「ミスター・クロノス……か」
黒い封筒に鋭い視線を落として、桐ちゃんはつぶやいた。
ここは普段は使われていない空き教室。誰もいないこの部屋で、わたしと桐ちゃんは机を間に挟んで顔を突き合わせている。
静かな室内とは対照的に、窓の外では部活動が行われていた。期末テストが終わって、制限されていた放課後の活動が解禁になったのだ。
一通り観察を終えると、桐ちゃんは封筒とカードを机の上に置いた。
「そういえば、こいつを受け取った夏目は大丈夫なのか?」
「うん。明日香のお兄さんに、迎えにきてもらったから」
あのあとわたしは、明日香が持っている携帯電話を使って高等部にいる明日香のお兄さんに連絡を取り、事情をざっと説明した。
高等部もすでに授業は終わっていたので、お兄さんはすぐ中等部まで駆けつけてくれた。
震える明日香をお兄さんに託し、わたしが向かったのは、桐ちゃんの教室だ。
相談できるのは、ストーカーの謎を解いた桐ちゃんしかいないと思った。教室内にはまだ何人か生徒が残っていたので、二人だけで話ができる場所を探して、この場所に落ち着いたというわけ。
「問題は、この封筒とカードが、一体何を意味してるのか……ってことだな」
桐ちゃんは机の上にあるそれらを、トントンと指でつついた。
突然出現した謎の手紙。その意味を解き明かすため、わたしはこれを預かっている。
中に入っていたのがタロットカードだったから、明日香よりわたしが持っていた方がいいと思ったの。
『本日、十八時。Mr.Cronus.』
真っ黒な封筒に書かれていたのはこれだけ。そして、中に入っていたカードのうち一枚は『塔』。災いを意味するカードだ。
こんなものが突然カバンに入っていたら怖いよ。『今日の夕方六時に、お前の身に何か恐ろしいことが起こるぞ』っていわれてるみたいじゃない。
「一応、担任の先生に、この封筒が届いたことは言ってあるの。先生は『イタズラなんじゃないか、あまり気にするな』……って」
そう伝えると、桐ちゃんは「まあ、そうだろうな」と、軽く溜息をついた。
一見不気味だけど、結局これはただの封筒とカードだもん。直接どうこうするって書いてあるわけじゃないし、いくら先生でもこれだけではどうしようもない。
封筒の意味が知りたいなら、自力で解き明かすしかなさそうだ。
「やっぱり脅迫状か何か……なのかな」
言いながらも、わたしの心は嫌な予感で満たされていく。
もう夕方の四時過ぎだ。封筒に書かれた十八時まで、あと二時間もない。
「ねぇ、わたしたちも明日香の家に行ったほうがいいんじゃない? 何が起こるか分からないけど、そばにいれば助けられるかも……」
椅子から立ち上がりかけたわたしを、桐ちゃんが押しとどめた。
「落ち着け、祈梨。まだ脅迫かどうか決まったわけじゃない。それに、夏目には兄さんがついてる。俺たちは、時間ギリギリまでこの封筒の意味を考えよう」
「……うん」
桐ちゃんに冷静に言われ、わたしは再びストンと椅子に座る。
「まず確認しておきたい。夏目がこの封筒を発見したのは、定例報告会が終わって、帰りじたくをしているときだったな。その前に、夏目がカバンの中を見たのはいつだ?」
「昼休みが終わって、お弁当箱を戻したときだよ。さっき明日香にも聞いたけど、そのときは封筒なんて入ってなかったって」
これは明日香のお兄さんが迎えに来るのを待っている間に、明日香本人から聞き出したことだ。
ちなみに昼休みのあとすぐ、わたしと明日香は体育館に移動して、定例報告会に出ている。
「祈梨たちのクラスで、定例報告会のあと一番最初に教室に戻ったのは誰だ。そいつが夏目のカバンの近くで怪しい人物を見たりしてないか?」
「あのときは、十人くらいがほぼ同じタイミングで教室に着いたみたいなの。でも、誰も明日香のカバンにはさわってないし、教室に怪しい人もいなかったって」
これも、さっき明日香のお兄さんを待っているときに、クラスのみんなに聞いたことだ。十人がほとんど同じことを言っていたから、内容に間違いはないと思う。
わたしの話を聞いて、桐ちゃんは顔をしかめた。
「ということは、封筒が夏目のカバンに入れられたのは、昼休み直後から定例報告会が終わって教室に戻ってくるまで……ほぼ定例報告会の真っ最中か。誰がやったか特定するのは難しそうだな。ただ、外から入ってきたヤツじゃないと思う」
桐ちゃんの言う通りだ。
うちの学校は門や外壁のあたりを警備員さんが巡回しているから、外から忍び込むのは無理だろう。
……と、ここまでは分かったけど、まだ誰がやったか絞り込めない。桐ちゃんの顔がさらに険しくなる。
「定例報告会の間はどの教室も空っぽだ。こっそり体育館を抜け出すことさえできれば、誰にも見られずに夏目のカバンに近づける。体育館の中は混みあってたし、スクリーンを映すために暗かった。一人や二人抜け出しても誰も気に留めないだろうな。つまり、学校内にいるヤツなら全員にチャンスがある」
「うん、そうだよね。……あ、でも、生徒会役員の人は除いていいんじゃないかな」
わたしはポンと手を打ちながら言った。
定例報告会のとき、生徒会の役員はスクリーンの横に整列していた。役員ともなると常にみんなの視線を受けるから、体育館を抜け出したらさすがにバレてしまう。
代表である生徒会長は、もっと無理だろう。放送室からの中継とはいえずっとしゃべりっぱなしだったし、それを全生徒が目撃しているのだ。
「生徒会のメンバーを除いても、まだ千人残ってるな……」
嘆くように、桐ちゃんは言った。
千人か。……はぁ。数が多すぎて、考えだけでウンザリしてくる。
「よし。とりあえず誰が夏目のカバンに封筒を入れたかは後回しにして、別のことを考えるか」
桐ちゃんは仕切り直すようにメガネのフレームを押し上げた。
いけない、わたしも嘆いてばかりいないで、もっとシャッキリしなきゃ。明日香のためだもん。
「差出人名は、ミスター・クロノスか。このあいだの魔物の件同様、こっちも校内で噂になってるんだってな。祈梨、何か知ってるか?」
桐ちゃんに聞かれ、わたしはあいまいにうなずいた。
「うん。少しは……」
実は、このあいだ『森の魔物の呪い』について校内で聞き込みをしたとき、クロノス様の話も少し聞いてたんだよね。
呪いの方ばかり気になってたからあまり気にしてなかったんだけど、まさかここに来て役に立つとは思わなかった。
「あのね。困ったときにお願いすると、クロノス様が助けにきてくれるんだって」
わたしは聞きかじった情報を順に話した。
クロノス様に助けられた、という人は何人もいる。その一人が、テニス部に所属している男子だ。
彼はある日、愛用のラケットをどこかに置き忘れて困っていた。そこでクラスと名前と事情を書いた手紙を用意して、クロノス像の前に置いておいたとのこと。
数日後、そのラケットが男子生徒の家に宅配便で届けられた。伝票に差出人の住所はなく、ただ『クロノス』とだけ書いてあったらしい。
さらに、三年生の女子からも話が聞けた。
彼女は成績が伸びなくて悩んでいた。そのことを手紙にしてクロノス像の前に置いておいたら、翌日、下駄箱に数冊の参考書が入っていたそうだ。クロノス様の名前が書かれたカードとともに……。
その参考書がとても分かりやすくて、成績がぐんと上がったんだって。
他にもいろいろ聞いたけど、クロノス様はあらゆる方法で困った生徒たちを助けているみたい。
「何だそれは。まるでヒーロー気取りだな。一体どこの誰なんだ。人助けなんてやってる物好きは」
わたしの話が終わると、桐ちゃんは信じられないという表情を浮かべた。
「それが……正体は分からないの。クロノス様の姿を見た人はいないんだよ」
クロノス様との接触は、手紙を通してのみ。つまり助けてもらった本人でさえ、クロノス様の姿を見ていないのだ。
一体、どこの誰がこんなことをしているんだろう。
助けを乞う手紙は、中庭にあるクロノス像の前に置くというのが暗黙の決まりになっているみたいだけど……。
ということは、もしかしてあの像が夜になると動き出して、みんなを助けに……?
「おかしい」
桐ちゃんの低い声が、わたしの妄想を断ち切る。
「話を聞く限り、そのクロノスとやらが、こんなふざけた封筒を送ってくるような悪い人物とは思えない」
「あっ、そうか。そうだよね」
人助けをするヒーローが、災いのカードを誰かのカバンに忍ばせるなんてこと、するだろうか。差出人名は確かにクロノス様だけど、別人が成りすましているってこと?
……あぁダメだ。何も分からない。
わたしが溜息をつくと、桐ちゃんも向かい側でホッと息を吐き出した。
「まあいい。クロノスについても保留にする。……次はいよいよ、タロットカードについてだな。祈梨。この二枚のカードの意味は?」
桐ちゃんは黒い封筒からカード取り出し、わたしの方に向けた。
「えーと……まず、こっちが『運命の輪』だけど、意味は桐ちゃんも知ってるよね」
「このあいだ俺が落としたカードだよな。意味は確か『変化』だったか」
「そう。それでこっちは『塔』。意味は――『災い』」
分かるのはここまでだ。
この二枚のカードは、正位置でも逆位置でも同じような意味になる。
封筒に重ねて入れられていて、スプレッドを構成してるわけじゃないから、これ以上は読み取れない。
「他に、何か気になる点はあるか? 例えば、普通のタロットカードには描かれていないものがあるとか」
「ううん。至って普通のカードだよ。わたしが使ってるのと全く同じ」
これは『ウェイト版』と呼ばれる、最もよく出回っているタロットカードなの。雑貨屋さんなんかに行くと置いてあったりするから、誰でも手に入れられる。
「じゃあタロットカードからも、特に手がかりはなしか……」
「ごめんね。わたしの専門分野なのに、あまり役に立たなくて」
「いや……そんなことは気にしなくていい。ああ、そうだ!」
桐ちゃんはわたしの方に、少しだけ顔を近づけた。
「祈梨。お前、占ってみろ」
「え? 占い?」
「タロットカードにはタロットカードで対抗だ。俺たちはこれからどうしたらいいか、占ってくれ」
「でもわたし、はっきり言って状況が全然分かってないし、こんな中で占っても……」
ふわり。
そのとき、わたしの頭に、桐ちゃんの手がそっと置かれた。
「できるさ。お前の占い、俺は信じてる」
信じてる。
その言葉が、弱気になりかけていたわたしの背中をぐっと押す。心の中にじわじわと、何か温かいものが込み上げてきた。
「やってみる!」
わたしはカバンからカードを取り出して、机の上に置いた。心を落ち着けるため、まずは大きく深呼吸する。
それからいつものように、そこに手を重ねて……。
「祈梨。それは、何をしてるんだ?」
桐ちゃんがわたしのポーズを見ながら聞いてきた。
「お祈りしてるんだよ。わたし、占いの前にはいつもこうするの」
「なら俺も、祈っていいか?」
「え……? うん。もちろん、いいよ」
わたしの手の上に、桐ちゃんの手がゆっくりと重なった。
あれ、何だかいつもよりリラックスできる。桐ちゃんの手って、こんなに大きかったっけ……。
「祈梨、何を祈ればいい?」
「わたしはいつも、みんなが幸せになりますように、って祈ってるよ」
「じゃあ俺もそうする」
桐ちゃんはメガネの向こうで目を閉じた。わたしも同じく、目をつぶる。
重なった手のぬくもりを感じながら、祈った。
――どうか、わたしの占いで、みんなが幸せになりますように。
わたしと桐ちゃんの気持ちを十分に載せたカード。よくシャッフルしてから、心を込めて一枚だけ引いた。
「『カップの6』だ!」
出たカードは『カップの6』の正位置。
桐ちゃんと一緒に願いを込めたカードを全部使いたかったから、今日は小アルカナも入れた七十八枚をフルに使って占った。
『カップの6』は、五十六枚ある小アルカナカードの中の一枚。大アルカナと同じように、小アルカナカードにもそれぞれ意味がある。
そして、カードの持つ意味は一つじゃない。『カップの6』も、いろいろリーディングできる一枚だ。
今この場に出たカードは、何を伝えてきてくれているんだろう……。
わたしは胸に手を当てて考えた。
『そうね。一つアドバイスするとしたら――直感とひらめきを大事にしなさい、ってことかしら』
浮かんできたのは、いつかママが言っていた言葉だ。
直感と、ひらめき。そのことを強く心に刻みつけながら、わたしは再びカードと向き合う。
「――意味は『過去を振り返る』だよ、桐ちゃん。このカードは多分、私たちにそう伝えてきてる」
一番最初に思ったことを、そのまま伝えた。
「過去を振り返る、か……」
つぶやく桐ちゃんの眉間に、少しシワが寄っている。占いの結果に、ピンときてないんだろうな。
「桐ちゃん、これからどうしよう。もう一回占ってみる? 今度は別のスプレッドを展開して、もう少し詳しく……」
「いや、いい。本音を言えばじっくり占ってもらいたいところだが……タイムリミットだ」
わたしの提案に、桐ちゃんは首を軽く横に振った。そして、制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
待ち受け画面に表示されている時刻は『17:35』。
話し込んでいて、時間を忘れていた。黒い封筒に記された時刻まで、もう間がない。
「ひとまずここまでにして、夏目の家へ行こう。何かが起こると決まったわけじゃないが、念のためだ」
桐ちゃんはスマートフォンをしまうと、カバンを持って立ち上がった。
「うん。そうだね」
わたしは一つ、大きくうなずいた。
