十日目の午後十時。
バックヤードの冷凍庫を開けた俺は、思わず声を上げた。
「増えたなあ……」
昨日、俺が発注数を増やしたチキンの箱が、ちゃんと届いている。
唐揚げも少し多い。
コロッケも一箱増えていた。
数字を端末へ入れた時は、少しやりすぎた気がしていた。
でも、実際に届いた箱を見ると妙な実感がある。
俺が増やした。
その結果、今日の在庫が増えた。
「先輩」
「ん」
「昨日の発注、本当にそのまま通ったんですね」
「通したからな」
「なんか責任感じるなあ」
「余ったら廃棄になるぞ」
「いきなり重くしないでくださいよ」
「責任感じてんだろ」
「そうですけど」
榊原先輩は検品端末を片手に、箱の数を確認している。
相変わらず眠たげな目。
相変わらず濃紺の猫エプロン。
相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔。
十日働いて、だいぶ見慣れた。
「今日、あのリザードマンたち来ますかね」
「知らん」
「五人になるかもって言ってましたよ」
「来たら売れんだろ」
「来なかったら?」
「明日減らせ」
「発注って地味に怖いですね」
「コンビニだからな」
俺は箱を冷凍庫へ入れた。
異世界につながる店でも。
発注を外せば商品は余る。
そこだけは、びっくりするくらい普通だった。
◇
午前零時。
自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消える。
暗い森。
湿った夜気。
草の匂い。
もう、この切り替わりにも驚かない。
「十日目ですか」
「だな」
「俺、結構続いてますね」
「助かる」
「もっと感情込めてもらえます?」
「新人教えるのだりぃから」
「結局そこなんだよなあ」
俺はホットスナックケースを見る。
昨日の団体客を見越して、チキンは多めに入れてある。
唐揚げもある。
コロッケもある。
フランクもある。
準備は万全。
だったのだが。
午前零時二十分。
ウィーン。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、常連のリザードマン一人だった。
「一人!」
思わず言ってしまった。
リザードマンの琥珀色の目が俺を見る。
「一人だが」
「いや、昨日五人になるかもって」
「都合がつかなかった」
「俺の発注……」
「何の話だ?」
「こっちの話です」
レジの中から先輩が小さく笑った気がした。
「笑いました?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
常連はいつもどおり、チキンを三つ頼んだ。
俺は紙袋へ一つずつ入れる。
「今日は多いな」
ケースを見たリザードマンが言った。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「我か?」
「あなたです」
「ならば、明日は仲間を連れてこよう」
「そういう解決方法じゃない!」
低い喉の音。
笑っている。
俺もつられて笑った。
十日前。
この人を見て叫んでいた自分が、少し遠い。
会計を済ませたリザードマンが森へ帰る。
ドアが閉じる。
店内はまた静かになった。
「……来なかったな」
先輩が言う。
「言わないでください」
「明日減らせ」
「分かってますよ!」
◇
午前二時十三分。
客はしばらく途切れていた。
俺は飲料ケースの前で、スポーツ飲料を前へ出していた。
先輩はカウンターの中で、何かの伝票を見ている。
店内に流れる小さな機械音。
冷蔵ケースの低い唸り。
外は暗い森。
いつもの深夜だった。
ウィーン。
自動ドアが開くまでは。
「いらっしゃいませ」
反射で声を出す。
入口に立っていた男を見て、俺の手が止まった。
人間――に見えた。
年齢は四十前後だろうか。
身長は百九十センチ近い。
肩幅が広く、分厚い。
上背だけなら魔王軍の将軍と大差ないのに、印象はまるで違った。
短く刈った鉄灰色の髪。
日に焼けた肌。
左の眉から頬へ、斜めに一本の古い傷。
左目は少し白く濁っている。
右目だけが、店内を獲物でも探すみたいに動いていた。
黒い革鎧の上に、ところどころ錆の浮いた金属板。
腰には革袋がいくつも下がり、背中には幅広の大剣。
剣の鞘は傷だらけだった。
歩くたびに、金具が小さく鳴る。
昨日の魔王軍の将軍も相当怖い見た目だった。
でも、あの人は店へ入った瞬間から商品を壊さないようにしていた。
この男は違う。
棚を避けない。
肩が菓子棚の端へ当たる。
ガタン、と棚が揺れた。
男は振り返りもしなかった。
俺は反射的に先輩を見る。
先輩も男を見ていた。
眠たげな目のまま。
ただ。
伝票を置いていた。
それだけだった。
男はホットスナックケースの前まで来た。
「肉」
声は低く、ざらついていた。
「はい?」
「肉を出せ」
「チキンですか? 唐揚げもありますけど」
「全部だ」
「全部?」
ケースを見る。
今日は多い。
発注を増やしたから、普段よりかなり多い。
「えっと、全部買うってことですか?」
男が俺を見る。
「他に何がある」
「いや、まあ、そうですよね」
嫌な圧がある。
でも客だ。
買うなら売る。
俺はトングを取った。
「じゃあ、チキンから入れますね」
紙袋を開く。
一個。
二個。
三個。
男は黙って見ている。
「全部、一つの袋だと潰れるので分けます」
「好きにしろ」
「はい」
チキン。
唐揚げ。
コロッケ。
フランク。
ホットスナックケースがどんどん空になる。
昨日なら喜んだかもしれない。
発注した分が売れる。
でも今は、妙に手が落ち着かなかった。
男がカウンターへ肘をつく。
「酒は」
「ありますけど」
俺は売り場の方向を示した。
「向こうです」
「持ってこい」
「セルフなんで、ご自分でお願いします」
右目が細くなる。
「俺に取りに行けと言うのか」
「はい。普通のお店なんで」
言ってから、少しまずかったかと思った。
男の口元が動く。
笑ったわけではない。
「普通」
「はい」
「俺を知らんらしいな」
「すみません。初めて見るお客さんなので」
背後から先輩の声がした。
「瀬尾」
「はい?」
「酒、案内だけしろ」
「あ、はい」
俺はカウンターから出た。
「こちらです」
男はついてくる。
酒の冷蔵棚まで行くと、男は一番大きな缶を一本取った。
次にもう一本。
さらに一本。
商品を選ぶ手つきも荒い。
缶同士がぶつかって、金属音が鳴る。
「これで」
「お会計、あちらです」
「面倒な店だ」
「すみません」
「謝るな」
先輩がレジから言った。
「別に悪いことしてねえだろ」
男が先輩を見る。
先輩は視線を逸らさない。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
俺だけが妙に居心地悪い。
「……会計しますね」
俺は先にカウンターへ戻った。
◇
ホットスナックと缶三本。
かなりの量になった。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
バーコードを通す。
男は腕を組んで待っている。
「お支払いは、こちらの精算機へお願いします」
俺が示す。
男は動かなかった。
「お支払いを」
「しない」
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえましたけど」
男は紙袋へ手を伸ばした。
俺は反射的に袋を引いた。
「会計前なので」
右目が、俺を見る。
「小僧」
「はい」
「それを寄越せ」
「お金払ってもらえれば」
「払わん」
「じゃあ渡せません」
言った瞬間。
自分でも驚いた。
十日前の俺なら、絶対に言えなかった。
リザードマンを見て叫んでいた俺が。
今は、百九十センチ近い剣持ちの男に、会計してくださいと言っている。
仕事って怖い。
男の顔から、わずかに表情が消えた。
「……俺の名を知らんから、そんな口が利ける」
「名前は聞いてないので」
「瀬尾」
先輩の声。
さっきより低い。
俺は黙った。
男の手が伸びる。
紙袋ではない。
俺のエプロンの胸元。
三日月を抱く白猫の刺繍ごと、布を掴まれた。
ぐっと身体が前へ引かれる。
「っ」
「ガキが」
男の顔が近づく。
酒の匂いはしない。
まだ飲んでいないから当然だ。
なのに、酔っぱらいより厄介な目をしていた。
「店の物を出せと言っている」
「だから、会計を――」
「手、離せ」
先輩の声だった。
大きくない。
怒鳴ってもいない。
いつもの、低く少しかすれた声。
なのに。
男の指が、一瞬だけ止まった。
俺にも分かった。
空気が変わった。
先輩はカウンターの向こうに立っている。
いつもの薄いグレーのシャツ。
濃紺のエプロン。
胸には白猫。
見た目だけなら、ただのコンビニ店員だ。
「何だ、お前」
男が言う。
「店員」
先輩はそれだけ答えた。
「こいつが先に――」
「会計してねえだろ」
「だから何だ」
「客なら払え」
先輩の目が男を見る。
「客じゃねえなら帰れ」
短い。
説明もない。
男は数秒、先輩を見た。
そして。
俺のエプロンから手を離した。
助かった。
そう思ったのも一瞬だった。
男の右手が、背中へ回る。
大剣の柄。
俺の喉が乾いた。
金属が鞘の中で擦れる音がした。
ほんの数センチ。
刃が出る。
先輩が俺を見る。
「瀬尾」
「はい」
「裏でフライ揚げてろ」
「……え?」
「チキン追加」
「いや、今それどころじゃ」
「いいから」
言葉は強くない。
でも。
初めてだった。
この人の「いいから」に、逆らう気が起きなかったのは。
「……分かりました」
俺は紙袋を置き、バックヤードへ下がった。
振り返りたい。
でも、振り返らなかった。
自動ドアではなく、バックヤードの扉が閉まる。
売り場が見えなくなる。
◇
冷凍庫を開ける。
チキンの箱を出す。
手が少し震えていた。
「……何してんだ俺」
本当にフライを揚げるのか。
外では、剣を抜きかけた男と先輩が向き合っている。
普通なら警察だ。
いや、異世界側の客に警察が通じるのか分からない。
そもそも電話して何て言う。
山奥のコンビニで、異世界から来た剣士が暴れてます。
言えるわけがない。
俺は冷凍チキンを持ったまま、扉を見る。
何か音がすると思った。
剣がぶつかる音。
棚が倒れる音。
怒鳴り声。
悲鳴。
でも。
何も聞こえない。
「……え?」
静かすぎる。
冷凍庫の低い音だけ。
俺は耳を澄ませた。
やっぱり何もない。
一秒。
二秒。
三秒。
扉を開けたい。
でも、先輩は裏にいろと言った。
俺はチキンを作業台へ置いた。
袋を開ける。
「フライ……」
本当に揚げる。
意味が分からない。
でも手順は身体が覚えていた。
必要な数を出す。
フライヤーへ運ぶ。
油へ入れる。
じゅわっ。
大きな音。
その音の方が、売り場よりずっと騒がしい。
タイマーを押す。
七分。
数字が減り始める。
六分五十九秒。
六分五十八秒。
俺はタイマーを見つめた。
ドワーフなら耐えられないだろうな。
そんな、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
たぶん、怖かったからだ。
何か考えていないと、扉を開けてしまいそうだった。
三分。
何も聞こえない。
二分。
何も聞こえない。
一分。
やっぱり何も聞こえない。
ピピピピッ。
タイマーが鳴った。
「……上がった」
俺は籠を上げた。
油を切る。
ここまで来たら、もう戻っていいだろう。
たぶん。
俺はバックヤードの扉へ手を掛けた。
一度止まる。
深呼吸。
開けた。
◇
店内は。
普通だった。
「……は?」
中央の商品棚。
飲料ケース。
弁当棚。
レジ。
ホットスナックケース。
何も倒れていない。
ガラスも割れていない。
床にも何も落ちていない。
さっきまで男がいた場所には、誰もいなかった。
榊原先輩だけが、カウンターの中にいる。
猫エプロンの紐を直しながら、伝票を見ていた。
いつもと同じ顔。
眠たげな目。
「……先輩」
「ん」
「あの客は?」
「帰った」
「帰った?」
「ああ」
俺は入口を見る。
自動ドアの向こうは暗い森。
男の姿はない。
「普通に?」
「何が普通か知らんけど、帰った」
「剣、抜こうとしてましたよね」
「そうだったな」
「俺、掴まれてましたよね」
「見てた」
「で、帰った?」
「帰った」
同じ答えしか返ってこない。
俺は店内を見回した。
本当に何もない。
「……何したんです?」
「別に」
「別にって」
先輩が顎でフライヤーを示した。
「チキン」
「はい?」
「上がったんだろ」
「あ」
「油切れ」
「……はい」
俺はフライヤーへ戻った。
言われるまま油を切る。
紙袋を準備する。
さっきの男が買うはずだったホットスナックは、カウンターの上に置かれたままだった。
「これ、どうします?」
「会計してねえから戻せるもん戻せ」
「揚げ物は?」
「時間見て廃棄」
「ですよね」
あまりにも普通の返事だった。
俺はますます分からなくなった。
◇
午前三時。
その後、普通の客が二組来た。
片方は小柄な獣人らしい夫婦。
もう片方はローブ姿の旅人。
俺は普通に接客した。
水を売った。
パンを売った。
さっき追加で揚げたチキンも二つ売れた。
レジを打ちながらも、頭の片隅にはずっとあの男がいた。
客が途切れる。
俺はケースを拭く。
先輩は伝票を書く。
いつもの深夜に戻っている。
「先輩」
「ん」
聞こうと思った。
何者なんですか。
どうやって追い返したんですか。
怖くなかったんですか。
あの剣を抜かれて、何をしたんですか。
でも。
「……ホットスナック、少し余りそうですね」
「明日減らせ」
「ですよね」
違うことを聞いた。
先輩は何も気にしていない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
聞けば答えてくれる気がしなかった。
それに。
十日間で、少し分かってきたことがある。
この人は、話したくないから黙る時と。
本当に知らないから「知らん」と言う時と。
たぶん、両方ある。
今のは。
どっちなのか分からない。
◇
午前六時。
森が消える。
日本の駐車場が戻る。
空は薄く明るい。
俺は入口の床をモップで拭いた。
傷はない。
何もない。
あの大剣の男が本当にいたのかと思うくらい、何も残っていない。
「瀬尾」
「はい」
「そこ終わったらゴミ」
「はいはい」
先輩はいつもどおりだった。
猫のエプロン。
眠そうな顔。
低い声。
だるそうな動き。
遠征へ行く勇者たちが来た夜も、荷物を見ただけで必要な物を言い当てた。
姿の見えない精霊は、先輩にだけ見えていた。
エルフも、魔王軍も、最初から何でもないみたいに見ていた。
それでも俺は。
異世界に慣れている変わった人なんだろう、とどこかで済ませていた。
でも。
今日は違った。
あの男が俺のエプロンを掴んだ瞬間。
先輩の声が変わった。
剣が抜かれかけて。
俺は裏へ下げられた。
七分後。
客は消えていた。
店は無傷だった。
「先輩」
「今度は何だ」
「……いや」
俺はモップを持ち直した。
「何でもないです」
「そうか」
先輩は欠伸をした。
その胸では、三日月を抱いた白猫が笑っている。
十日目。
俺はようやく一つだけ分かった。
榊原遼は。
たぶん、ただのコンビニ店員ではない。
バックヤードの冷凍庫を開けた俺は、思わず声を上げた。
「増えたなあ……」
昨日、俺が発注数を増やしたチキンの箱が、ちゃんと届いている。
唐揚げも少し多い。
コロッケも一箱増えていた。
数字を端末へ入れた時は、少しやりすぎた気がしていた。
でも、実際に届いた箱を見ると妙な実感がある。
俺が増やした。
その結果、今日の在庫が増えた。
「先輩」
「ん」
「昨日の発注、本当にそのまま通ったんですね」
「通したからな」
「なんか責任感じるなあ」
「余ったら廃棄になるぞ」
「いきなり重くしないでくださいよ」
「責任感じてんだろ」
「そうですけど」
榊原先輩は検品端末を片手に、箱の数を確認している。
相変わらず眠たげな目。
相変わらず濃紺の猫エプロン。
相変わらず、やる気があるのかないのか分からない顔。
十日働いて、だいぶ見慣れた。
「今日、あのリザードマンたち来ますかね」
「知らん」
「五人になるかもって言ってましたよ」
「来たら売れんだろ」
「来なかったら?」
「明日減らせ」
「発注って地味に怖いですね」
「コンビニだからな」
俺は箱を冷凍庫へ入れた。
異世界につながる店でも。
発注を外せば商品は余る。
そこだけは、びっくりするくらい普通だった。
◇
午前零時。
自動ドアの向こうから、日本の駐車場が消える。
暗い森。
湿った夜気。
草の匂い。
もう、この切り替わりにも驚かない。
「十日目ですか」
「だな」
「俺、結構続いてますね」
「助かる」
「もっと感情込めてもらえます?」
「新人教えるのだりぃから」
「結局そこなんだよなあ」
俺はホットスナックケースを見る。
昨日の団体客を見越して、チキンは多めに入れてある。
唐揚げもある。
コロッケもある。
フランクもある。
準備は万全。
だったのだが。
午前零時二十分。
ウィーン。
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、常連のリザードマン一人だった。
「一人!」
思わず言ってしまった。
リザードマンの琥珀色の目が俺を見る。
「一人だが」
「いや、昨日五人になるかもって」
「都合がつかなかった」
「俺の発注……」
「何の話だ?」
「こっちの話です」
レジの中から先輩が小さく笑った気がした。
「笑いました?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
常連はいつもどおり、チキンを三つ頼んだ。
俺は紙袋へ一つずつ入れる。
「今日は多いな」
ケースを見たリザードマンが言った。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「我か?」
「あなたです」
「ならば、明日は仲間を連れてこよう」
「そういう解決方法じゃない!」
低い喉の音。
笑っている。
俺もつられて笑った。
十日前。
この人を見て叫んでいた自分が、少し遠い。
会計を済ませたリザードマンが森へ帰る。
ドアが閉じる。
店内はまた静かになった。
「……来なかったな」
先輩が言う。
「言わないでください」
「明日減らせ」
「分かってますよ!」
◇
午前二時十三分。
客はしばらく途切れていた。
俺は飲料ケースの前で、スポーツ飲料を前へ出していた。
先輩はカウンターの中で、何かの伝票を見ている。
店内に流れる小さな機械音。
冷蔵ケースの低い唸り。
外は暗い森。
いつもの深夜だった。
ウィーン。
自動ドアが開くまでは。
「いらっしゃいませ」
反射で声を出す。
入口に立っていた男を見て、俺の手が止まった。
人間――に見えた。
年齢は四十前後だろうか。
身長は百九十センチ近い。
肩幅が広く、分厚い。
上背だけなら魔王軍の将軍と大差ないのに、印象はまるで違った。
短く刈った鉄灰色の髪。
日に焼けた肌。
左の眉から頬へ、斜めに一本の古い傷。
左目は少し白く濁っている。
右目だけが、店内を獲物でも探すみたいに動いていた。
黒い革鎧の上に、ところどころ錆の浮いた金属板。
腰には革袋がいくつも下がり、背中には幅広の大剣。
剣の鞘は傷だらけだった。
歩くたびに、金具が小さく鳴る。
昨日の魔王軍の将軍も相当怖い見た目だった。
でも、あの人は店へ入った瞬間から商品を壊さないようにしていた。
この男は違う。
棚を避けない。
肩が菓子棚の端へ当たる。
ガタン、と棚が揺れた。
男は振り返りもしなかった。
俺は反射的に先輩を見る。
先輩も男を見ていた。
眠たげな目のまま。
ただ。
伝票を置いていた。
それだけだった。
男はホットスナックケースの前まで来た。
「肉」
声は低く、ざらついていた。
「はい?」
「肉を出せ」
「チキンですか? 唐揚げもありますけど」
「全部だ」
「全部?」
ケースを見る。
今日は多い。
発注を増やしたから、普段よりかなり多い。
「えっと、全部買うってことですか?」
男が俺を見る。
「他に何がある」
「いや、まあ、そうですよね」
嫌な圧がある。
でも客だ。
買うなら売る。
俺はトングを取った。
「じゃあ、チキンから入れますね」
紙袋を開く。
一個。
二個。
三個。
男は黙って見ている。
「全部、一つの袋だと潰れるので分けます」
「好きにしろ」
「はい」
チキン。
唐揚げ。
コロッケ。
フランク。
ホットスナックケースがどんどん空になる。
昨日なら喜んだかもしれない。
発注した分が売れる。
でも今は、妙に手が落ち着かなかった。
男がカウンターへ肘をつく。
「酒は」
「ありますけど」
俺は売り場の方向を示した。
「向こうです」
「持ってこい」
「セルフなんで、ご自分でお願いします」
右目が細くなる。
「俺に取りに行けと言うのか」
「はい。普通のお店なんで」
言ってから、少しまずかったかと思った。
男の口元が動く。
笑ったわけではない。
「普通」
「はい」
「俺を知らんらしいな」
「すみません。初めて見るお客さんなので」
背後から先輩の声がした。
「瀬尾」
「はい?」
「酒、案内だけしろ」
「あ、はい」
俺はカウンターから出た。
「こちらです」
男はついてくる。
酒の冷蔵棚まで行くと、男は一番大きな缶を一本取った。
次にもう一本。
さらに一本。
商品を選ぶ手つきも荒い。
缶同士がぶつかって、金属音が鳴る。
「これで」
「お会計、あちらです」
「面倒な店だ」
「すみません」
「謝るな」
先輩がレジから言った。
「別に悪いことしてねえだろ」
男が先輩を見る。
先輩は視線を逸らさない。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
俺だけが妙に居心地悪い。
「……会計しますね」
俺は先にカウンターへ戻った。
◇
ホットスナックと缶三本。
かなりの量になった。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
バーコードを通す。
男は腕を組んで待っている。
「お支払いは、こちらの精算機へお願いします」
俺が示す。
男は動かなかった。
「お支払いを」
「しない」
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえましたけど」
男は紙袋へ手を伸ばした。
俺は反射的に袋を引いた。
「会計前なので」
右目が、俺を見る。
「小僧」
「はい」
「それを寄越せ」
「お金払ってもらえれば」
「払わん」
「じゃあ渡せません」
言った瞬間。
自分でも驚いた。
十日前の俺なら、絶対に言えなかった。
リザードマンを見て叫んでいた俺が。
今は、百九十センチ近い剣持ちの男に、会計してくださいと言っている。
仕事って怖い。
男の顔から、わずかに表情が消えた。
「……俺の名を知らんから、そんな口が利ける」
「名前は聞いてないので」
「瀬尾」
先輩の声。
さっきより低い。
俺は黙った。
男の手が伸びる。
紙袋ではない。
俺のエプロンの胸元。
三日月を抱く白猫の刺繍ごと、布を掴まれた。
ぐっと身体が前へ引かれる。
「っ」
「ガキが」
男の顔が近づく。
酒の匂いはしない。
まだ飲んでいないから当然だ。
なのに、酔っぱらいより厄介な目をしていた。
「店の物を出せと言っている」
「だから、会計を――」
「手、離せ」
先輩の声だった。
大きくない。
怒鳴ってもいない。
いつもの、低く少しかすれた声。
なのに。
男の指が、一瞬だけ止まった。
俺にも分かった。
空気が変わった。
先輩はカウンターの向こうに立っている。
いつもの薄いグレーのシャツ。
濃紺のエプロン。
胸には白猫。
見た目だけなら、ただのコンビニ店員だ。
「何だ、お前」
男が言う。
「店員」
先輩はそれだけ答えた。
「こいつが先に――」
「会計してねえだろ」
「だから何だ」
「客なら払え」
先輩の目が男を見る。
「客じゃねえなら帰れ」
短い。
説明もない。
男は数秒、先輩を見た。
そして。
俺のエプロンから手を離した。
助かった。
そう思ったのも一瞬だった。
男の右手が、背中へ回る。
大剣の柄。
俺の喉が乾いた。
金属が鞘の中で擦れる音がした。
ほんの数センチ。
刃が出る。
先輩が俺を見る。
「瀬尾」
「はい」
「裏でフライ揚げてろ」
「……え?」
「チキン追加」
「いや、今それどころじゃ」
「いいから」
言葉は強くない。
でも。
初めてだった。
この人の「いいから」に、逆らう気が起きなかったのは。
「……分かりました」
俺は紙袋を置き、バックヤードへ下がった。
振り返りたい。
でも、振り返らなかった。
自動ドアではなく、バックヤードの扉が閉まる。
売り場が見えなくなる。
◇
冷凍庫を開ける。
チキンの箱を出す。
手が少し震えていた。
「……何してんだ俺」
本当にフライを揚げるのか。
外では、剣を抜きかけた男と先輩が向き合っている。
普通なら警察だ。
いや、異世界側の客に警察が通じるのか分からない。
そもそも電話して何て言う。
山奥のコンビニで、異世界から来た剣士が暴れてます。
言えるわけがない。
俺は冷凍チキンを持ったまま、扉を見る。
何か音がすると思った。
剣がぶつかる音。
棚が倒れる音。
怒鳴り声。
悲鳴。
でも。
何も聞こえない。
「……え?」
静かすぎる。
冷凍庫の低い音だけ。
俺は耳を澄ませた。
やっぱり何もない。
一秒。
二秒。
三秒。
扉を開けたい。
でも、先輩は裏にいろと言った。
俺はチキンを作業台へ置いた。
袋を開ける。
「フライ……」
本当に揚げる。
意味が分からない。
でも手順は身体が覚えていた。
必要な数を出す。
フライヤーへ運ぶ。
油へ入れる。
じゅわっ。
大きな音。
その音の方が、売り場よりずっと騒がしい。
タイマーを押す。
七分。
数字が減り始める。
六分五十九秒。
六分五十八秒。
俺はタイマーを見つめた。
ドワーフなら耐えられないだろうな。
そんな、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
たぶん、怖かったからだ。
何か考えていないと、扉を開けてしまいそうだった。
三分。
何も聞こえない。
二分。
何も聞こえない。
一分。
やっぱり何も聞こえない。
ピピピピッ。
タイマーが鳴った。
「……上がった」
俺は籠を上げた。
油を切る。
ここまで来たら、もう戻っていいだろう。
たぶん。
俺はバックヤードの扉へ手を掛けた。
一度止まる。
深呼吸。
開けた。
◇
店内は。
普通だった。
「……は?」
中央の商品棚。
飲料ケース。
弁当棚。
レジ。
ホットスナックケース。
何も倒れていない。
ガラスも割れていない。
床にも何も落ちていない。
さっきまで男がいた場所には、誰もいなかった。
榊原先輩だけが、カウンターの中にいる。
猫エプロンの紐を直しながら、伝票を見ていた。
いつもと同じ顔。
眠たげな目。
「……先輩」
「ん」
「あの客は?」
「帰った」
「帰った?」
「ああ」
俺は入口を見る。
自動ドアの向こうは暗い森。
男の姿はない。
「普通に?」
「何が普通か知らんけど、帰った」
「剣、抜こうとしてましたよね」
「そうだったな」
「俺、掴まれてましたよね」
「見てた」
「で、帰った?」
「帰った」
同じ答えしか返ってこない。
俺は店内を見回した。
本当に何もない。
「……何したんです?」
「別に」
「別にって」
先輩が顎でフライヤーを示した。
「チキン」
「はい?」
「上がったんだろ」
「あ」
「油切れ」
「……はい」
俺はフライヤーへ戻った。
言われるまま油を切る。
紙袋を準備する。
さっきの男が買うはずだったホットスナックは、カウンターの上に置かれたままだった。
「これ、どうします?」
「会計してねえから戻せるもん戻せ」
「揚げ物は?」
「時間見て廃棄」
「ですよね」
あまりにも普通の返事だった。
俺はますます分からなくなった。
◇
午前三時。
その後、普通の客が二組来た。
片方は小柄な獣人らしい夫婦。
もう片方はローブ姿の旅人。
俺は普通に接客した。
水を売った。
パンを売った。
さっき追加で揚げたチキンも二つ売れた。
レジを打ちながらも、頭の片隅にはずっとあの男がいた。
客が途切れる。
俺はケースを拭く。
先輩は伝票を書く。
いつもの深夜に戻っている。
「先輩」
「ん」
聞こうと思った。
何者なんですか。
どうやって追い返したんですか。
怖くなかったんですか。
あの剣を抜かれて、何をしたんですか。
でも。
「……ホットスナック、少し余りそうですね」
「明日減らせ」
「ですよね」
違うことを聞いた。
先輩は何も気にしていない。
俺も、それ以上は聞かなかった。
聞けば答えてくれる気がしなかった。
それに。
十日間で、少し分かってきたことがある。
この人は、話したくないから黙る時と。
本当に知らないから「知らん」と言う時と。
たぶん、両方ある。
今のは。
どっちなのか分からない。
◇
午前六時。
森が消える。
日本の駐車場が戻る。
空は薄く明るい。
俺は入口の床をモップで拭いた。
傷はない。
何もない。
あの大剣の男が本当にいたのかと思うくらい、何も残っていない。
「瀬尾」
「はい」
「そこ終わったらゴミ」
「はいはい」
先輩はいつもどおりだった。
猫のエプロン。
眠そうな顔。
低い声。
だるそうな動き。
遠征へ行く勇者たちが来た夜も、荷物を見ただけで必要な物を言い当てた。
姿の見えない精霊は、先輩にだけ見えていた。
エルフも、魔王軍も、最初から何でもないみたいに見ていた。
それでも俺は。
異世界に慣れている変わった人なんだろう、とどこかで済ませていた。
でも。
今日は違った。
あの男が俺のエプロンを掴んだ瞬間。
先輩の声が変わった。
剣が抜かれかけて。
俺は裏へ下げられた。
七分後。
客は消えていた。
店は無傷だった。
「先輩」
「今度は何だ」
「……いや」
俺はモップを持ち直した。
「何でもないです」
「そうか」
先輩は欠伸をした。
その胸では、三日月を抱いた白猫が笑っている。
十日目。
俺はようやく一つだけ分かった。
榊原遼は。
たぶん、ただのコンビニ店員ではない。



