数日経つだけで、山の夜はずいぶん冷えるようになった。
午後十一時半。
俺は飲料ケースの前にしゃがみ込み、奥の商品を前へ出していた。冷たいお茶や水の隣では、少し前まで狭かった温かい飲み物の区画が二段に増えている。
缶コーヒー。ミルクティー。緑茶。ほうじ茶。
赤い「温」の表示が並んでいるだけで、売り場まで少し暖かく見えた。
「先輩、ホット増えましたね」
「寒くなったからな」
レジの中で榊原先輩が答える。
「最近そればっかりですね」
「季節の話したいんじゃなかったのか」
「もうちょっと情緒ある返しを期待してるんですよ」
「コンビニで?」
「コンビニでも」
先輩は興味をなくしたように納品伝票へ視線を戻した。
俺は立ち上がり、今度は常温の飲料棚を見る。
働き始めた頃は、売り場なんて一年中だいたい同じだと思っていた。
実際には違う。
中華まんが始まった。温かい飲み物が増えた。冷たい麺の棚は小さくなり、代わりにスープの種類が増えている。
毎日見ていると分かりにくいのに、何日か単位で見ると少しずつ店の顔が変わっていた。
「異世界の客も温かいの買いますかね」
「寒けりゃ買うだろ」
「向こうも寒くなってるんですか?」
「知らん」
「そこは知らないんだ」
「外見りゃ寒そうではある」
それ以上は言わない。
先輩が知っているのは、たぶん自分で見た範囲だけだ。
俺も最近は、そこを無理に聞かないようになった。
◇
午前零時を過ぎる。
自動ドアの向こうから駐車場が消え、暗い森が戻ってきた。
木々の間を抜ける風が強い。葉の擦れる音が、ガラス越しにもかすかに聞こえる。
「向こうも寒そうですね」
「そうだな」
「今日は認めるんだ」
「見りゃ分かる」
そのまま三十分ほど、客は来なかった。
俺はレジ周りを拭き、先輩は発注端末を見ている。
午前零時四十分。
ウィーン。
「いらっしゃいませ」
反射で声を出して、入口を見る。
入ってきたのは、一人の男だった。
人間に見える。
年は三十歳前後だろうか。背は俺より少し高い程度で、体格は細い。淡い灰色の髪を首の後ろで短く束ね、頬は少しこけていた。
白を基調にした長衣の上から、青い縁取りの入った外套を羽織っている。胸元には銀色の小さな円環。腰には革袋と、細長い本のようなものが吊られていた。
手には木の杖。
杖の先端にも、胸元と同じ円環の飾りが付いている。
服装だけなら、たぶん神官とか僧侶とか、そういう人だと思う。
ただし、神聖そうなのは服だけだった。
外套の裾は泥で汚れ、革靴は白っぽい土埃をかぶっている。肩は落ち、目の下には薄い隈。店へ入った瞬間に大きく息を吐いた。
疲れている。
それは俺でも分かった。
「水はあるか」
声まで少しかすれていた。
「ありますよ。こっちです」
俺は飲料ケースへ案内する。
男はついてきたが、歩き方が少し重い。
「普通の水なら、この辺です」
ミネラルウォーターの列を指す。
男は透明なペットボトルを一本手に取った。
「これは水か」
「はい」
「冷たいな」
「冷やしてますから」
「湯は?」
「飲み物なら温かいお茶とかあります。お湯だけならカップ麺用の給湯器がありますけど」
「麺?」
「今は忘れてください」
説明を増やすと長くなる。
男は素直に頷いた。
「では、水でよい」
そう言ったものの、棚の前から動かない。
視線が隣へ移る。
そこには、透明に近い薄い色のスポーツ飲料が並んでいた。
白と淡い青を基調にしたラベル。
男が一本取る。
「これは?」
「スポーツ飲料です」
「すぽーつ」
「……ですよね」
通じるとは思っていなかった。
「たくさん歩いたり、汗をかいたりした時に飲むものです。水だけじゃなくて、塩分とか糖分とかも入ってます」
「塩と糖?」
「そうです」
「疲れた者が飲む?」
「そういう時にも飲みます」
男の目が少し変わった。
透明なボトルを、店の照明へかざす。
中の液体が白い光を通した。
「では、これは聖水か」
「違います」
俺より先に、後ろから声が飛んできた。
先輩だった。
即答。
男が振り返る。
俺も振り返る。
「先輩、早いですね」
「違うもんは違うだろ」
「いや、俺も違うと思いますけど」
男はボトルを見直した。
「聖水ではない?」
「普通の飲み物です」
「……もしかして、神官さんですか?」
「ああ。神官だ」
「なるほど」
胸元の円環も杖も、それなら納得がいく。
「疲れた者が飲むのに?」
「飲んだから急に傷が治ったり、魔物が逃げたりはしません」
「では、何が起こる」
「喉が潤います」
「水でもよいのでは?」
「それはそうなんですけど」
説明が難しい。
俺はラベルの裏を見た。
栄養成分。
炭水化物。
食塩相当量。
細かい数字。
俺だって普段、全部を理解して飲んでいるわけではない。
「汗をかいた時って、水分だけじゃなくて塩分も減るじゃないですか」
「減るのか?」
「……たぶん」
言ってから不安になる。
「たぶん?」
「俺、医者じゃないんで」
「店員だろう」
「店員は何でも知ってる職業じゃないですよ!」
先輩がレジから言う。
「水分と塩分補う飲み物で合ってる」
「先輩、知ってるなら最初から助けてくださいよ」
「聞かれてねえし」
「今めちゃくちゃ困ってたでしょうが」
男は俺たちを交互に見た。
「つまり、術も加護も使わずに身体を助ける水なのか」
「そこまで大げさなものじゃないです」
「薬では?」
「ないです」
「聖水でもない」
「ないです」
「ただの水でもない」
「まあ、はい」
男は黙った。
ややこしくなった。
「飲めば分かりますけど」
「飲んでよいのか?」
「会計してからなら」
「先に飲むと?」
「困ります」
「なぜだ」
「まだ店の商品なんで」
「なるほど」
そこはすぐ納得してくれた。
◇
男は普通の水を棚へ戻し、スポーツ飲料を一本だけ持ってレジへ来た。
俺はバーコードを通す。
ピッ。
「お支払いは精算機へお願いします」
男は腰の革袋から銀色の硬貨を二枚出した。
ちゃりん。
精算機がいつもどおり処理する。
異世界の神官らしき人間が、現代のスポーツ飲料を買う。
そこだけ切り取ればかなり変な光景なのに、会計音はいつもと同じだった。
「これで飲んでよい?」
「どうぞ」
男はキャップを見た。
「開かない」
「回してください」
「回す?」
「こうです」
俺は自分の手で回す真似をする。
男がボトルの蓋を掴んだ。
きゅっ。
ぱきっ。
封が切れる音。
男の眉が上がる。
「音がした」
「最初だけです」
「封印か」
「封ではありますけど、たぶん今考えてるほど大げさじゃないです」
男は少し警戒しながら、ボトルへ口を付けた。
一口。
止まる。
「甘い」
「甘いですよ」
「少し塩もある」
「たぶんそれがさっき説明したやつです」
もう一口。
今度は長かった。
喉が何度も動く。
男は一気にボトルの三分の一ほど飲み、ふう、と息を吐いた。
「……うまい」
「かなり喉渇いてたんじゃないですか?」
「ああ」
「どれくらい歩いたんです?」
「日が沈む前から、ほとんど休んでいない」
「それ先に言ってくださいよ」
「なぜだ」
「そりゃ疲れますって」
男は自分の手を見る。
指を握る。
肩を回す。
さっきまで落ちていた背筋が、ほんの少し伸びた。
「効いている」
「だから薬じゃないですって」
「だが楽になった」
「休んで飲み物飲んだからじゃないですか?」
先輩が伝票から目を上げた。
「単に水分足りてなかったんだろ」
「そう、それです」
「水分が足りないと、こうなるのか」
男は真面目な顔で聞く。
「なることはあると思います」
「聖別せずとも?」
「しなくても」
「祈りも?」
「いらないです」
男はスポーツ飲料を見る。
どうしても納得しきれないらしい。
「便利な水だな」
「水って言い切ると怒られそうですけどね」
「誰に?」
「作ってる人とか」
男は少しだけ笑った。
疲れていたせいか、入ってきた時よりずっと柔らかい顔に見えた。
◇
「同じものを、あと四本」
「増えたな」
俺は飲料ケースを見た。
「旅の分ですか?」
「仲間がいる」
「外で待ってるんです?」
「森の少し先で休ませている。私だけ水を探しに来た」
「それなら普通の水も持っていった方がいいですよ」
「これだけでは駄目か?」
「何でもこれだけで済ませる飲み物ではないと思います」
俺は隣のミネラルウォーターを指す。
「普通の水も何本か。あと、冷たいのが嫌なら温かいお茶もあります」
「茶?」
「葉っぱをお湯で出した飲み物です」
「それは分かる」
「よかった。久しぶりに一発で通じた」
男は温かい飲料の棚へ移った。
一本触る。
「温かい」
「温めてあります」
「これも術ではない?」
「違います」
「加護でも?」
「ないです」
「この店は、術を使わずに妙なことをするな」
「俺に言われても困ります」
その感想には少し同意する。
異世界の客から見れば、コピー機も電子レンジも保温ケースも自動ドアも、十分おかしな道具なのだろう。
俺にとっては、どれもコンビニにある普通の設備だ。
普通の境目が、最近少し分からなくなってきた。
男は温かいほうじ茶を二本選び、普通の水を三本追加した。
さらにスポーツ飲料を四本。
かごが一気に重くなる。
「持てます?」
「問題ない」
「杖もありますよ」
「この程度なら」
さっきまで疲れ切っていた人の台詞とは思えない。
「本当に少し元気になってるな……」
「だから効いたと言った」
「薬じゃないですからね」
「分かっている」
一拍置く。
「聖水でもない」
「そうです」
「分かっている」
絶対まだ引っかかっている。
◇
二度目の会計を終え、俺は袋詰めを手伝った。
水は下。
温かいお茶は別の袋。
冷たいものと一緒に入れたら、せっかく温めてある意味がない。
「袋を分けるのか」
「温かいのと冷たいの、一緒にするとぬるくなるんで」
「そこまで考えるのだな」
「コンビニ店員なんで」
言ってから、少しだけ胸を張った。
先輩がこっちを見る。
「何です?」
「別に」
「今、何か言おうとしたでしょ」
「してねえ」
たぶん「お前が作った店じゃない」とでも言うつもりだったのだろう。
男は袋を受け取る前に、ふとスポーツ飲料を一本持ち上げた。
「一つ聞きたい」
「はい」
「これを私が聖別したら、聖水になるのか?」
「……俺に聞くんですか?」
「店員だろう」
「神官さんの方が詳しいでしょ!」
男は初めて、はっきり笑った。
「それもそうだ」
「そうですよ!」
先輩が横から言う。
「やるなら買った後にしろよ」
「先輩も乗らないでください」
「会計前の商品に勝手なことされる方が困る」
「そこは確かに」
男は真面目に頷いた。
「では、持ち帰ってから試す」
「試すんだ……」
止める理由はない。
もう会計は済んでいる。
その先でスポーツ飲料が本当に聖水になるのかは、俺には分からない。
というか、できれば知らないままでいたい。
「ありがとうございました」
自動ドアが開く。
冷たい風が、男の外套の裾を揺らした。
男は一歩外へ出て、振り返る。
「店員」
「はい?」
「助かった」
今度は、入ってきた時よりずっと声がしっかりしていた。
「仲間にも、これは聖水ではないと伝えておく」
「そこ強調してください」
「だが、疲れた時にはよい」
「それなら合ってます」
男は頷き、暗い森へ歩いていった。
杖の音が遠ざかる。
やがて木々の間に姿が消えた。
自動ドアが閉まる。
俺は飲料ケースを見る。
スポーツ飲料の列に、四本分の隙間が空いていた。
「……先輩」
「ん」
「向こうであれが『聖水じゃないけど効く水』みたいな名前で広まったらどうします?」
「知らん」
「ですよね」
「減ってるぞ」
「はいはい」
俺はケースの扉を開け、奥の商品を前へ出した。
冷たいスポーツ飲料。
その隣には、増え始めた温かいお茶。
聖水ではない。
薬でもない。
それでも、疲れ切った旅人の喉を潤して、少し元気にして帰した。
コンビニの商品としては、それで十分なのかもしれない。



