結局わたしは森に入れず、気が付くと自分の家の前に立っていた。
これじゃあ逃げ帰ってきただけだ。わたしって駄目だなぁ、本当に。
「はぁ……」
溜息をつきながら玄関の鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
だけど、いくら手首を回してみてもまるで手ごたえがなかった。玄関に鍵がかかっていなかったみたい。
あれ、もしかして、ママがもう帰ってきてる? と思いながらでドアを開けると、ふんわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
これは、ビーフストロガノフ! わたしの大好きなメニューだ。そうこうしているうちに、リビングからママがひょいと顔を覗かせた。
「あら祈梨、お帰り。今、晩ご飯を作ってるところなのよ」
「ママ! 今日は早かったんだね!」
「テレビの収録がスムーズに行ってね。久々に明るいうちに帰ってこられたわ」
売れっ子占い師のママは毎日とても忙しくて、帰りはいつも夜なんだ。
このごろはわたしも家事が少しできるようになったから「晩ご飯ならわたしが作ろうか」って提案しているんだけど、ママは「母親としてそれぐらいさせて」って言うんだよね。
その代わり、朝ご飯とお弁当はわたしの担当なんだ。
ちなみに、ママがうんと遅くなる日は、隣の桐ちゃんの家で一緒にご飯を食べることになっている。
お隣さんってことで、昔から桐ちゃんのママにはいろいろと助けてもらった。……特に、パパが亡くなってからはね。
ときどき助けを借りながらだけど、ママはわたしのために一生懸命がんばってくれている。ママは占い師としても、わたしのママとしても、ナンバーワンだ。
「どうしたの、祈梨。今日は何だか元気がないわね」
リビングのソファーに身体を預けたとたん、ママにこう聞かれてしまった。
うわ、どうしてわたしがヘコんるって分かっちゃったんだろう。まだたいして話もしてないのに。
やっぱり占い師の目は、ごまかせないなぁ。
「うん。えっとね、実は……」
わたしは思っていることを全部ママに話した。
明日香を助けようとしたのに、うまくいかなかったこと。役立たずぶりを桐ちゃんに指摘されて、その通りすぎて言い返せなかったこと。勉強のことばかり話す桐ちゃんを見てたら、悲しくなってしまったこと……。
もどかしくて、悔しくて、悲しい。話しているうちに、わたしが今どんな気持ちなのかがはっきりしてくる。
何だか不思議だ。ママを前にすると、心の中がすっきり整理されていく。これも、占い師の力なのかな。
「祈梨は、桐哉くんがなぜあんなに必死に勉強しているか、知ってる?」
ママは微笑みを保ったまま口を開いた。わたしは首を横に振る。
桐ちゃんが勉強をする理由……。何だろう。そんなこと、考えたこともなかった。
「桐哉くんはね、お医者さんになりたいんだって」
「お医者さん?」
「桐哉くんのママに聞いたの。桐哉くんがお医者さんを目指して勉強を始めたのは、三年前だそうよ」
三年前。それって……。
「パパが、亡くなったとき……?」
おずおずと尋ねると、ママはゆっくりとうなずいた。
「パパが亡くなったとき、祈梨はしばらく泣きっぱなしで、ご飯も食べなかったでしょう。桐哉くんが何度も様子を見にきてくれたのに、会う余裕もなくて」
「そこまでひどかったっけ、わたし」
パパが亡くなってからしばらく、わたしは何も手につかなかった。
そのころの記憶は薄ぼんやりとしている。とても悲しかったことだけは、よく覚えているけど……。
「そのとき桐哉くんは、桐哉くんのママにこう言ったそうよ。『俺は医者になる。勉強をがんばるから、医学部に行かせてくれ』って」
ママはさらに、わたしに言い聞かせるように話を続けた。
「大学の医学部って、相当難しいのよ。今からたくさん勉強しないと入れないの。でも、桐哉くんは必死でがんばってる。うちのパパみたいに、病気で苦しんで亡くなる人を、少しでも助けるために……ね」
パパみたいに病気で苦しんでいる人を助けたい。
「桐ちゃんが、そんなことを……? え、じゃあ、桐ちゃんが勉強をがんばっているのはもしかして、わたしのパパのため?」
――待って、待って。それならわたし、桐ちゃんにすごくひどいこと言っちゃった。
桐ちゃんは自分のことだけを考えていたのではない。わたしが大好きなパパのことを思いやってくれていたんだ。
わたしも、パパとの約束を守るために、占いをやっている。
誰かのために……大切な人のためにがんばりたいと思う気持ち。それはわたしも桐ちゃんもおんなじだ。
それなのに、わたし……。
「ママ、わたし桐ちゃんに……謝らなきゃ」
ぽつりと呟いたわたしに、ママはうなずいた。
「そうね。それに、もっと話を聞いた方がいいわよ。桐哉くんががんばっているのは、うちパパのためだけかしら?」
「え? 他に理由があるの?」
と、わたしが首を傾げたとき、ピンポーンという音がリビングに響いた。
インターフォンだ。誰か来たみたい。
うちのインターフォンはリビングにある受話器とつながっている。ママがそれを取り上げて応答し始めた。
「うふふ。祈梨、ちょうどいいタイミングよ」
二、三言話して受話器を置くと、ママはニンマリとわたしを振り返った。
その直後、ドタドタっとあわただしい足音がして、リビングのドアが大きく開く。
「え、桐ちゃん!」
桐ちゃんが制服姿で飛び込んできた。
「祈梨、今から夏目の家に行くぞ!」
ただでさえ突然すぎなのに、さらに腕を引っぱられ、わたしは二重にびっくりして聞き返す。
「え? 明日香の家? な、何で?」
「話は行ってからだ。ほら早く」
理由を説明することもなく、桐ちゃんはわたしの腕をさらにぐいぐい引く。
そこへきて、ママもわたしの肩にそっと手を置いた。
「行ってらっしゃい祈梨。桐哉くんに、言わなきゃいけないことがあるんでしょ?」
あーもう。よく分からないけど、とりあえず今は、流れに乗ろう!
わたしはリビングを出る前に、振り返って叫んだ。
「ママ、帰ってきたら晩ご飯食べるから。取っておいてね、ビーフストロガノフ!」
時刻は夜の七時半。
夏の太陽はすっかり沈み、道ばたの街灯が輝いている。
「桐ちゃん。さっき、学校でひどいこと言ってごめんね」
二人で歩き出してから、わたしは真っ先に謝った。
すると、桐ちゃんも頭に片手を当ててつぶやく。
「いや俺も……ちょっと言い過ぎた。夏目のことは心配だが、無茶したら祈梨も巻き込まれて危険な目にあうかもしれないだろ。それを、止めたかったんだ」
つまり、桐ちゃんはわたしを心配してくれてたってことか……。
「そうだったんだ。じゃあなおさら、ごめん」
「いいって言ってるだろ。俺もあんな言い方して悪かった」
「あのね、桐ちゃん。桐ちゃんは、わたしのパパのことを思って、お医者さんを目指してるんでしょう?」
わたしはさっきママから聞いた話を出してみた。
「……何で祈梨が、そのこと知ってるんだ」
「ママに聞いた。パパみたいに病気で亡くなる人を減らしたくて、桐ちゃんは勉強をがんばってるんだよね。なのにわたし『勉強バカ』だなんて言っちゃった。本当にごめん」
「祈梨の父さんのため……だけじゃない」
桐ちゃんはそこで、ピタリと足を止めた。
「え?」
わたしもつられて立ち止まる。
「……祈梨の父さんが亡くなったとき、飯も食えないほど落ち込んでる祈梨を見て、俺は何もできなかった。俺は祈梨の父さんがどんな病気で、どれほど苦しんでたか、まるで知らなかったんだ。だから祈梨に何て声をかけたらいいか分からなくて、悔しかった。中途半端なことを言っても、祈梨を余計に悲しませるだけだからな」
桐ちゃんの顔は、ものすごく真剣だった。
はりつめるような切なさを感じて、わたしはハッと息を呑む。
「だから俺は、医者になって病気のことをもっとよく知ろうと思った。祈梨がこの先、父親のこと思い出して悲しくなったときも、医者なら悲しみを共有できるだろ? ちょっとは話を聞いてやれる……かもしれない」
「悲しみを、共有……?」
あれ、それじゃあ、桐ちゃんがお医者さんになるためにがんばる理由って……。
――わたしのため?
そう思ったとたん、胸がドキっとした。なぜか顔まで赤くなってくる。
踊り出しそうな胸を押さえながら桐ちゃんを見上げると、桐ちゃんは慌ててそっぽを向いた。
「もういいだろ、この話は。夏目の家に行くぞ!」
そのままずんずん歩き出す。
「あっ、待ってよ桐ちゃん!」
すぐに追いかけ始めたけど、桐ちゃんとの差は一向に埋まらず、わたしは小走りになった。
「ねぇ桐ちゃん。明日香の家に行って、一体何をするの?」
ようやく追いついて横に並び、聞いてみる。
すると、すっかり引き締まった顔つきを取り戻した桐ちゃんは、きっぱりと言いきった。
「決まってるだろ。こっちからおびき寄せるんだよ――姿の見えない追跡者を」
