異世界深夜コンビニ

 あの大剣の男が来た夜から、何日か経った。

 山の夜は、その間に一段寒くなった気がする。

 午後十一時過ぎ。

 ミッドマート北森店のガラスの向こうは真っ暗で、駐車場の白線だけが店の明かりに浮かんでいる。

 自動ドアが開くたびに、ひやりとした空気が足元へ入り込んだ。

「寒っ」

 俺は思わず肩をすくめた。

「山だからな」

 榊原先輩はレジの中で納品伝票を見ながら言った。

「先輩、それしか言わないですよね」

「寒いもんは寒いだろ」

「もうちょっと季節を感じるとか」

「感じてる」

「どこで?」

 先輩が顎でレジ横を示した。

 そこには、少し前までなかった白い保温ケースが置かれている。

 透明な扉の内側には、丸い中華まん。

 肉まん。

 あんまん。

 ピザまん。

 白い湯気でガラスがうっすら曇っていた。

「売り場で季節感じる人、初めて見ました」

「コンビニ店員だからな」

「それ便利な言葉になってません?」

「実際便利だろ」

 否定できない。

 秋が深まってきたら、中華まんが増える。

 飲料棚も冷たいものばかりではなくなってきた。

 入口近くには、温かい缶コーヒーの案内まで出ている。

 俺がこの店へ来た頃と、棚の顔が少しずつ変わり始めていた。

 毎日同じ場所に立っていると、こういう変化が意外と目につく。

「肉まん、夜中も売れるんですかね」

「売れんじゃねえの」

「異世界の人、肉まん知ってます?」

「知らん」

「でしょうね」

 最近、先輩の「知らん」にも種類があることが分かってきた。

 本当に知らない時。

 知っているけど話す気がない時。

 俺には、まだ見分けがつかない。

 あの大剣の男が消えた夜のことも、結局それ以上は聞いていなかった。

 聞いても答えない気がした。

 それに。

 今、先輩がしているのは納品伝票の確認だ。

 俺がしているのは中華まん用のトングを拭くこと。

 異世界の秘密より、目の前の仕事の方が先に来る。

 この店では、だいたいいつもそうだった。

◇

 午前零時。

 短い電子音。

 店内の照明が一瞬だけ揺れる。

 自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消えた。

 代わりに現れる、暗い森。

 湿った土の匂い。

 夜風に揺れる木の葉。

 遠くで聞こえる、何かの鳴き声。

 俺はもう叫ばない。

「よし」

 レジ横の中華まんケースを見る。

「何がよしなんだ」

「今日は何が最初に売れるかなって」

「暇か」

「ちょっと楽しくなってきたんですよ」

「最初は客見るたび騒いでたのにな」

「成長したって言ってください」

「慣れただけだろ」

 だいたい同じ意味だと思う。

 零時を過ぎて最初に来たのは、見覚えのない人間の男だった。

 年は二十代半ばくらい。

 焦げ茶色の髪を短く切り、顎には数日剃っていないような薄い髭がある。

 灰色の外套は裾に泥が付き、下には使い込まれた革の胸当て。

 腰には短めの剣。

 肩から斜めに掛けた布袋は、ところどころ擦れて白くなっている。

 いかにも旅の途中という格好だった。

「いらっしゃいませ」

 俺が声をかけると、男は片手を上げた。

「ああ」

 それから店の中を見回す。

 商品棚。

 冷蔵ケース。

 レジ。

 そして、入口脇。

 雑誌棚の横にあるコピー機で視線が止まった。

 男はしばらくそこを見ていた。

 近づく。

 周りを一周する。

 正面の画面を見る。

 また横へ回る。

「……何してるんだろ」

「見りゃ分かるだろ」

「分かんないから言ってるんですよ」

 先輩はレジの中から動かない。

 俺は少し様子を見ることにした。

 男はコピー機の前で腕を組んだ。

 画面を指で一度押す。

 反応する。

 びくっと手を引っ込める。

 もう一度押す。

 今度は別の画面が出る。

「……」

 完全に困っている。

 俺はレジを出た。

「何かお困りですか?」

 男が振り向く。

「これを使いたい」

「コピー機ですか?」

「こぴーき」

「ああ、えっと。紙を写す機械です」

「やはりそうか」

 男は少し安心したように頷いた。

「聞いたことがある。この店には、紙に描いたものを同じ形のまま増やす箱があると」

「そんな説明で広まってるんだ……」

 誰が伝えたのか知らないが、間違ってはいない。

「何をコピーしたいんです?」

「これだ」

 男は肩の布袋を下ろした。

 中から取り出したのは、丸められた一枚の紙だった。

 紙、と言っていいのか少し迷う。

 俺たちが使うコピー用紙より厚く、少し黄ばんでいる。

 端も綺麗な直線ではない。

 何度も広げたり丸めたりしたのか、細かな折れと皺が付いていた。

 男が近くの商品棚の端を借りて、それを広げる。

「地図?」

「ああ」

 山のような線。

 川らしい曲線。

 森を示しているのか、細かな木の印。

 途中には赤いインクで丸や矢印が書き足されていた。

 文字もある。

 当然、俺には読めない。

 会話は普通に通じるのに、紙に書かれた文字は別だ。

 そのあたりは相変わらず不思議だった。

「これ、同じものを作りたいんですか?」

「できるのか?」

「たぶん。大きさも入ると思います」

 俺は地図を持ち上げ、コピー機の原稿台と見比べた。

 ぎりぎりではない。

 普通に収まりそうだ。

「何枚必要です?」

「三枚」

「三枚ですね」

 男が俺の顔を見る。

「本当に同じものが三枚できるのか?」

「できますよ」

「今から?」

「今から」

「どれくらいかかる」

「一分もかからないと思います」

「……は?」

 どこかで聞いた反応だった。

 時給三千円を見た時の俺も、たぶんこんな顔をしていた。

「一分?」

「操作が終わればすぐです」

「待て」

 男が地図を押さえた。

「これは宿の書き手に頼めば、早くても半日はかかる」

「手で写すなら、まあ」

「しかも三枚だぞ」

「コピー機なら枚数指定するだけなんで」

 男はコピー機を見る。

 地図を見る。

 俺を見る。

「……魔道具か?」

「違います」

「では何だ」

「コピー機です」

「それは今聞いた」

 説明になっていない。

 でも、俺もコピー機の内部構造なんて説明できない。

「先輩」

「あ?」

「コピー機って、どういう仕組みでしたっけ」

「俺に聞くな」

「ですよね」

 素直に諦めた。

「とにかく、紙を置けば同じものが出てきます」

「雑だな」

「使う分にはそれで十分です」

 男はまだ疑っている顔だった。

 俺は原稿台の蓋を開ける。

「地図、ここに置いてください。描いてある面を下に」

「下?」

「はい」

「見えなくなるぞ」

「それでいいんです」

「本当に?」

「本当に」

 男は慎重に地図を置いた。

 少しずれる。

「もうちょい右です」

「こうか」

「はい。で、蓋を閉めます」

 蓋を下ろす。

 男の眉が寄った。

「挟んだぞ」

「潰してないです」

「見えない」

「だから大丈夫ですって」

「お前を信じるぞ」

「コピー一枚でそんな重いこと言わないでください」

 画面を操作する。

 地図には赤い書き込みがある。

「色も残したいですよね?」

「色?」

「赤い印とか」

「ああ。それが消えると困る」

「じゃあカラーで」

「からー」

「色付きです」

 枚数を三。

 サイズを確認。

 設定を終える。

「じゃあ、押しますよ」

「何を」

「これを」

 スタートボタンを押した。

 コピー機の中で、低い機械音が鳴る。

 原稿台の下を光が走った。

「おおっ!?」

 男が一歩下がった。

「大丈夫です」

「光ったぞ!」

「光ります」

「地図は!?」

「燃えてないです!」

 機械の中で紙が動く音がする。

 数秒。

 一枚目が出てきた。

 男が固まる。

 二枚目。

 三枚目。

 俺は排出口から紙を取った。

「はい」

 渡す。

 男は受け取らない。

 元の地図を見る。

 俺の手にある三枚を見る。

 もう一度、元の地図を見る。

「……同じだ」

「コピーなんで」

 ようやく一枚を手に取った。

 目を近づける。

 赤い丸。

 細い川の線。

 隅に書かれた文字。

 地図の端に付いていた茶色い染みまで、そのまま写っている。

「染みも同じだ」

「そこは別にいらないですけどね」

「線の太さまで同じだ」

「そういう機械なんで」

「この小さな傷も」

「そこまで見るんです?」

 男は聞いていない。

 三枚を並べる。

 また見比べる。

 そして突然、俺を見る。

「もう三枚」

「増えた」

「六枚欲しい」

「最初三枚って言ってましたよね」

「予備だ」

 プリンを二つ追加した女王陛下と同じことを言っている。

 予備という言葉は、案外便利なのかもしれない。

「分かりました。じゃあもう三枚」

「待て」

「まだ何か?」

「この紙に、今から印を足したら」

「それをまたコピーできます」

「別の地図になる?」

「書き足した状態のコピーになりますね」

「……」

 男が黙った。

 まずい。

 何かものすごいものを教えてしまった顔をしている。

「先輩」

「ん」

「これ、異世界の人に教えて大丈夫なんですかね」

「客が使う設備だろ」

「でも、地図を一瞬で増やせるんですよ」

「そうだな」

「すごくないです?」

「日本じゃ普通だろ」

「少なくとも、この人には普通じゃないんですよ」

「俺に言われても知らん」

 またそれだ。

 男はコピーした地図を大事そうに重ねた。

「これがあれば、別れて動く時に全員が地図を持てる」

「ああ、そういうことですか」

「今までは一枚しかなければ、地図を持つ者から離れられなかった」

 なるほど。

 単に便利というだけではないらしい。

「でも、写した地図が正しいかは元の地図次第ですよ」

「どういう意味だ」

「元が間違ってたら、その間違いも全部同じになります」

 男は手元の地図を見る。

「……確かに」

「染みまで同じなんで」

「それはもう分かった」

 少しだけ笑った。

「あと、俺はこの地図に何が書いてあるか読めないんで。内容までは保証できません」

「読めないのか?」

「話は通じるんですけど、文字は別みたいで」

「妙な店だな」

「それ、こっちも思ってます」

 コピーをもう三枚出す。

 合計六枚。

 利用枚数を確認して、コピー代はレジ側で店内サービスとして会計する。

 男はいつものように見慣れない硬貨を精算機へ入れた。

 機械が勝手に処理する。

 俺には相変わらず、そっちの方がコピー機より不思議だった。

◇

「ところで」

 会計を終えた男が、コピーした地図を布袋へ入れながら言った。

「あれは何だ?」

 指差したのはレジ横。

 中華まんの保温ケースだった。

「肉まんです」

「肉?」

「中に肉が入ってるやつです」

 男の目が少し変わった。

「温かいのか?」

「温かいですよ」

「一つくれ」

「はい」

 地図を六枚作った直後でも、やることはいつもと同じだ。

 俺はトングを取った。

 白い肉まんを一つ挟み、専用の紙袋へ入れる。

「熱いので気をつけてください」

「分かった」

 男は受け取った紙袋を両手で持った。

「温かいな」

「そういう商品です」

 すぐ食べるのかと思ったが、男は少し迷ってから布袋の口を開いた。

 六枚の地図が入っている。

 俺は嫌な予感がした。

「待ってください」

「何だ」

「肉まんと地図、一緒に入れない方がいいです」

「なぜだ」

「湿気ます」

 男が止まる。

 紙袋を見る。

 地図を見る。

「……危なかった」

「せっかくコピーしたのに全滅させないでくださいよ」

「この店は難しいな」

「コピー機より肉まんの方で苦戦しないでください」

 結局、男は肉まんをその場で食べることにした。

 入口脇の邪魔にならない場所で、紙袋を開く。

 一口。

 湯気が上がる。

「熱っ」

「言いましたよね!?」

「思ったより熱い!」

「だから熱いって!」

 先輩がレジの中で小さく欠伸をした。

「今日も平和だな」

「どこ見て言ってるんですか」

◇

 その後、冒険者は水と携帯用の菓子を少し買って帰った。

 コピーした地図は、肉まんとは別の布に包んでいた。

 自動ドアが閉まる。

 森の暗闇へ姿が消える。

 俺はコピー機を見る。

 さっきまでと何も変わらない。

 白い筐体。

 大きな画面。

 紙を入れて、同じものを出す。

 日本では珍しくもない機械だ。

「先輩」

「ん」

「コピー機って、すごいですね」

「今さら?」

「いや、今までコピー機見て感動したことなかったんで」

「普通そうだろ」

「でも、ない場所から見たら、めちゃくちゃ便利なんだなって」

「便利なもんは、慣れると普通になるからな」

 先輩はそう言って、伝票へ視線を戻した。

 俺は少しだけ先輩を見た。

 今の言葉に、何か意味があるのか。

 それとも、ただコピー機の話をしただけなのか。

 やっぱり分からない。

「瀬尾」

「はい」

「コピー用紙減った」

「あ」

「補充」

「はいはい」

 結局、感慨より先に補充だった。

◇

 午前六時。

 森が消えた。

 朝の駐車場が戻ってくる。

 空気は冷たく、ガラスの向こうの山には薄い霧がかかっていた。

 異世界営業が終わった後、俺はコピー機の用紙を補充し、床を掃き、減った商品を前へ出した。

 中華まんは肉まんが二つ。

 あんまんが一つ。

 夜のうちに売れていた。

 午前六時五十分過ぎ。

 バックヤード側の扉が開く。

「おはようございます」

 水野さんだった。

 肩ほどの焦げ茶色の髪を後ろでゆるく束ね、今日は薄手の上着を一枚多く羽織っている。

 肩の生成り色のトートバッグには、いつものように薄い絵の具汚れが残っていた。

「おはようございます」

「寒くなりましたね」

「山、思ったより早いですね」

「瀬尾さん、まだ秋の山なめてました?」

「ちょっとだけ」

「冬もっと寒いですよ」

「今から帰りたくなってきた」

「これから帰るんですよね?」

「そうでした」

 水野さんが笑う。

 それから、レジ横を見た。

「あ、中華まん始まったんですね」

「数日前からです」

「私が来る頃、いつも少なくなってるんですよね」

「夜、意外と売れるんで」

「この店、夜だけ妙に食べ物売れますよね」

「……そうですね」

 返事が一瞬遅れた。

 水野さんは気づいたのか気づいていないのか、中華まんケースへ顔を寄せる。

「新しいピザまん、まだ食べてないんですよ」

「俺もです。匂いだけ毎晩嗅いでます」

「一番つらいやつじゃないですか」

「勤務中に食うわけにもいかないんで」

「帰りに買えばいいのに」

「朝にピザまんかあ」

「夜勤明けなら朝ごはんじゃないですか?」

「言われてみれば」

 生活時間がずれていると、何が朝食なのか分からなくなる。

 水野さんはレジに入ろうとして、ふとコピー機を見た。

「あれ」

「はい?」

「コピー用紙、昨日補充したばっかりじゃなかったでしたっけ」

 俺の動きが止まった。

「よく覚えてますね」

「美大生、紙の減りには敏感なんです」

「そういうもの?」

「たぶん」

 水野さんがコピー機の下段を見る。

「結構使いました?」

「あー……地図を六枚ほど」

「地図?」

「はい」

「夜中に?」

「夜中に」

 水野さんは笑った。

「山の中で、夜中に地図を六枚コピーして、中華まんが売れる」

「並べると怪しいですね」

「この店、何屋なんでしょうね」

「コンビニです」

 レジの奥から先輩の声が飛んできた。

 水野さんがそちらを見る。

「榊原さん、それで全部済ませますよね」

「コンビニだからな」

「ほら」

 俺と水野さんの声が重なった。

 先輩は気にせず欠伸をする。

 胸元では、三日月を抱いた白猫がいつもどおり笑っていた。

 俺はレジ横の中華まんケースを見る。

 コピー機を見る。

 夜中に地図を六枚増やして。

 朝にはピザまんの話をする。

 どっちも同じ店の、一晩の出来事だ。

「瀬尾さん」

「はい?」

「帰るなら、ピザまん一個残ってますよ」

 水野さんがケースを指した。

「……買って帰ろうかな」

「匂いだけで終わるのもったいないですよ」

「じゃあ一個」

「お買い上げありがとうございます」

「店員同士でやるやつですか、それ」

 朝七時。

 俺は夜勤を上がる前に、結局ピザまんを一つ買った。

 外へ出る。

 冷たい朝の空気の中で、紙袋だけがやけに温かかった。