。
数歩後ろには騎士団長がいる。
魔族の男は一度だけ振り返った。
騎士団長も見返す。
何も言わない。
「お支払い、こちらです」
俺が精算機を示す。
魔族の男は黒い革袋から暗い銀色の硬貨を出し、一枚ずつ入れた。
ちゃりん。
ちゃりん。
機械は普通に受け付ける。
「袋、使いますか?」
「頼む」
俺はチョコとナッツを袋へ入れ、温かいココアは別に渡した。
「熱いんで気をつけてください」
「分かった」
男は袋を受け取る。
そして、自動ドアへ向かった。
俺は一瞬、騎士団長を見た。
追うのかと思った。
でも騎士団長は動かなかった。
魔族の男が振り返る。
赤い目が、まっすぐ騎士団長を見る。
「外へ出れば、ここではないぞ」
挑発するような声だった。
騎士団長の眉が動く。
俺の胃も動いた気がした。
「お客さん」
先輩が言う。
今度は魔族の男の方を見る。
「店の入口で始めるなよ」
「……分かっている」
魔族はそれだけ返した。
自動ドアが開く。
暗い森へ出ていく。
ドアが閉じた。
騎士団長は、すぐには動かなかった。
「追わないんですか」
口に出してから、余計なことを聞いた気がした。
男は俺を見る。
「今出れば、あれと同じ場所で鉢合わせる」
「ですよね」
「この店の前で騒ぎを起こすのは本意ではない」
「……ありがとうございます」
なぜ俺が礼を言うのか、自分でも分からない。
男は小さく息を吐いた。
「妙な礼だな」
「俺もそう思いました」
先輩が後ろで欠伸をする。
「会計するぞ」
「あ、はい」
俺は騎士団長の商品を受け取った。
缶コーヒー。
塩むすび二個。
使い捨てカイロ四個。
全部普通の商品だ。
レジを通せば、騎士団長でも値段は同じ。
ピッ。
ピッ。
電子音が続く。
会計を終えた男は、温かい缶コーヒーを手にしたまま、店内でさらに数分待った。
その間、常連のリザードマンは二個目のチキンを食べている。
「冷めますよ」
俺がコーヒーを見て言う。
「構わん」
「じゃあ、もう一本買います?」
「商売がうまいな」
「コンビニ店員なんで」
俺が言うと、先輩が小さく笑った。
「何ですか」
「いや」
騎士団長も、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
でも、それだけだった。
魔族とのことを話すわけでもない。
誰なのか説明するわけでもない。
俺も聞かなかった。
やがて男は入口へ向かう。
「世話になった」
「ありがとうございました」
「またどうぞ」
俺が言うと、一度だけ振り返った。
「……次は、あれがいない時にな」
「そこは俺には調整できないです」
「だろうな」
自動ドアが開く。
濃紺の外套が暗い森へ消えた。
ドアが閉じる。
俺はしばらく外を見た。
何も起きない。
剣の音もしない。
少なくとも、店の前では。
「先輩」
「ん」
「何で止まったんですかね、あの二人」
「知らん」
即答だった。
「いや、先輩が止めたんじゃないですか」
「ここでやるなって言っただけだ」
「それで止まるものです?」
「止まっただろ」
「結果論が強い」
常連のリザードマンが最後のチキンを食べ終える。
「この店で争う者は少ない」
俺はそちらを見る。
「やっぱり決まりなんですか?」
「決まりというより、皆が困る」
「皆が」
「店が壊れれば、買えなくなる」
リザードマンが空になった紙袋を見る。
「それは困る」
「理由、チキンですか?」
「重要だ」
「重要なんだ……」
先輩がレジの中から言う。
「お前も肉まんなくなったら困るだろ」
「俺はそこまで命懸けじゃないです」
「太るくらい食ってるのに?」
「その話まだ引っ張ります?」
リザードマンの喉がまた低く鳴った。
俺は息を吐く。
何があの二人を止めたのか、結局は分からない。
先輩の声なのか。
常連たちの間で積み上がったものなのか。
それとも、二人ともこの店を巻き込みたくなかっただけなのか。
ただ一つだけ確かなのは。
敵同士らしい二人が同じ店に入ってきて。
剣を抜かず。
別々の棚で買い物をして。
一人ずつレジで金を払い。
別々に帰っていったことだ。
それで十分だった。
俺は空いたホット飲料の棚を前へ出す。
先輩は伝票へ戻る。
常連は追加のチキンを頼むかどうか悩んでいる。
深夜のコンビニは、何事もなかったみたいに営業を続けていた。



