あの大剣の男が来た夜から、何日か経った。
山の夜は、その間に一段寒くなった気がする。
午後十一時過ぎ。
ミッドマート北森店のガラスの向こうは真っ暗で、駐車場の白線だけが店の明かりに浮かんでいる。
自動ドアが開くたびに、ひやりとした空気が足元へ入り込んだ。
「寒っ」
俺は思わず肩をすくめた。
「山だからな」
榊原先輩はレジの中で納品伝票を見ながら言った。
「先輩、それしか言わないですよね」
「寒いもんは寒いだろ」
「もうちょっと季節を感じるとか」
「感じてる」
「どこで?」
先輩が顎でレジ横を示した。
そこには、少し前までなかった白い保温ケースが置かれている。
透明な扉の内側には、丸い中華まん。
肉まん。
あんまん。
ピザまん。
白い湯気でガラスがうっすら曇っていた。
「売り場で季節感じる人、初めて見ました」
「コンビニ店員だからな」
「それ便利な言葉になってません?」
「実際便利だろ」
否定できない。
秋が深まってきたら、中華まんが増える。
飲料棚も冷たいものばかりではなくなってきた。
入口近くには、温かい缶コーヒーの案内まで出ている。
俺がこの店へ来た頃と、棚の顔が少しずつ変わり始めていた。
毎日同じ場所に立っていると、こういう変化が意外と目につく。
「肉まん、夜中も売れるんですかね」
「売れんじゃねえの」
「異世界の人、肉まん知ってます?」
「知らん」
「でしょうね」
最近、先輩の「知らん」にも種類があることが分かってきた。
本当に知らない時。
知っているけど話す気がない時。
俺には、まだ見分けがつかない。
あの大剣の男が消えた夜のことも、結局それ以上は聞いていなかった。
聞いても答えない気がした。
それに。
今、先輩がしているのは納品伝票の確認だ。
俺がしているのは中華まん用のトングを拭くこと。
異世界の秘密より、目の前の仕事の方が先に来る。
この店では、だいたいいつもそうだった。
◇
午前零時。
短い電子音。
店内の照明が一瞬だけ揺れる。
自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消えた。
代わりに現れる、暗い森。
湿った土の匂い。
夜風に揺れる木の葉。
遠くで聞こえる、何かの鳴き声。
俺はもう叫ばない。
「よし」
レジ横の中華まんケースを見る。
「何がよしなんだ」
「今日は何が最初に売れるかなって」
「暇か」
「ちょっと楽しくなってきたんですよ」
「最初は客見るたび騒いでたのにな」
「成長したって言ってください」
「慣れただけだろ」
だいたい同じ意味だと思う。
零時を過ぎて最初に来たのは、見覚えのない人間の男だった。
年は二十代半ばくらい。
焦げ茶色の髪を短く切り、顎には数日剃っていないような薄い髭がある。
灰色の外套は裾に泥が付き、下には使い込まれた革の胸当て。
腰には短めの剣。
肩から斜めに掛けた布袋は、ところどころ擦れて白くなっている。
いかにも旅の途中という格好だった。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、男は片手を上げた。
「ああ」
それから店の中を見回す。
商品棚。
冷蔵ケース。
レジ。
そして、入口脇。
雑誌棚の横にあるコピー機で視線が止まった。
男はしばらくそこを見ていた。
近づく。
周りを一周する。
正面の画面を見る。
また横へ回る。
「……何してるんだろ」
「見りゃ分かるだろ」
「分かんないから言ってるんですよ」
先輩はレジの中から動かない。
俺は少し様子を見ることにした。
男はコピー機の前で腕を組んだ。
画面を指で一度押す。
反応する。
びくっと手を引っ込める。
もう一度押す。
今度は別の画面が出る。
「……」
完全に困っている。
俺はレジを出た。
「何かお困りですか?」
男が振り向く。
「これを使いたい」
「コピー機ですか?」
「こぴーき」
「ああ、えっと。紙を写す機械です」
「やはりそうか」
男は少し安心したように頷いた。
「聞いたことがある。この店には、紙に描いたものを同じ形のまま増やす箱があると」
「そんな説明で広まってるんだ……」
誰が伝えたのか知らないが、間違ってはいない。
「何をコピーしたいんです?」
「これだ」
男は肩の布袋を下ろした。
中から取り出したのは、丸められた一枚の紙だった。
紙、と言っていいのか少し迷う。
俺たちが使うコピー用紙より厚く、少し黄ばんでいる。
端も綺麗な直線ではない。
何度も広げたり丸めたりしたのか、細かな折れと皺が付いていた。
男が近くの商品棚の端を借りて、それを広げる。
「地図?」
「ああ」
山のような線。
川らしい曲線。
森を示しているのか、細かな木の印。
途中には赤いインクで丸や矢印が書き足されていた。
文字もある。
当然、俺には読めない。
会話は普通に通じるのに、紙に書かれた文字は別だ。
そのあたりは相変わらず不思議だった。
「これ、同じものを作りたいんですか?」
「できるのか?」
「たぶん。大きさも入ると思います」
俺は地図を持ち上げ、コピー機の原稿台と見比べた。
ぎりぎりではない。
普通に収まりそうだ。
「何枚必要です?」
「三枚」
「三枚ですね」
男が俺の顔を見る。
「本当に同じものが三枚できるのか?」
「できますよ」
「今から?」
「今から」
「どれくらいかかる」
「一分もかからないと思います」
「……は?」
どこかで聞いた反応だった。
時給三千円を見た時の俺も、たぶんこんな顔をしていた。
「一分?」
「操作が終わればすぐです」
「待て」
男が地図を押さえた。
「これは宿の書き手に頼めば、早くても半日はかかる」
「手で写すなら、まあ」
「しかも三枚だぞ」
「コピー機なら枚数指定するだけなんで」
男はコピー機を見る。
地図を見る。
俺を見る。
「……魔道具か?」
「違います」
「では何だ」
「コピー機です」
「それは今聞いた」
説明になっていない。
でも、俺もコピー機の内部構造なんて説明できない。
「先輩」
「あ?」
「コピー機って、どういう仕組みでしたっけ」
「俺に聞くな」
「ですよね」
素直に諦めた。
「とにかく、紙を置けば同じものが出てきます」
「雑だな」
「使う分にはそれで十分です」
男はまだ疑っている顔だった。
俺は原稿台の蓋を開ける。
「地図、ここに置いてください。描いてある面を下に」
「下?」
「はい」
「見えなくなるぞ」
「それでいいんです」
「本当に?」
「本当に」
男は慎重に地図を置いた。
少しずれる。
「もうちょい右です」
「こうか」
「はい。で、蓋を閉めます」
蓋を下ろす。
男の眉が寄った。
「挟んだぞ」
「潰してないです」
「見えない」
「だから大丈夫ですって」
「お前を信じるぞ」
「コピー一枚でそんな重いこと言わないでください」
画面を操作する。
地図には赤い書き込みがある。
「色も残したいですよね?」
「色?」
「赤い印とか」
「ああ。それが消えると困る」
「じゃあカラーで」
「からー」
「色付きです」
枚数を三。
サイズを確認。
設定を終える。
「じゃあ、押しますよ」
「何を」
「これを」
スタートボタンを押した。
コピー機の中で、低い機械音が鳴る。
原稿台の下を光が走った。
「おおっ!?」
男が一歩下がった。
「大丈夫です」
「光ったぞ!」
「光ります」
「地図は!?」
「燃えてないです!」
機械の中で紙が動く音がする。
数秒。
一枚目が出てきた。
男が固まる。
二枚目。
三枚目。
俺は排出口から紙を取った。
「はい」
渡す。
男は受け取らない。
元の地図を見る。
俺の手にある三枚を見る。
もう一度、元の地図を見る。
「……同じだ」
「コピーなんで」
ようやく一枚を手に取った。
目を近づける。
赤い丸。
細い川の線。
隅に書かれた文字。
地図の端に付いていた茶色い染みまで、そのまま写っている。
「染みも同じだ」
「そこは別にいらないですけどね」
「線の太さまで同じだ」
「そういう機械なんで」
「この小さな傷も」
「そこまで見るんです?」
男は聞いていない。
三枚を並べる。
また見比べる。
そして突然、俺を見る。
「もう三枚」
「増えた」
「六枚欲しい」
「最初三枚って言ってましたよね」
「予備だ」
プリンを二つ追加した女王陛下と同じことを言っている。
予備という言葉は、案外便利なのかもしれない。
「分かりました。じゃあもう三枚」
「待て」
「まだ何か?」
「この紙に、今から印を足したら」
「それをまたコピーできます」
「別の地図になる?」
「書き足した状態のコピーになりますね」
「……」
男が黙った。
まずい。
何かものすごいものを教えてしまった顔をしている。
「先輩」
「ん」
「これ、異世界の人に教えて大丈夫なんですかね」
「客が使う設備だろ」
「でも、地図を一瞬で増やせるんですよ」
「そうだな」
「すごくないです?」
「日本じゃ普通だろ」
「少なくとも、この人には普通じゃないんですよ」
「俺に言われても知らん」
またそれだ。
男はコピーした地図を大事そうに重ねた。
「これがあれば、別れて動く時に全員が地図を持てる」
「ああ、そういうことですか」
「今までは一枚しかなければ、地図を持つ者から離れられなかった」
なるほど。
単に便利というだけではないらしい。
「でも、写した地図が正しいかは元の地図次第ですよ」
「どういう意味だ」
「元が間違ってたら、その間違いも全部同じになります」
男は手元の地図を見る。
「……確かに」
「染みまで同じなんで」
「それはもう分かった」
少しだけ笑った。
「あと、俺はこの地図に何が書いてあるか読めないんで。内容までは保証できません」
「読めないのか?」
「話は通じるんですけど、文字は別みたいで」
「妙な店だな」
「それ、こっちも思ってます」
コピーをもう三枚出す。
合計六枚。
利用枚数を確認して、コピー代はレジ側で店内サービスとして会計する。
男はいつものように見慣れない硬貨を精算機へ入れた。
機械が勝手に処理する。
俺には相変わらず、そっちの方がコピー機より不思議だった。
◇
「ところで」
会計を終えた男が、コピーした地図を布袋へ入れながら言った。
「あれは何だ?」
指差したのはレジ横。
中華まんの保温ケースだった。
「肉まんです」
「肉?」
「中に肉が入ってるやつです」
男の目が少し変わった。
「温かいのか?」
「温かいですよ」
「一つくれ」
「はい」
地図を六枚作った直後でも、やることはいつもと同じだ。
俺はトングを取った。
白い肉まんを一つ挟み、専用の紙袋へ入れる。
「熱いので気をつけてください」
「分かった」
男は受け取った紙袋を両手で持った。
「温かいな」
「そういう商品です」
すぐ食べるのかと思ったが、男は少し迷ってから布袋の口を開いた。
六枚の地図が入っている。
俺は嫌な予感がした。
「待ってください」
「何だ」
「肉まんと地図、一緒に入れない方がいいです」
「なぜだ」
「湿気ます」
男が止まる。
紙袋を見る。
地図を見る。
「……危なかった」
「せっかくコピーしたのに全滅させないでくださいよ」
「この店は難しいな」
「コピー機より肉まんの方で苦戦しないでください」
結局、男は肉まんをその場で食べることにした。
入口脇の邪魔にならない場所で、紙袋を開く。
一口。
湯気が上がる。
「熱っ」
「言いましたよね!?」
「思ったより熱い!」
「だから熱いって!」
先輩がレジの中で小さく欠伸をした。
「今日も平和だな」
「どこ見て言ってるんですか」
◇
その後、冒険者は水と携帯用の菓子を少し買って帰った。
コピーした地図は、肉まんとは別の布に包んでいた。
自動ドアが閉まる。
森の暗闇へ姿が消える。
俺はコピー機を見る。
さっきまでと何も変わらない。
白い筐体。
大きな画面。
紙を入れて、同じものを出す。
日本では珍しくもない機械だ。
「先輩」
「ん」
「コピー機って、すごいですね」
「今さら?」
「いや、今までコピー機見て感動したことなかったんで」
「普通そうだろ」
「でも、ない場所から見たら、めちゃくちゃ便利なんだなって」
「便利なもんは、慣れると普通になるからな」
先輩はそう言って、伝票へ視線を戻した。
俺は少しだけ先輩を見た。
今の言葉に、何か意味があるのか。
それとも、ただコピー機の話をしただけなのか。
やっぱり分からない。
「瀬尾」
「はい」
「コピー用紙減った」
「あ」
「補充」
「はいはい」
結局、感慨より先に補充だった。
◇
午前六時。
森が消えた。
朝の駐車場が戻ってくる。
空気は冷たく、ガラスの向こうの山には薄い霧がかかっていた。
異世界営業が終わった後、俺はコピー機の用紙を補充し、床を掃き、減った商品を前へ出した。
中華まんは肉まんが二つ。
あんまんが一つ。
夜のうちに売れていた。
午前六時五十分過ぎ。
バックヤード側の扉が開く。
「おはようございます」
水野さんだった。
肩ほどの焦げ茶色の髪を後ろでゆるく束ね、今日は薄手の上着を一枚多く羽織っている。
肩の生成り色のトートバッグには、いつものように薄い絵の具汚れが残っていた。
「おはようございます」
「寒くなりましたね」
「山、思ったより早いですね」
「瀬尾さん、まだ秋の山なめてました?」
「ちょっとだけ」
「冬もっと寒いですよ」
「今から帰りたくなってきた」
「これから帰るんですよね?」
「そうでした」
水野さんが笑う。
それから、レジ横を見た。
「あ、中華まん始まったんですね」
「数日前からです」
「私が来る頃、いつも少なくなってるんですよね」
「夜、意外と売れるんで」
「この店、夜だけ妙に食べ物売れますよね」
「……そうですね」
返事が一瞬遅れた。
水野さんは気づいたのか気づいていないのか、中華まんケースへ顔を寄せる。
「新しいピザまん、まだ食べてないんですよ」
「俺もです。匂いだけ毎晩嗅いでます」
「一番つらいやつじゃないですか」
「勤務中に食うわけにもいかないんで」
「帰りに買えばいいのに」
「朝にピザまんかあ」
「夜勤明けなら朝ごはんじゃないですか?」
「言われてみれば」
生活時間がずれていると、何が朝食なのか分からなくなる。
水野さんはレジに入ろうとして、ふとコピー機を見た。
「あれ」
「はい?」
「コピー用紙、昨日補充したばっかりじゃなかったでしたっけ」
俺の動きが止まった。
「よく覚えてますね」
「美大生、紙の減りには敏感なんです」
「そういうもの?」
「たぶん」
水野さんがコピー機の下段を見る。
「結構使いました?」
「あー……地図を六枚ほど」
「地図?」
「はい」
「夜中に?」
「夜中に」
水野さんは笑った。
「山の中で、夜中に地図を六枚コピーして、中華まんが売れる」
「並べると怪しいですね」
「この店、何屋なんでしょうね」
「コンビニです」
レジの奥から先輩の声が飛んできた。
水野さんがそちらを見る。
「榊原さん、それで全部済ませますよね」
「コンビニだからな」
「ほら」
俺と水野さんの声が重なった。
先輩は気にせず欠伸をする。
胸元では、三日月を抱いた白猫がいつもどおり笑っていた。
俺はレジ横の中華まんケースを見る。
コピー機を見る。
夜中に地図を六枚増やして。
朝にはピザまんの話をする。
どっちも同じ店の、一晩の出来事だ。
「瀬尾さん」
「はい?」
「帰るなら、ピザまん一個残ってますよ」
水野さんがケースを指した。
「……買って帰ろうかな」
「匂いだけで終わるのもったいないですよ」
「じゃあ一個」
「お買い上げありがとうございます」
「店員同士でやるやつですか、それ」
朝七時。
俺は夜勤を上がる前に、結局ピザまんを一つ買った。
外へ出る。
冷たい朝の空気の中で、紙袋だけがやけに温かかった。
山の夜は、その間に一段寒くなった気がする。
午後十一時過ぎ。
ミッドマート北森店のガラスの向こうは真っ暗で、駐車場の白線だけが店の明かりに浮かんでいる。
自動ドアが開くたびに、ひやりとした空気が足元へ入り込んだ。
「寒っ」
俺は思わず肩をすくめた。
「山だからな」
榊原先輩はレジの中で納品伝票を見ながら言った。
「先輩、それしか言わないですよね」
「寒いもんは寒いだろ」
「もうちょっと季節を感じるとか」
「感じてる」
「どこで?」
先輩が顎でレジ横を示した。
そこには、少し前までなかった白い保温ケースが置かれている。
透明な扉の内側には、丸い中華まん。
肉まん。
あんまん。
ピザまん。
白い湯気でガラスがうっすら曇っていた。
「売り場で季節感じる人、初めて見ました」
「コンビニ店員だからな」
「それ便利な言葉になってません?」
「実際便利だろ」
否定できない。
秋が深まってきたら、中華まんが増える。
飲料棚も冷たいものばかりではなくなってきた。
入口近くには、温かい缶コーヒーの案内まで出ている。
俺がこの店へ来た頃と、棚の顔が少しずつ変わり始めていた。
毎日同じ場所に立っていると、こういう変化が意外と目につく。
「肉まん、夜中も売れるんですかね」
「売れんじゃねえの」
「異世界の人、肉まん知ってます?」
「知らん」
「でしょうね」
最近、先輩の「知らん」にも種類があることが分かってきた。
本当に知らない時。
知っているけど話す気がない時。
俺には、まだ見分けがつかない。
あの大剣の男が消えた夜のことも、結局それ以上は聞いていなかった。
聞いても答えない気がした。
それに。
今、先輩がしているのは納品伝票の確認だ。
俺がしているのは中華まん用のトングを拭くこと。
異世界の秘密より、目の前の仕事の方が先に来る。
この店では、だいたいいつもそうだった。
◇
午前零時。
短い電子音。
店内の照明が一瞬だけ揺れる。
自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消えた。
代わりに現れる、暗い森。
湿った土の匂い。
夜風に揺れる木の葉。
遠くで聞こえる、何かの鳴き声。
俺はもう叫ばない。
「よし」
レジ横の中華まんケースを見る。
「何がよしなんだ」
「今日は何が最初に売れるかなって」
「暇か」
「ちょっと楽しくなってきたんですよ」
「最初は客見るたび騒いでたのにな」
「成長したって言ってください」
「慣れただけだろ」
だいたい同じ意味だと思う。
零時を過ぎて最初に来たのは、見覚えのない人間の男だった。
年は二十代半ばくらい。
焦げ茶色の髪を短く切り、顎には数日剃っていないような薄い髭がある。
灰色の外套は裾に泥が付き、下には使い込まれた革の胸当て。
腰には短めの剣。
肩から斜めに掛けた布袋は、ところどころ擦れて白くなっている。
いかにも旅の途中という格好だった。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、男は片手を上げた。
「ああ」
それから店の中を見回す。
商品棚。
冷蔵ケース。
レジ。
そして、入口脇。
雑誌棚の横にあるコピー機で視線が止まった。
男はしばらくそこを見ていた。
近づく。
周りを一周する。
正面の画面を見る。
また横へ回る。
「……何してるんだろ」
「見りゃ分かるだろ」
「分かんないから言ってるんですよ」
先輩はレジの中から動かない。
俺は少し様子を見ることにした。
男はコピー機の前で腕を組んだ。
画面を指で一度押す。
反応する。
びくっと手を引っ込める。
もう一度押す。
今度は別の画面が出る。
「……」
完全に困っている。
俺はレジを出た。
「何かお困りですか?」
男が振り向く。
「これを使いたい」
「コピー機ですか?」
「こぴーき」
「ああ、えっと。紙を写す機械です」
「やはりそうか」
男は少し安心したように頷いた。
「聞いたことがある。この店には、紙に描いたものを同じ形のまま増やす箱があると」
「そんな説明で広まってるんだ……」
誰が伝えたのか知らないが、間違ってはいない。
「何をコピーしたいんです?」
「これだ」
男は肩の布袋を下ろした。
中から取り出したのは、丸められた一枚の紙だった。
紙、と言っていいのか少し迷う。
俺たちが使うコピー用紙より厚く、少し黄ばんでいる。
端も綺麗な直線ではない。
何度も広げたり丸めたりしたのか、細かな折れと皺が付いていた。
男が近くの商品棚の端を借りて、それを広げる。
「地図?」
「ああ」
山のような線。
川らしい曲線。
森を示しているのか、細かな木の印。
途中には赤いインクで丸や矢印が書き足されていた。
文字もある。
当然、俺には読めない。
会話は普通に通じるのに、紙に書かれた文字は別だ。
そのあたりは相変わらず不思議だった。
「これ、同じものを作りたいんですか?」
「できるのか?」
「たぶん。大きさも入ると思います」
俺は地図を持ち上げ、コピー機の原稿台と見比べた。
ぎりぎりではない。
普通に収まりそうだ。
「何枚必要です?」
「三枚」
「三枚ですね」
男が俺の顔を見る。
「本当に同じものが三枚できるのか?」
「できますよ」
「今から?」
「今から」
「どれくらいかかる」
「一分もかからないと思います」
「……は?」
どこかで聞いた反応だった。
時給三千円を見た時の俺も、たぶんこんな顔をしていた。
「一分?」
「操作が終わればすぐです」
「待て」
男が地図を押さえた。
「これは宿の書き手に頼めば、早くても半日はかかる」
「手で写すなら、まあ」
「しかも三枚だぞ」
「コピー機なら枚数指定するだけなんで」
男はコピー機を見る。
地図を見る。
俺を見る。
「……魔道具か?」
「違います」
「では何だ」
「コピー機です」
「それは今聞いた」
説明になっていない。
でも、俺もコピー機の内部構造なんて説明できない。
「先輩」
「あ?」
「コピー機って、どういう仕組みでしたっけ」
「俺に聞くな」
「ですよね」
素直に諦めた。
「とにかく、紙を置けば同じものが出てきます」
「雑だな」
「使う分にはそれで十分です」
男はまだ疑っている顔だった。
俺は原稿台の蓋を開ける。
「地図、ここに置いてください。描いてある面を下に」
「下?」
「はい」
「見えなくなるぞ」
「それでいいんです」
「本当に?」
「本当に」
男は慎重に地図を置いた。
少しずれる。
「もうちょい右です」
「こうか」
「はい。で、蓋を閉めます」
蓋を下ろす。
男の眉が寄った。
「挟んだぞ」
「潰してないです」
「見えない」
「だから大丈夫ですって」
「お前を信じるぞ」
「コピー一枚でそんな重いこと言わないでください」
画面を操作する。
地図には赤い書き込みがある。
「色も残したいですよね?」
「色?」
「赤い印とか」
「ああ。それが消えると困る」
「じゃあカラーで」
「からー」
「色付きです」
枚数を三。
サイズを確認。
設定を終える。
「じゃあ、押しますよ」
「何を」
「これを」
スタートボタンを押した。
コピー機の中で、低い機械音が鳴る。
原稿台の下を光が走った。
「おおっ!?」
男が一歩下がった。
「大丈夫です」
「光ったぞ!」
「光ります」
「地図は!?」
「燃えてないです!」
機械の中で紙が動く音がする。
数秒。
一枚目が出てきた。
男が固まる。
二枚目。
三枚目。
俺は排出口から紙を取った。
「はい」
渡す。
男は受け取らない。
元の地図を見る。
俺の手にある三枚を見る。
もう一度、元の地図を見る。
「……同じだ」
「コピーなんで」
ようやく一枚を手に取った。
目を近づける。
赤い丸。
細い川の線。
隅に書かれた文字。
地図の端に付いていた茶色い染みまで、そのまま写っている。
「染みも同じだ」
「そこは別にいらないですけどね」
「線の太さまで同じだ」
「そういう機械なんで」
「この小さな傷も」
「そこまで見るんです?」
男は聞いていない。
三枚を並べる。
また見比べる。
そして突然、俺を見る。
「もう三枚」
「増えた」
「六枚欲しい」
「最初三枚って言ってましたよね」
「予備だ」
プリンを二つ追加した女王陛下と同じことを言っている。
予備という言葉は、案外便利なのかもしれない。
「分かりました。じゃあもう三枚」
「待て」
「まだ何か?」
「この紙に、今から印を足したら」
「それをまたコピーできます」
「別の地図になる?」
「書き足した状態のコピーになりますね」
「……」
男が黙った。
まずい。
何かものすごいものを教えてしまった顔をしている。
「先輩」
「ん」
「これ、異世界の人に教えて大丈夫なんですかね」
「客が使う設備だろ」
「でも、地図を一瞬で増やせるんですよ」
「そうだな」
「すごくないです?」
「日本じゃ普通だろ」
「少なくとも、この人には普通じゃないんですよ」
「俺に言われても知らん」
またそれだ。
男はコピーした地図を大事そうに重ねた。
「これがあれば、別れて動く時に全員が地図を持てる」
「ああ、そういうことですか」
「今までは一枚しかなければ、地図を持つ者から離れられなかった」
なるほど。
単に便利というだけではないらしい。
「でも、写した地図が正しいかは元の地図次第ですよ」
「どういう意味だ」
「元が間違ってたら、その間違いも全部同じになります」
男は手元の地図を見る。
「……確かに」
「染みまで同じなんで」
「それはもう分かった」
少しだけ笑った。
「あと、俺はこの地図に何が書いてあるか読めないんで。内容までは保証できません」
「読めないのか?」
「話は通じるんですけど、文字は別みたいで」
「妙な店だな」
「それ、こっちも思ってます」
コピーをもう三枚出す。
合計六枚。
利用枚数を確認して、コピー代はレジ側で店内サービスとして会計する。
男はいつものように見慣れない硬貨を精算機へ入れた。
機械が勝手に処理する。
俺には相変わらず、そっちの方がコピー機より不思議だった。
◇
「ところで」
会計を終えた男が、コピーした地図を布袋へ入れながら言った。
「あれは何だ?」
指差したのはレジ横。
中華まんの保温ケースだった。
「肉まんです」
「肉?」
「中に肉が入ってるやつです」
男の目が少し変わった。
「温かいのか?」
「温かいですよ」
「一つくれ」
「はい」
地図を六枚作った直後でも、やることはいつもと同じだ。
俺はトングを取った。
白い肉まんを一つ挟み、専用の紙袋へ入れる。
「熱いので気をつけてください」
「分かった」
男は受け取った紙袋を両手で持った。
「温かいな」
「そういう商品です」
すぐ食べるのかと思ったが、男は少し迷ってから布袋の口を開いた。
六枚の地図が入っている。
俺は嫌な予感がした。
「待ってください」
「何だ」
「肉まんと地図、一緒に入れない方がいいです」
「なぜだ」
「湿気ます」
男が止まる。
紙袋を見る。
地図を見る。
「……危なかった」
「せっかくコピーしたのに全滅させないでくださいよ」
「この店は難しいな」
「コピー機より肉まんの方で苦戦しないでください」
結局、男は肉まんをその場で食べることにした。
入口脇の邪魔にならない場所で、紙袋を開く。
一口。
湯気が上がる。
「熱っ」
「言いましたよね!?」
「思ったより熱い!」
「だから熱いって!」
先輩がレジの中で小さく欠伸をした。
「今日も平和だな」
「どこ見て言ってるんですか」
◇
その後、冒険者は水と携帯用の菓子を少し買って帰った。
コピーした地図は、肉まんとは別の布に包んでいた。
自動ドアが閉まる。
森の暗闇へ姿が消える。
俺はコピー機を見る。
さっきまでと何も変わらない。
白い筐体。
大きな画面。
紙を入れて、同じものを出す。
日本では珍しくもない機械だ。
「先輩」
「ん」
「コピー機って、すごいですね」
「今さら?」
「いや、今までコピー機見て感動したことなかったんで」
「普通そうだろ」
「でも、ない場所から見たら、めちゃくちゃ便利なんだなって」
「便利なもんは、慣れると普通になるからな」
先輩はそう言って、伝票へ視線を戻した。
俺は少しだけ先輩を見た。
今の言葉に、何か意味があるのか。
それとも、ただコピー機の話をしただけなのか。
やっぱり分からない。
「瀬尾」
「はい」
「コピー用紙減った」
「あ」
「補充」
「はいはい」
結局、感慨より先に補充だった。
◇
午前六時。
森が消えた。
朝の駐車場が戻ってくる。
空気は冷たく、ガラスの向こうの山には薄い霧がかかっていた。
異世界営業が終わった後、俺はコピー機の用紙を補充し、床を掃き、減った商品を前へ出した。
中華まんは肉まんが二つ。
あんまんが一つ。
夜のうちに売れていた。
午前六時五十分過ぎ。
バックヤード側の扉が開く。
「おはようございます」
水野さんだった。
肩ほどの焦げ茶色の髪を後ろでゆるく束ね、今日は薄手の上着を一枚多く羽織っている。
肩の生成り色のトートバッグには、いつものように薄い絵の具汚れが残っていた。
「おはようございます」
「寒くなりましたね」
「山、思ったより早いですね」
「瀬尾さん、まだ秋の山なめてました?」
「ちょっとだけ」
「冬もっと寒いですよ」
「今から帰りたくなってきた」
「これから帰るんですよね?」
「そうでした」
水野さんが笑う。
それから、レジ横を見た。
「あ、中華まん始まったんですね」
「数日前からです」
「私が来る頃、いつも少なくなってるんですよね」
「夜、意外と売れるんで」
「この店、夜だけ妙に食べ物売れますよね」
「……そうですね」
返事が一瞬遅れた。
水野さんは気づいたのか気づいていないのか、中華まんケースへ顔を寄せる。
「新しいピザまん、まだ食べてないんですよ」
「俺もです。匂いだけ毎晩嗅いでます」
「一番つらいやつじゃないですか」
「勤務中に食うわけにもいかないんで」
「帰りに買えばいいのに」
「朝にピザまんかあ」
「夜勤明けなら朝ごはんじゃないですか?」
「言われてみれば」
生活時間がずれていると、何が朝食なのか分からなくなる。
水野さんはレジに入ろうとして、ふとコピー機を見た。
「あれ」
「はい?」
「コピー用紙、昨日補充したばっかりじゃなかったでしたっけ」
俺の動きが止まった。
「よく覚えてますね」
「美大生、紙の減りには敏感なんです」
「そういうもの?」
「たぶん」
水野さんがコピー機の下段を見る。
「結構使いました?」
「あー……地図を六枚ほど」
「地図?」
「はい」
「夜中に?」
「夜中に」
水野さんは笑った。
「山の中で、夜中に地図を六枚コピーして、中華まんが売れる」
「並べると怪しいですね」
「この店、何屋なんでしょうね」
「コンビニです」
レジの奥から先輩の声が飛んできた。
水野さんがそちらを見る。
「榊原さん、それで全部済ませますよね」
「コンビニだからな」
「ほら」
俺と水野さんの声が重なった。
先輩は気にせず欠伸をする。
胸元では、三日月を抱いた白猫がいつもどおり笑っていた。
俺はレジ横の中華まんケースを見る。
コピー機を見る。
夜中に地図を六枚増やして。
朝にはピザまんの話をする。
どっちも同じ店の、一晩の出来事だ。
「瀬尾さん」
「はい?」
「帰るなら、ピザまん一個残ってますよ」
水野さんがケースを指した。
「……買って帰ろうかな」
「匂いだけで終わるのもったいないですよ」
「じゃあ一個」
「お買い上げありがとうございます」
「店員同士でやるやつですか、それ」
朝七時。
俺は夜勤を上がる前に、結局ピザまんを一つ買った。
外へ出る。
冷たい朝の空気の中で、紙袋だけがやけに温かかった。



