異世界深夜コンビニ

 十日目の午後十時。

 バックヤードの冷凍庫を開けた俺は、思わず声を上げた。

「増えたなあ……」

 昨日、俺が発注数を増やしたチキンの箱が、ちゃんと届いている。

 唐揚げも少し多い。

 コロッケも一箱増えていた。

 数字を端末へ入れた時は、少しやりすぎた気がしていた。

 でも、実際に届いた箱を見ると妙な実感がある。

 俺が増やした。

 その結果、今日の在庫が増えた。

「先輩」

「ん」

「昨日の発注、本当にそのまま通ったんですね」

「通したからな」

「なんか責任感じるなあ」

「余ったら廃棄になるぞ」

「いきなり重くしないでくださいよ」

「責任感じてんだろ」

「そうですけど」

 榊原先輩は検品端末を片手に、箱の数を確認している。

 相変わらず眠たげな目。

 相変わらず濃紺の猫エプロン。

 相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔。

 十日働いて、だいぶ見慣れた。

「今日、あのリザードマンたち来ますかね」

「知らん」

「五人になるかもって言ってましたよ」

「来たら売れんだろ」

「来なかったら?」

「明日減らせ」

「発注って地味に怖いですね」

「コンビニだからな」

 俺は箱を冷凍庫へ入れた。

 異世界につながる店でも。

 発注を外せば商品は余る。

 そこだけは、びっくりするくらい普通だった。

◇

 午前零時。

 自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消える。

 暗い森。

 湿った夜気。

 草の匂い。

 もう、この切り替わりにも驚かない。

「十日目ですか」

「だな」

「俺、結構続いてますね」

「助かる」

「もっと感情込めてもらえます?」

「新人教えるのだりぃから」

「結局そこなんだよなあ」

 俺はホットスナックケースを見る。

 昨日の団体客を見越して、チキンは多めに入れてある。

 唐揚げもある。

 コロッケもある。

 フランクもある。

 準備は万全。

 だったのだが。

 午前零時二十分。

 ウィーン。

 自動ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは、常連のリザードマン一人だった。

「一人!」

 思わず言ってしまった。

 リザードマンの琥珀色の目が俺を見る。

「一人だが」

「いや、昨日五人になるかもって」

「都合がつかなかった」

「俺の発注……」

「何の話だ?」

「こっちの話です」

 レジの中から先輩が小さく笑った気がした。

「笑いました?」

「笑ってない」

「絶対笑った」

 常連はいつもどおり、チキンを三つ頼んだ。

 俺は紙袋へ一つずつ入れる。

「今日は多いな」

 ケースを見たリザードマンが言った。

「誰のせいだと思ってるんですか」

「我か?」

「あなたです」

「ならば、明日は仲間を連れてこよう」

「そういう解決方法じゃない!」

 低い喉の音。

 笑っている。

 俺もつられて笑った。

 十日前。

 この人を見て叫んでいた自分が、少し遠い。

 会計を済ませたリザードマンが森へ帰る。

 ドアが閉じる。

 店内はまた静かになった。

「……来なかったな」

 先輩が言う。

「言わないでください」

「明日減らせ」

「分かってますよ!」

◇

 午前二時十三分。

 客はしばらく途切れていた。

 俺は飲料ケースの前で、スポーツ飲料を前へ出していた。

 先輩はカウンターの中で、何かの伝票を見ている。

 店内に流れる小さな機械音。

 冷蔵ケースの低い唸り。

 外は暗い森。

 いつもの深夜だった。

 ウィーン。

 自動ドアが開くまでは。

「いらっしゃいませ」

 反射で声を出す。

 入口に立っていた男を見て、俺の手が止まった。

 人間――に見えた。

 年齢は四十前後だろうか。

 身長は百九十センチ近い。

 肩幅が広く、分厚い。

 上背だけなら魔王軍の将軍と大差ないのに、印象はまるで違った。

 短く刈った鉄灰色の髪。

 日に焼けた肌。

 左の眉から頬へ、斜めに一本の古い傷。

 左目は少し白く濁っている。

 右目だけが、店内を獲物でも探すみたいに動いていた。

 黒い革鎧の上に、ところどころ錆の浮いた金属板。

 腰には革袋がいくつも下がり、背中には幅広の大剣。

 剣の鞘は傷だらけだった。

 歩くたびに、金具が小さく鳴る。

 昨日の魔王軍の将軍も相当怖い見た目だった。

 でも、あの人は店へ入った瞬間から商品を壊さないようにしていた。

 この男は違う。

 棚を避けない。

 肩が菓子棚の端へ当たる。

 ガタン、と棚が揺れた。

 男は振り返りもしなかった。

 俺は反射的に先輩を見る。

 先輩も男を見ていた。

 眠たげな目のまま。

 ただ。

 伝票を置いていた。

 それだけだった。

 男はホットスナックケースの前まで来た。

「肉」

 声は低く、ざらついていた。

「はい?」

「肉を出せ」

「チキンですか? 唐揚げもありますけど」

「全部だ」

「全部?」

 ケースを見る。

 今日は多い。

 発注を増やしたから、普段よりかなり多い。

「えっと、全部買うってことですか?」

 男が俺を見る。

「他に何がある」

「いや、まあ、そうですよね」

 嫌な圧がある。

 でも客だ。

 買うなら売る。

 俺はトングを取った。

「じゃあ、チキンから入れますね」

 紙袋を開く。

 一個。

 二個。

 三個。

 男は黙って見ている。

「全部、一つの袋だと潰れるので分けます」

「好きにしろ」

「はい」

 チキン。

 唐揚げ。

 コロッケ。

 フランク。

 ホットスナックケースがどんどん空になる。

 昨日なら喜んだかもしれない。

 発注した分が売れる。

 でも今は、妙に手が落ち着かなかった。

 男がカウンターへ肘をつく。

「酒は」

「ありますけど」

 俺は売り場の方向を示した。

「向こうです」

「持ってこい」

「セルフなんで、ご自分でお願いします」

 右目が細くなる。

「俺に取りに行けと言うのか」

「はい。普通のお店なんで」

 言ってから、少しまずかったかと思った。

 男の口元が動く。

 笑ったわけではない。

「普通」

「はい」

「俺を知らんらしいな」

「すみません。初めて見るお客さんなので」

 背後から先輩の声がした。

「瀬尾」

「はい?」

「酒、案内だけしろ」

「あ、はい」

 俺はカウンターから出た。

「こちらです」

 男はついてくる。

 酒の冷蔵棚まで行くと、男は一番大きな缶を一本取った。

 次にもう一本。

 さらに一本。

 商品を選ぶ手つきも荒い。

 缶同士がぶつかって、金属音が鳴る。

「これで」

「お会計、あちらです」

「面倒な店だ」

「すみません」

「謝るな」

 先輩がレジから言った。

「別に悪いことしてねえだろ」

 男が先輩を見る。

 先輩は視線を逸らさない。

 二人の間に、短い沈黙が落ちた。

 俺だけが妙に居心地悪い。

「……会計しますね」

 俺は先にカウンターへ戻った。

◇

 ホットスナックと缶三本。

 かなりの量になった。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 バーコードを通す。

 男は腕を組んで待っている。

「お支払いは、こちらの精算機へお願いします」

 俺が示す。

 男は動かなかった。

「お支払いを」

「しない」

「……はい?」

「聞こえなかったか」

「いや、聞こえましたけど」

 男は紙袋へ手を伸ばした。

 俺は反射的に袋を引いた。

「会計前なので」

 右目が、俺を見る。

「小僧」

「はい」

「それを寄越せ」

「お金払ってもらえれば」

「払わん」

「じゃあ渡せません」

 言った瞬間。

 自分でも驚いた。

 十日前の俺なら、絶対に言えなかった。

 リザードマンを見て叫んでいた俺が。

 今は、百九十センチ近い剣持ちの男に、会計してくださいと言っている。

 仕事って怖い。

 男の顔から、わずかに表情が消えた。

「……俺の名を知らんから、そんな口が利ける」

「名前は聞いてないので」

「瀬尾」

 先輩の声。

 さっきより低い。

 俺は黙った。

 男の手が伸びる。

 紙袋ではない。

 俺のエプロンの胸元。

 三日月を抱く白猫の刺繍ごと、布を掴まれた。

 ぐっと身体が前へ引かれる。

「っ」

「ガキが」

 男の顔が近づく。

 酒の匂いはしない。

 まだ飲んでいないから当然だ。

 なのに、酔っぱらいより厄介な目をしていた。

「店の物を出せと言っている」

「だから、会計を――」

「手、離せ」

 先輩の声だった。

 大きくない。

 怒鳴ってもいない。

 いつもの、低く少しかすれた声。

 なのに。

 男の指が、一瞬だけ止まった。

 俺にも分かった。

 空気が変わった。

 先輩はカウンターの向こうに立っている。

 いつもの薄いグレーのシャツ。

 濃紺のエプロン。

 胸には白猫。

 見た目だけなら、ただのコンビニ店員だ。

「何だ、お前」

 男が言う。

「店員」

 先輩はそれだけ答えた。

「こいつが先に――」

「会計してねえだろ」

「だから何だ」

「客なら払え」

 先輩の目が男を見る。

「客じゃねえなら帰れ」

 短い。

 説明もない。

 男は数秒、先輩を見た。

 そして。

 俺のエプロンから手を離した。

 助かった。

 そう思ったのも一瞬だった。

 男の右手が、背中へ回る。

 大剣の柄。

 俺の喉が乾いた。

 金属が鞘の中で擦れる音がした。

 ほんの数センチ。

 刃が出る。

 先輩が俺を見る。

「瀬尾」

「はい」

「裏でフライ揚げてろ」

「……え?」

「チキン追加」

「いや、今それどころじゃ」

「いいから」

 言葉は強くない。

 でも。

 初めてだった。

 この人の「いいから」に、逆らう気が起きなかったのは。

「……分かりました」

 俺は紙袋を置き、バックヤードへ下がった。

 振り返りたい。

 でも、振り返らなかった。

 自動ドアではなく、バックヤードの扉が閉まる。

 売り場が見えなくなる。

◇

 冷凍庫を開ける。

 チキンの箱を出す。

 手が少し震えていた。

「……何してんだ俺」

 本当にフライを揚げるのか。

 外では、剣を抜きかけた男と先輩が向き合っている。

 普通なら警察だ。

 いや、異世界側の客に警察が通じるのか分からない。

 そもそも電話して何て言う。

 山奥のコンビニで、異世界から来た剣士が暴れてます。

 言えるわけがない。

 俺は冷凍チキンを持ったまま、扉を見る。

 何か音がすると思った。

 剣がぶつかる音。

 棚が倒れる音。

 怒鳴り声。

 悲鳴。

 でも。

 何も聞こえない。

「……え?」

 静かすぎる。

 冷凍庫の低い音だけ。

 俺は耳を澄ませた。

 やっぱり何もない。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 扉を開けたい。

 でも、先輩は裏にいろと言った。

 俺はチキンを作業台へ置いた。

 袋を開ける。

「フライ……」

 本当に揚げる。

 意味が分からない。

 でも手順は身体が覚えていた。

 必要な数を出す。

 フライヤーへ運ぶ。

 油へ入れる。

 じゅわっ。

 大きな音。

 その音の方が、売り場よりずっと騒がしい。

 タイマーを押す。

 七分。

 数字が減り始める。

 六分五十九秒。

 六分五十八秒。

 俺はタイマーを見つめた。

 ドワーフなら耐えられないだろうな。

 そんな、どうでもいいことが頭に浮かぶ。

 たぶん、怖かったからだ。

 何か考えていないと、扉を開けてしまいそうだった。

 三分。

 何も聞こえない。

 二分。

 何も聞こえない。

 一分。

 やっぱり何も聞こえない。

 ピピピピッ。

 タイマーが鳴った。

「……上がった」

 俺は籠を上げた。

 油を切る。

 ここまで来たら、もう戻っていいだろう。

 たぶん。

 俺はバックヤードの扉へ手を掛けた。

 一度止まる。

 深呼吸。

 開けた。

◇

 店内は。

 普通だった。

「……は?」

 中央の商品棚。

 飲料ケース。

 弁当棚。

 レジ。

 ホットスナックケース。

 何も倒れていない。

 ガラスも割れていない。

 床にも何も落ちていない。

 さっきまで男がいた場所には、誰もいなかった。

 榊原先輩だけが、カウンターの中にいる。

 猫エプロンの紐を直しながら、伝票を見ていた。

 いつもと同じ顔。

 眠たげな目。

「……先輩」

「ん」

「あの客は?」

「帰った」

「帰った?」

「ああ」

 俺は入口を見る。

 自動ドアの向こうは暗い森。

 男の姿はない。

「普通に?」

「何が普通か知らんけど、帰った」

「剣、抜こうとしてましたよね」

「そうだったな」

「俺、掴まれてましたよね」

「見てた」

「で、帰った?」

「帰った」

 同じ答えしか返ってこない。

 俺は店内を見回した。

 本当に何もない。

「……何したんです?」

「別に」

「別にって」

 先輩が顎でフライヤーを示した。

「チキン」

「はい?」

「上がったんだろ」

「あ」

「油切れ」

「……はい」

 俺はフライヤーへ戻った。

 言われるまま油を切る。

 紙袋を準備する。

 さっきの男が買うはずだったホットスナックは、カウンターの上に置かれたままだった。

「これ、どうします?」

「会計してねえから戻せるもん戻せ」

「揚げ物は?」

「時間見て廃棄」

「ですよね」

 あまりにも普通の返事だった。

 俺はますます分からなくなった。

◇

 午前三時。

 その後、普通の客が二組来た。

 片方は小柄な獣人らしい夫婦。

 もう片方はローブ姿の旅人。

 俺は普通に接客した。

 水を売った。

 パンを売った。

 さっき追加で揚げたチキンも二つ売れた。

 レジを打ちながらも、頭の片隅にはずっとあの男がいた。

 客が途切れる。

 俺はケースを拭く。

 先輩は伝票を書く。

 いつもの深夜に戻っている。

「先輩」

「ん」

 聞こうと思った。

 何者なんですか。

 どうやって追い返したんですか。

 怖くなかったんですか。

 あの剣を抜かれて、何をしたんですか。

 でも。

「……ホットスナック、少し余りそうですね」

「明日減らせ」

「ですよね」

 違うことを聞いた。

 先輩は何も気にしていない。

 俺も、それ以上は聞かなかった。

 聞けば答えてくれる気がしなかった。

 それに。

 十日間で、少し分かってきたことがある。

 この人は、話したくないから黙る時と。

 本当に知らないから「知らん」と言う時と。

 たぶん、両方ある。

 今のは。

 どっちなのか分からない。

◇

 午前六時。

 森が消える。

 日本の駐車場が戻る。

 空は薄く明るい。

 俺は入口の床をモップで拭いた。

 傷はない。

 何もない。

 あの大剣の男が本当にいたのかと思うくらい、何も残っていない。

「瀬尾」

「はい」

「そこ終わったらゴミ」

「はいはい」

 先輩はいつもどおりだった。

 猫のエプロン。

 眠そうな顔。

 低い声。

 だるそうな動き。

 遠征へ行く勇者たちが来た夜も、荷物を見ただけで必要な物を言い当てた。

 姿の見えない精霊は、先輩にだけ見えていた。

 エルフも、魔王軍も、最初から何でもないみたいに見ていた。

 それでも俺は。

 異世界に慣れている変わった人なんだろう、とどこかで済ませていた。

 でも。

 今日は違った。

 あの男が俺のエプロンを掴んだ瞬間。

 先輩の声が変わった。

 剣が抜かれかけて。

 俺は裏へ下げられた。

 七分後。

 客は消えていた。

 店は無傷だった。

「先輩」

「今度は何だ」

「……いや」

 俺はモップを持ち直した。

「何でもないです」

「そうか」

 先輩は欠伸をした。

 その胸では、三日月を抱いた白猫が笑っている。

 十日目。

 俺はようやく一つだけ分かった。

 榊原遼は。

 たぶん、ただのコンビニ店員ではない。