金曜日の午後六時を過ぎた。俺はレジの前に立ちながら、入口のガラス扉を何度も見ていた。いつもなら、この時間になると小さなベルが鳴って、美緒が店へ入ってくる。制服姿で鞄を抱えて、少し疲れた顔でショーケースを眺め、それから決まってモンブランを一つ注文する。
先週までは、それが当たり前の光景だった。だから今日も、そろそろ来るだろうと思っていた。ショーケースの中には、モンブランが三つ残っている。そのうち一つを見るたびに、美緒が来たら渡そうと考えてしまう。六時半を過ぎてもベルは鳴らず、七時になっても扉は開かなかった。
俺はレジを拭くふりをしながら外を眺める。商店街には人が行き交っているのに、探している姿だけが見つからない。今日は休みなのかもしれない。そう思えば簡単な話なのに、胸の奥には嫌な予感が残っていた。
「高瀬、さっきから何をそんなに見てるんだい?」
厨房から出てきた店長が、俺の視線の先を追う。
「えっと……毎週来る子がいるんです。今日も来ると思ってたんですけど」
「毎週モンブランを買っていく子か?」
「そうです。覚えてたんですね」
「そりゃ覚えるだろ。毎週同じ曜日、同じ時間、同じケーキだからな」
店長はそう言って笑ったが、俺は笑えなかった。毎週、同じ時間に来ることが、当たり前だと思っていたからだ。美緒が来ないだけで、こんなにも店が広く感じるなんて知らなかった。
閉店時間が近づいても、結局ベルは鳴らなかった。俺は残ったモンブランを冷蔵庫へ片づけながら、明日は来るかもしれないと思う。金曜日に来られなかったなら、次の週には来るかもしれない。そうやって自分を納得させようとした。
ところが、週が明けても美緒は学校へ来なかった。月曜日も、火曜日も、水曜日も姿を見ない。俺は休み時間になるたび廊下へ出て、別のクラスの前まで歩いていく。友達から見れば、かなり怪しい行動だったと思う。それでも、姿を見つけられないまま時間だけが過ぎていった。木曜日の昼休み、俺が教室へ戻ろうとしていると、廊下で同じ学年の男子に声を掛けられた。美緒と同じクラスの生徒だった。
「高瀬、お前、桜井探してる?」
「え? なんで知ってるんだよ」
「この前から何回も三組の前を通ってるだろ」
「……見てたのか」
「そりゃ目立つって。桜井なら、今週ずっと休んでるぞ」
「体調悪いの?」
「それが、詳しくは知らない。でも、入院してる弟がかなり悪いらしいって話は聞いた」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。弟が入院している。その言葉が、これまでの記憶と一つずつ繋がっていく。毎週金曜日に買っていたモンブラン。来週もあるかと何度も確認していたこと。ケーキを受け取ったあと、すぐに病院へ向かっていた姿。そして、モンブランを見るときだけ少し寂しそうに笑っていたこと。俺はどうして気づかなかったのだろうと思った。
いや、気づけるはずがなかった。美緒は何も話していなかったし、俺も聞かなかった。聞けばよかったという後悔が胸に残る。もっと早く知っていれば何かできたのかもしれない。そんな考えが浮かんだところで、自分には何もできないという現実が重くのしかかった。
その日のアルバイトでも、美緒は来なかった。午後六時を過ぎ、ショーケースの前に立っても、モンブランを買う人はいない。俺はケーキを眺めながら、あの日の美緒の言葉を思い出していた。
『これ、来週もありますか?』
あのとき、俺はただ商品の在庫を心配しているのだと思った。でも違ったのかもしれない。美緒は、来週も弟と一緒に食べられることを願っていたのだ。そう考えると、胸が苦しくなった。店長が隣へ来て、ショーケースの中を見ながら口を開く。
「高瀬」
「はい」
「桜井さんの弟さんのこと、聞いたよ」
「店長も?」
「少し前に、お母さんが店に来たんだ。病院へ持っていくからって、モンブランを買っていった」
「……そうだったんですか」
「最近は、あまり食べられないらしい」
俺はモンブランを見つめた。自分が毎週何気なく箱へ入れていたケーキが、美緒にとってどれだけ大切なものだったのか、今になって分かった気がする。病気を治すことなんてできない。病院へ連れていくこともできない。それでも、俺にも何かできることがあるのではないか。そう考えたとき、ショーケースの中のモンブランが目に入った。
「店長」
「なんだ?」
「これ、少し小さくして作れませんか?」
「小さく?」
「弟さんが食べやすいように。クリームも少し軽くして、スポンジも柔らかくして……一口でも食べてもらえるようなものにしたいんです」
店長は黙って俺を見る。それからショーケースへ視線を戻し、しばらく考えた。
「高瀬、作ってみるか?」
「いいんですか?」
「売り物じゃないなら、失敗しても構わない。ただし、材料は無駄にするなよ」
「分かりました」
その言葉を聞いた瞬間、俺はエプロンの紐を締め直した。美緒がいつ戻ってくるのかは分からない。それでも、戻ってきたときに渡せるものを作っておきたかった。俺にできることは、それくらいしかない。そう思いながら、俺は厨房へ入った。
閉店後の厨房には、昼間とは違う空気が流れていた。店内の照明が落とされ、厨房だけに明かりが残っている。俺は店長の横でスポンジを焼き、栗のクリームを作った。普段なら教えてもらった通りに作ればいいのに、今日は何度も手が止まる。春樹という名前の弟が、どんな顔で食べるのか想像できない。そもそも食べられるのかどうかも分からない。それでも、できるだけ柔らかく、少しでも食べやすくしたい。四回目の試作を前に、俺はクリームを見つめた。
「店長、これで大丈夫ですか?」
「味を見てみろ」
「俺が?」
「作った本人が食べなきゃ分からんだろ」
スプーンで少しだけ口に入れる。栗の甘さが広がった。いつものモンブランより軽くしてあるから、口の中で溶けるような感じがする。
「どうだ?」
「……これなら、食べやすいと思います」
「なら、それでいい」
「本当に大丈夫ですかね」
「高瀬」
「はい」
「お前が今できることをやった。それで十分だ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ顔を上げた。自分でも分かっている。
俺は医者じゃない。
病気を治せるわけでもない。
春樹くんを元気にできるわけでもない。
でも、ケーキを作ることならできる。それなら、それをやればいい。俺は完成した小さなモンブランを箱へ入れ、翌日の夕方、病院へ向かった。受付で美緒の名前を伝えると、病室を教えてもらえる。廊下を歩きながら、足が重くなる。突然来た俺を美緒はどう思うだろう。迷惑かもしれない。それでも、ここまで来た以上は帰れなかった。病室の前で一度だけ深呼吸をして、扉を叩く。
「はい」
「桜井さん?」
「……高瀬くん?」
扉を開けた美緒は、店で見るよりずっと疲れた顔をしていた。髪も少し乱れている。俺を見ると驚いたように目を丸くし、それから立ち上がろうとする。
「どうしてここに?」
「ごめん。急に来て」
「ううん。どうしたの?」
「これ……春樹くんに」
俺は箱を差し出した。美緒は箱と俺の顔を交互に見る。
「これ、モンブラン?」
「うん。店長と一緒に作った」
「どうして……」
「春樹くん、モンブラン好きなんだろ?」
美緒の目が揺れた。何か言おうとしているのに、声が出てこない。俺はその様子を見て、来てよかったのかもしれないと思った。
「食べられるか分からないけど……一口でも食べられたらと思って」
「……ありがとう」
美緒が箱を開ける。栗の香りが広がった瞬間、ベッドから小さな声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」
「春樹、起きたの?」
「なんか、甘い匂いする」
「高瀬くんが持ってきてくれたの」
「高瀬くん?」
春樹くんがこちらを見る。俺は少し緊張しながら頭を下げた。
「初めまして。高瀬雄介です」
「ケーキ屋さんのお兄ちゃん?」
「そう。お姉ちゃんが毎週来てくれてる店で働いてる」
「じゃあ、モンブランのお兄ちゃんだ」
「……その呼び方、ちょっと恥ずかしいな」
春樹くんが笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の胸にあった緊張が少しだけほどけた。美緒も笑っている。俺はその二人を見ながら、作ってきたケーキを春樹くんの前へ置いた。美緒が小さく切り分け、春樹くんの口元へ運ぶ。
「食べられそう?」
「うん」
「無理しないでね」
「分かってるって」
春樹くんが一口食べる。すぐには何も言わなかった。俺は息を止めるようにして、その顔を見つめる。やがて春樹くんがゆっくり目を開けた。
「おいしい」
「本当?」
「うん。栗の味がする」
「よかった……」
美緒の声が震えた。俺は何も言わずに二人を見ていた。春樹くんはもう一口食べると、嬉しそうに笑った。
「お姉ちゃん、いつものよりこっちがいい」
「そう?」
「うん。もう一個食べたい」
「駄目。今日は一個だけ」
「えー」
「また今度ね」
「じゃあ、来週」
その言葉に、美緒の手が止まった。
「……来週?」
「うん。来週も食べたい」
「じゃあ……また買ってくる」
「約束?」
「約束」
美緒が春樹くんの小指に自分の小指を絡める。俺はその光景を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。こんな小さな約束が、二人にとってどれほど大切なのかは分からない。それでも、来週もモンブランを作ろうと思った。春樹くんがまた笑えるように、美緒がまた笑えるように。
しばらくして春樹くんが眠ると、美緒はベッドの横で俯いた。俺は何を言えばいいのか分からず、少し離れた場所で立っていた。
「高瀬くん」
「うん」
「来てくれて、本当にありがとう」
「俺はケーキを持ってきただけだから」
「それでも嬉しかった」
「……そっか」
「春樹、最近あまり食べられなかったの。でも今日は、ちゃんと笑ってくれた」
美緒は涙を拭いながら笑った。俺はその顔を見て、何もできない自分が悔しくなった。それでも、今日この時間だけは、春樹くんに笑ってもらえた。それだけを大切にしようと思った。
「また作るよ」
「え?」
「来週も。春樹くんが食べたいって言ってたから」
「……うん。お願い」
「約束する」
病院を出る頃には、外はもう暗くなっていた。俺は駅へ向かいながら、来週のことを考えていた。美緒が店へ来る。俺がモンブランを作る。春樹くんが笑う。その光景を当たり前のように想像していた。
だから翌朝、スマートフォンに届いた美緒からのメッセージを見たとき、俺は何度も画面を読み返した。
『春樹が、昨日の夜に亡くなりました』
昨日、笑っていた。
おいしいと言っていた。
来週も食べたいと言っていた。
俺はスマートフォンを握ったまま、何もできなかった。
約束したのに。来週も作ると、約束したのに。
その日の夕方、店のショーケースにはモンブランが並んでいた。俺はその中の一つを見つめながら、昨日の春樹くんの笑顔を思い出していた。あの笑顔だけは、まだ俺の中に残っている。
だから俺は、モンブランを一つだけ冷蔵庫の奥へしまった。
いつか美緒が戻ってきたときに、渡せるように。
それだけは、しておきたかった。
先週までは、それが当たり前の光景だった。だから今日も、そろそろ来るだろうと思っていた。ショーケースの中には、モンブランが三つ残っている。そのうち一つを見るたびに、美緒が来たら渡そうと考えてしまう。六時半を過ぎてもベルは鳴らず、七時になっても扉は開かなかった。
俺はレジを拭くふりをしながら外を眺める。商店街には人が行き交っているのに、探している姿だけが見つからない。今日は休みなのかもしれない。そう思えば簡単な話なのに、胸の奥には嫌な予感が残っていた。
「高瀬、さっきから何をそんなに見てるんだい?」
厨房から出てきた店長が、俺の視線の先を追う。
「えっと……毎週来る子がいるんです。今日も来ると思ってたんですけど」
「毎週モンブランを買っていく子か?」
「そうです。覚えてたんですね」
「そりゃ覚えるだろ。毎週同じ曜日、同じ時間、同じケーキだからな」
店長はそう言って笑ったが、俺は笑えなかった。毎週、同じ時間に来ることが、当たり前だと思っていたからだ。美緒が来ないだけで、こんなにも店が広く感じるなんて知らなかった。
閉店時間が近づいても、結局ベルは鳴らなかった。俺は残ったモンブランを冷蔵庫へ片づけながら、明日は来るかもしれないと思う。金曜日に来られなかったなら、次の週には来るかもしれない。そうやって自分を納得させようとした。
ところが、週が明けても美緒は学校へ来なかった。月曜日も、火曜日も、水曜日も姿を見ない。俺は休み時間になるたび廊下へ出て、別のクラスの前まで歩いていく。友達から見れば、かなり怪しい行動だったと思う。それでも、姿を見つけられないまま時間だけが過ぎていった。木曜日の昼休み、俺が教室へ戻ろうとしていると、廊下で同じ学年の男子に声を掛けられた。美緒と同じクラスの生徒だった。
「高瀬、お前、桜井探してる?」
「え? なんで知ってるんだよ」
「この前から何回も三組の前を通ってるだろ」
「……見てたのか」
「そりゃ目立つって。桜井なら、今週ずっと休んでるぞ」
「体調悪いの?」
「それが、詳しくは知らない。でも、入院してる弟がかなり悪いらしいって話は聞いた」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。弟が入院している。その言葉が、これまでの記憶と一つずつ繋がっていく。毎週金曜日に買っていたモンブラン。来週もあるかと何度も確認していたこと。ケーキを受け取ったあと、すぐに病院へ向かっていた姿。そして、モンブランを見るときだけ少し寂しそうに笑っていたこと。俺はどうして気づかなかったのだろうと思った。
いや、気づけるはずがなかった。美緒は何も話していなかったし、俺も聞かなかった。聞けばよかったという後悔が胸に残る。もっと早く知っていれば何かできたのかもしれない。そんな考えが浮かんだところで、自分には何もできないという現実が重くのしかかった。
その日のアルバイトでも、美緒は来なかった。午後六時を過ぎ、ショーケースの前に立っても、モンブランを買う人はいない。俺はケーキを眺めながら、あの日の美緒の言葉を思い出していた。
『これ、来週もありますか?』
あのとき、俺はただ商品の在庫を心配しているのだと思った。でも違ったのかもしれない。美緒は、来週も弟と一緒に食べられることを願っていたのだ。そう考えると、胸が苦しくなった。店長が隣へ来て、ショーケースの中を見ながら口を開く。
「高瀬」
「はい」
「桜井さんの弟さんのこと、聞いたよ」
「店長も?」
「少し前に、お母さんが店に来たんだ。病院へ持っていくからって、モンブランを買っていった」
「……そうだったんですか」
「最近は、あまり食べられないらしい」
俺はモンブランを見つめた。自分が毎週何気なく箱へ入れていたケーキが、美緒にとってどれだけ大切なものだったのか、今になって分かった気がする。病気を治すことなんてできない。病院へ連れていくこともできない。それでも、俺にも何かできることがあるのではないか。そう考えたとき、ショーケースの中のモンブランが目に入った。
「店長」
「なんだ?」
「これ、少し小さくして作れませんか?」
「小さく?」
「弟さんが食べやすいように。クリームも少し軽くして、スポンジも柔らかくして……一口でも食べてもらえるようなものにしたいんです」
店長は黙って俺を見る。それからショーケースへ視線を戻し、しばらく考えた。
「高瀬、作ってみるか?」
「いいんですか?」
「売り物じゃないなら、失敗しても構わない。ただし、材料は無駄にするなよ」
「分かりました」
その言葉を聞いた瞬間、俺はエプロンの紐を締め直した。美緒がいつ戻ってくるのかは分からない。それでも、戻ってきたときに渡せるものを作っておきたかった。俺にできることは、それくらいしかない。そう思いながら、俺は厨房へ入った。
閉店後の厨房には、昼間とは違う空気が流れていた。店内の照明が落とされ、厨房だけに明かりが残っている。俺は店長の横でスポンジを焼き、栗のクリームを作った。普段なら教えてもらった通りに作ればいいのに、今日は何度も手が止まる。春樹という名前の弟が、どんな顔で食べるのか想像できない。そもそも食べられるのかどうかも分からない。それでも、できるだけ柔らかく、少しでも食べやすくしたい。四回目の試作を前に、俺はクリームを見つめた。
「店長、これで大丈夫ですか?」
「味を見てみろ」
「俺が?」
「作った本人が食べなきゃ分からんだろ」
スプーンで少しだけ口に入れる。栗の甘さが広がった。いつものモンブランより軽くしてあるから、口の中で溶けるような感じがする。
「どうだ?」
「……これなら、食べやすいと思います」
「なら、それでいい」
「本当に大丈夫ですかね」
「高瀬」
「はい」
「お前が今できることをやった。それで十分だ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ顔を上げた。自分でも分かっている。
俺は医者じゃない。
病気を治せるわけでもない。
春樹くんを元気にできるわけでもない。
でも、ケーキを作ることならできる。それなら、それをやればいい。俺は完成した小さなモンブランを箱へ入れ、翌日の夕方、病院へ向かった。受付で美緒の名前を伝えると、病室を教えてもらえる。廊下を歩きながら、足が重くなる。突然来た俺を美緒はどう思うだろう。迷惑かもしれない。それでも、ここまで来た以上は帰れなかった。病室の前で一度だけ深呼吸をして、扉を叩く。
「はい」
「桜井さん?」
「……高瀬くん?」
扉を開けた美緒は、店で見るよりずっと疲れた顔をしていた。髪も少し乱れている。俺を見ると驚いたように目を丸くし、それから立ち上がろうとする。
「どうしてここに?」
「ごめん。急に来て」
「ううん。どうしたの?」
「これ……春樹くんに」
俺は箱を差し出した。美緒は箱と俺の顔を交互に見る。
「これ、モンブラン?」
「うん。店長と一緒に作った」
「どうして……」
「春樹くん、モンブラン好きなんだろ?」
美緒の目が揺れた。何か言おうとしているのに、声が出てこない。俺はその様子を見て、来てよかったのかもしれないと思った。
「食べられるか分からないけど……一口でも食べられたらと思って」
「……ありがとう」
美緒が箱を開ける。栗の香りが広がった瞬間、ベッドから小さな声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」
「春樹、起きたの?」
「なんか、甘い匂いする」
「高瀬くんが持ってきてくれたの」
「高瀬くん?」
春樹くんがこちらを見る。俺は少し緊張しながら頭を下げた。
「初めまして。高瀬雄介です」
「ケーキ屋さんのお兄ちゃん?」
「そう。お姉ちゃんが毎週来てくれてる店で働いてる」
「じゃあ、モンブランのお兄ちゃんだ」
「……その呼び方、ちょっと恥ずかしいな」
春樹くんが笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の胸にあった緊張が少しだけほどけた。美緒も笑っている。俺はその二人を見ながら、作ってきたケーキを春樹くんの前へ置いた。美緒が小さく切り分け、春樹くんの口元へ運ぶ。
「食べられそう?」
「うん」
「無理しないでね」
「分かってるって」
春樹くんが一口食べる。すぐには何も言わなかった。俺は息を止めるようにして、その顔を見つめる。やがて春樹くんがゆっくり目を開けた。
「おいしい」
「本当?」
「うん。栗の味がする」
「よかった……」
美緒の声が震えた。俺は何も言わずに二人を見ていた。春樹くんはもう一口食べると、嬉しそうに笑った。
「お姉ちゃん、いつものよりこっちがいい」
「そう?」
「うん。もう一個食べたい」
「駄目。今日は一個だけ」
「えー」
「また今度ね」
「じゃあ、来週」
その言葉に、美緒の手が止まった。
「……来週?」
「うん。来週も食べたい」
「じゃあ……また買ってくる」
「約束?」
「約束」
美緒が春樹くんの小指に自分の小指を絡める。俺はその光景を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。こんな小さな約束が、二人にとってどれほど大切なのかは分からない。それでも、来週もモンブランを作ろうと思った。春樹くんがまた笑えるように、美緒がまた笑えるように。
しばらくして春樹くんが眠ると、美緒はベッドの横で俯いた。俺は何を言えばいいのか分からず、少し離れた場所で立っていた。
「高瀬くん」
「うん」
「来てくれて、本当にありがとう」
「俺はケーキを持ってきただけだから」
「それでも嬉しかった」
「……そっか」
「春樹、最近あまり食べられなかったの。でも今日は、ちゃんと笑ってくれた」
美緒は涙を拭いながら笑った。俺はその顔を見て、何もできない自分が悔しくなった。それでも、今日この時間だけは、春樹くんに笑ってもらえた。それだけを大切にしようと思った。
「また作るよ」
「え?」
「来週も。春樹くんが食べたいって言ってたから」
「……うん。お願い」
「約束する」
病院を出る頃には、外はもう暗くなっていた。俺は駅へ向かいながら、来週のことを考えていた。美緒が店へ来る。俺がモンブランを作る。春樹くんが笑う。その光景を当たり前のように想像していた。
だから翌朝、スマートフォンに届いた美緒からのメッセージを見たとき、俺は何度も画面を読み返した。
『春樹が、昨日の夜に亡くなりました』
昨日、笑っていた。
おいしいと言っていた。
来週も食べたいと言っていた。
俺はスマートフォンを握ったまま、何もできなかった。
約束したのに。来週も作ると、約束したのに。
その日の夕方、店のショーケースにはモンブランが並んでいた。俺はその中の一つを見つめながら、昨日の春樹くんの笑顔を思い出していた。あの笑顔だけは、まだ俺の中に残っている。
だから俺は、モンブランを一つだけ冷蔵庫の奥へしまった。
いつか美緒が戻ってきたときに、渡せるように。
それだけは、しておきたかった。



