昼休みに倒れて保健室に運ばれた明日香は、家ですっかり落ち着きを取り戻していた。
放課後、わたしが保健室にカバンを運びがてら様子を見に行ったあと、すぐに親が迎えにきて帰宅したみたい。
「心配かけてごめんねぇ。もう平気。保健室でさんざん寝てスッキリしたから!」
突然の訪問にもかかわらず、明日香はわたしと桐ちゃんを自分の部屋に通してくれた。ニコニコしていて一見元気そうだけど、目の下にはまだクマが少し残っている。
「あ、そうだ。ちょっと待ってね。おいでー、オセロ!」
明日香が呼びかけると、ベッドの下から毛糸玉みたいなふわふわした塊がぴょこんと飛び出してきた。
白地に黒いブチのある子猫――オセロだ。
「わぁ、ずいぶん元気になったね」
オセロは自分の尻尾を追いかけて、その場でくるくる回った。
明日香の家に連れてきたときは怪我をしてガーゼをたくさん貼られていたけど、今は小さな傷テープのようなものをぺたりと一枚くっつけているだけだ。
毛並みも当初よりふんわりとしていて、遊び盛りの子猫そのもの。出会った日とはまるで別人……いや、別猫みたい。
「それが、夏目が助けた猫か?」
尋ねた桐ちゃんに向かって、明日香はハキハキと答えた。
「はい。オセロっていうんです! いたずらっ子なんですよー」
オセロはしばらく部屋中を飛び回っていたけど、やがて部屋の隅に置いてあったタオルにじゃれついた。当分の間はそれで遊ぶつもりらしい。
「それより、用事って何? 桐哉センパイまで来るなんて、一体どうしたんですか?」
オセロから目を離した明日香は、きょとんと首をかしげた。ただついてきただけのわたしも、つられて同じポーズになる。
二人の視線を一身に受けた桐ちゃんは、銀フレームのメガネを押し上げてから姿勢を正した。
「順を追って話す。まず……そうだな。うちの学校の男子が、森に住む魔物の正体を確かめにいったって話は、聞いたことがあるか?」
すぐさま明日香が反応した。
「あ、あたし知ってる。森の奥に入った男子が、ぎょろりと光る二つの目玉を見た……っていう話ですよね」
わたしもその話には覚えがある。というか、今日聞いたばかりだ。
「そう、それだ。俺はまず、その話が本当かどうか確かめてみた」
「確かめるって……どうやって?」
わたしが聞くと、桐ちゃんはさも当然という態度で、あっさりと言い放つ。
「そんなの決まってるだろ。森に入って、中を調べてきたんだ」
「えぇぇぇっ?! 桐ちゃん、あの森に一人で入ったの?!」
びっくりして、声が裏返ってしまった。
だってあの森だよ? わたしは入り口に立つだけで怖かったのに、そこに一人で行くなんて……。
「ひぇ~っ、さすが桐哉センパイ。勇気ありますねー!」
明日香も目を見開いておどろいている。
「いつ、森に行ったの?」
わたしは身を乗り出して尋ねた。
放課後、学校で話をしたときは噂話になんて全然興味なさそうだったのに、いつの間に行動してたんだろう……。
「今日、祈梨とケンカ別れしたあとだ」
「え? あのあと……?」
桐ちゃん、あのあと一人で調べてくれたんだ……。わたし、とってもひどいこと言ったのに。
「えっ、ケンカって何?」
そのとき、明日香がわたしたちの間に割って入ってきた。なぜか目をキラキラさせて、興味津々といった様子だ。
そんな顔のまま、とんでもないことを言った。
「ねぇねぇ、ケンカ別れってどういうこと? もしかして――夫婦ゲンカとか?!」
「はぁ? 夫婦? ちょっと明日香、何言って……」
「ごふっっ!」
異議を唱えようとしたわたしの横で、桐ちゃんが盛大に咳込む。
「えっ! ちょっと、大丈夫? 桐ちゃん!」
わたしは明日香に突っ込むのをやめて、桐ちゃんの背中をさすった。
桐ちゃんてば、どうしちゃったんだろう。真っ赤になるまでゴホゴホしちゃって。明日香はそんなわたしたちを見て、お腹抱えて笑ってるし。
「あはは。そのリアクションの意味、深くは聞かないでおきまーす。……で、桐哉センパイ。森で何か見つけたんですか?」
「あ……ああ」
桐ちゃんはズリ落ちたメガネを直すと、コホンとひとつ咳払いして、制服のポケットから薄い機械……スマートフォンを取り出した。
「写真を撮ってきた。これが、魔物の正体だ」
「えぇ?!」
「魔物の正体?!」
明日香とわたしは、差し出されたスマートフォンの画面をあわててのぞきこむ。
そこに映っていたのは――深い森の中でらんらんと光る二つの点。
え、これって、魔物の……目?!
「……ひぃっ!」
かすれた悲鳴を上げながら、明日香がわたしにしがみついてきた。わたしも思わず、画面から目をそむける。
そこに、桐ちゃんの冷静な声が飛んできた。
「落ち着け。これはただのガラクタだ。怖がる必要はない」
え? ガラクタ?!
「次の写真を見るともっとよく分かる。この写真を撮った場所からもう少し奥に入って、光に近づいて撮った」
わたしと明日香は改めてスマートフォンに視線を戻した。桐ちゃんは画面をスライドして、次の写真を表示させる。
今度は、何だかよく分からないものが映っていた。
木の枝や、ビニール袋の切れはしや、空き缶なんかを草で絡めて作ったカゴ……みたいなもの?
「桐ちゃん、これ何?」
「これは、カラスの巣だ」
「カ……カラス?!」
明日香の声が裏返る。
わたしの脳裏には、オセロを襲っていた乱暴なカラスたちの姿がよみがえってきた。自然と、背筋がゾーッとしてくる。
だけど、桐ちゃんはいつものクールな表情で、スマートフォンの画面を示した。
「写真をよく見てみろ。巣の周りにキラキラしたものが落ちてるだろ。それは鏡か何かの破片だ。カラスは光るものを集めて、巣に溜めておく習性がある。おそらくその破片も、カラスのコレクションだと思う」
桐ちゃんの言う通り、写真に映っているカラスの巣の周辺にはキラキラした破片がいくつか落ちていた。それは巣の中にもまぎれこんでいるようだ。
「男子が見た『二つの目』は、このカラスのコレクションが日光を反射した光だ。木の間からうまい具合に二つの光が見えて、それを魔物の目だと思い込んだんだろう」
そこまで言うと、桐ちゃんはスマートフォンを再びポケットにしまった。
「そもそもカラスは『使い魔』なんかじゃない。ヤツらが森周辺で獲物を捕まえるのは、たまたま近くに巣を作ったからだ。その行動が森の不気味さと結びついて、呪いだの何だのと変な話になってる」
なるほど。
きっとあの二人の男子は怖い怖いと思いながら森に入って、ちらっと見た光をよく確かめもせずに魔物だって思い込んじゃったんだね。
わたし、こういう状況を表すことわざ知ってる。
幽霊の正体見たり、枯れ尾花。
「ちょっと待ってください桐哉センパイ!」
ハイ、と手を挙げて話を止めたのは明日香だった。桐ちゃんが目で「何だ?」と促すと、その明日香が質問する。
「今の話だと、森に魔物がいるなんてカン違いだったってことですよね。それは分かりました。でもそれなら、あたしのあとをつけてきたのは一体誰なんですか?」
あ、そうだ。
確かに今の話が本当なら、魔物はいない=呪いはないってことになって、明日香がストーカーされてる理由が全く分からなくなっちゃう。
でも、桐ちゃんの説明は説得力があった。写真もあるし、正しいとしか思えない。これは一体、どういうこと?
「それなんだが……夏目。昨日の夜、誰かが窓を開けようとしたって言ったよな。それはこの部屋の窓か」
桐ちゃんは部屋の中を見回しながら聞いた。
「はい、そうです。そこの窓ですよ」
明日香はベッドの向かい側を指差す。
そこにあったのは大きな掃き出し窓だ。明日香の部屋は一階で、その窓を開けると庭に出られるようになっている。今はカーテンが閉まっていて、外は見えないけどね。
「窓が叩かれた時刻は? そのとき、この部屋はどういう状態だった?」
「えーと、夜の十時くらいでした。部屋の中は今とあんまり変わりませんけど……もう寝る直前だったので、電気は消えてました」
桐ちゃんの矢継ぎ早の質問に、明日香は難しい顔をしながらも答える。
「夜十時か……」
桐ちゃんは長い指を顎に添えた。ぎゅっと眉根を寄せ、何か考え込んでいるようだ。
しばらくそうしたあと、再び口を開いた。
「夏目、部屋の電気を消してくれ。それからなるべく、音を立てるな!」
鋭い声に、部屋の中の空気がピリッと引き締まる。急速に緊張感が増していく。
「き、桐ちゃん……。一体、何をしようとしてるの?」
わたしが聞くと、桐ちゃんは間髪入れず切り返した。
「ゆうべと同じ状況を作るんだよ。それで『ヤツ』をおびき出す。夏目、そういうことだから照明を落としてくれ」
「はいっ」
指示を受けた明日香が照明のスイッチのところへすっ飛んでいく。
暗くなってから、わたしは桐ちゃんのそばに寄り、小声でささやいた。
「本当にこんなことで、ストーカーが出てくるの?」
「五分五分だな。ゆうべヤツがあらわれた時間よりだいぶ早いのが気になるが、暗くして静かにしときゃ、出てくる可能性はある」
「もし誰も現れなかったら?」
「出るまで待つ。少なくとも、ゆうべと同じ、十時まではな」
今は七時半を回ったところだ。十時まで待つって……。
「そんなに……?」
黙って何時間も待つなんて、考えただけでウンザリしてくる。
「まぁまぁ祈梨。とりあえず少し様子見てみようよ。遅くなるようだったら二人ともウチに泊まってくれればいいし。それに、父さんと兄さんが裏の道場にいるから、何かあってもすぐに駆けつけてくれるよ。安全面も問題ない」
いつの間にか明日香がすぐ横に来ていた。
ストーカーに追われている本人になだめられたら、わたしも大人しくうなずくしかないよね。
「分かった。わたしも待ってみる」
あとはただ、三人で黙って座るだけだった。
暗くて静かな部屋の中、どこかに置いてあるアナログ時計がコチコチと時を刻んでいる。さっきまでタオルにじゃれてたオセロは、眠っちゃってるみたい。
……おびき出すって、そんなにうまくいくかな。本当に、待っているだけでいいのかな。
そもそも、明日香のあとをつけてきた人って、一体誰なんだろう……。
「――ハッ」
静寂を破ったのは、明日香の息を呑むような音だった。わたしのすぐ隣で、ショートカットの頭がサラッと揺れる。
「明日香、どうしたの」
「しっ! 静かに……誰か来る」
明日香の耳が何かを捉えたみたい。
何? 一体、誰が来るって言うの?!
――カリカリカリ……。カチャカチャコンコン、カリカリカリ……。
その場でじっとしていると、やがてわたしの耳にそんな音が届いた。
「来た! 桐哉センパイ、窓です、窓!」
「夏目、子猫だ。子猫を窓のところへ誘導しろ!」
「子猫? オセロですか? はいっ!」
闇の中、桐ちゃんと明日香の声が飛び交う。
わたしはただ一人、何が起きているのか分からずその場にヘタり込んだ。それから十数秒後……。
「うわ、まぶし……!」
急に明るくなり、目がくらむ。
桐ちゃんが、部屋の明かりを再びつけたみたい。同時にシャッとカーテンの開く音が室内に響いた。
「……あれっ」
まぶしさに慣れて視界が戻った瞬間、わたしは思わず声を上げてしまった。
部屋の中には、子猫を抱いて外を見つめる明日香。
そして窓の外には……。
「猫がもう一匹!」
灰色っぽい大きな猫だった。
その猫は、窓枠を何度も引っかいて、しきりにそこを開けようとしている。さらに、ガラスを隔てた先にいるオセロを見て、切ない声で鳴いた。
「にゃあぁぁ~ん」
え、何これ。猫が二匹!
これは一体、どういうこと――?!
「親猫だ。その子猫の」
十分後。落ち着いたところで、桐ちゃんが二匹の猫を見つめながら言った。
窓のところに来ていた灰色の猫は今、明日香の部屋の中にいる。オセロはさっきからその猫にべったりだ。
「子猫が親猫とはぐれてカラスに襲われたんだろう。それを夏目が助けた。あとになって子猫を探しにきた親猫が、自分の子供の匂いのついた夏目をつけまわし、最後にこの家にたどり着いた。追跡者の正体は、この親猫だ」
淡々と推理を述べる桐ちゃん。
その間も、灰色猫とオセロは仲むつまじく身を寄せ合っている。この感じは、間違いなく親子だろう。
「じゃあ、親猫が子猫を追ってきたってことかぁ……。猫のお母さん。オセロを勝手に連れてきちゃってごめんねぇ~」
明日香は二匹の猫のもとに歩み寄り、一緒になって遊び始めた。オセロはもとより、親猫の方も人なつっこいようで、すぐ明日香にじゃれつく。
わたしはその光景をながめながら、桐ちゃんに聞いた。
「明日香のストーカーが猫だったっていうこと、桐ちゃんはいつ気が付いたの?」
桐ちゃんはすべてを分かった上で行動していたように思える。灰色の猫を見てもたいしておどろいていなかったし。
わたしはてっきり、人間の仕業だと思った。桐ちゃんはいつごろ、真実に気付いたんだろう。
「夏目がストーカーに追われたとき『いるはずなのに姿が見えない』って言ってただろ。もし相手が人間だったら、もと何かの痕跡を残してるはずだ。だからなんとなく、人間じゃない『何か』だと思った。……あとはまぁ、子猫が一匹だけでいるのはおかしいとか、もろもろの事情からの推測だな」
明日香を追っていたのが猫なら、振り返っても姿が見えなかったことに理由が付く。人じゃなくて猫なら、ちょっとした草むらに身をひそめたりできるからね。
「すごいね。さすが桐ちゃん。探偵みたい!」
「別に、たいしたことはない」
「ううん。すごいよ。それに……一人で森の中にまで行ってくれて、本当にありがとう。わたし、ひどいこと言ったのに、桐ちゃんはちゃんと調べてくれたんだね」
「何度も謝らなくていいだろ。済んだ話だ」
「でも……」
ぐうぅぅぅ~。
ふいに、わたしたちの会話は中断された。……何ともおかしな音によって。
「あっ、ごめ~ん、今のあたしのお腹の音でーす。晩ご飯まだなんだよねぇ。あーお腹すいた。ねぇオセロ、オセロのお母さん。お腹すいたねー」
明日香が灰色の猫を抱き上げながら、ぺろりと舌を出す。
あーもう。明日香のせいで、気が抜けちゃったよー。
でも、わたしのお腹もスッカラカン。晩ご飯がまだなのは一緒だし、そういえばお昼ご飯も食べてないや。昼休みは、倒れた明日香のことで精いっぱいだったからね。
「わたしもお腹すいた」
「……俺もだ」
桐ちゃんもうなずいた。二人で顔を見合わせて、笑う。
「帰るか。祈梨」
「うん。帰ろう!」
帰って、ママのビーフストロガノフ、食べなきゃね!
