イースターのお祭りが終わった翌日の朝早く、エリザベスはいつもと同じように早く起きだして一人で朝食を取っていた。シルヴィは大概エリザベスより少し後に食堂へやってくるし、ジョンの家族は昨日のお祭りで疲れきって、まだ起きだす気配もない。エリザベスはそれでもシルヴィが食堂へやってくる前にそこを出たかった。昨日の夜、シルヴィあてでロンドンから手紙が来ていた。外務省からの呼び出し命令だった。まるで長い夢から覚めたような気分だ。彼はピアソン卿の顔を立てるためにやってきて、その役目は果たした。そして普通の日々へ戻っていく。せめて、ここで過ごした日々が、彼の次の仕事の活力となってくれればいいけれど。エリザベスは自分のことは考えられなかった。考えたくなかった。昨日のあの恥ずかしい自分を思い出したくなかった。レドナップと踊ったあと、自分が一体どうなったのか。遠くの方で言い争っていたのは多分、レドナップとシルヴィだ。何があったのか知りたくもない。その後であんな恥ずかしい醜態をシルヴィにさらしたことを考えると、エリザベスは今でも頭に血が上って真っ赤になるようだった。
食事が終わって食堂の席を立とうとしたとき、エリザベスは窓の外に馬車がやってくるのに気づいた。ちらりとレドナップが乗っているのが見えた。こんな早くにどうして? エリザベスは顔をしかめた。
「お嬢様、レドナップ艦長です」ビッグスが食堂へやってきて言った。
「応接間にお通しして」
エリザベスは頭に手をやり、髪が乱れていないことを確認した。ビッグスに遅れて食堂を出ようとしたその時、シルヴィが食堂の正面の階段を降りてきた。エリザベスは食堂の入り口から階段の途中にいるシルヴィにひざをかがめて小さく挨拶し、急いで応接間へ向かった。「ロード・シルヴィに昨日来ていたタイムズとルモンドをお勧めして」エリザベスはビッグスに小声で言った。シルヴィに何も見られたくなかったし、感づかれたくない。
応接間ではレドナップが落ち着かない様子でエリザベスを待ち構えていた。
「おはようございます、レイディ・エリザベス」
エリザベスはさっきシルヴィにしたのと同じように挨拶した。
「まだボンネットもつけられていないようだが。用意はできていますか?」
「用意?」
レドナップが言ったことを全く飲み込めないエリザベスはレドナップに聞き返した。
「そうです。今日、私とポーツマスへ行くと約束したではありませんか」
「約束?」
エリザベスはあまりにも驚いて言葉が出なくなってしまった。
「覚えていらっしゃらないのですか?昨日、あなたは『はい』と答えました。この耳でちゃんとききましたよ」
レドナップはエリザベスを責めるように言った。
「一体いつ……いつそんなことを。私、覚えていません」
「ひどいな。私がどんな覚悟で言ったか、覚えていらっしゃらないと言うのですか。昨日、ダンスの後に私が訊ねたら、あなたは……」
「彼女は失神しそうだった。君がひどくふりまわしたからだ」
エリザベスの後ろから、太くてぴんと張った例の声がした。振り返ると、シルヴィが応接間の入り口に立っていた。燃えるような目でレドナップをにらんでいる。
「またあなたですか。どうしてそういつも、人の話に割り込もうとするのです。私はエリザベスに話をしているのだ。あなたには関係ない」
そうは言ったものの、レドナップはシルヴィの姿を見て一瞬ひるんだようだった。エリザベスはシルヴィのそのただならぬ様子に身体がすくんだ。
「いいや、目の前のご婦人がだまされて連れて行かれるところを黙ってみているわけにはいかない。彼女がどうにもならなくなったところにつけこんで、無理に話を進めようとする男は紳士などではない。帰りたまえ」
シルヴィはレドナップに全く臆する様子がなかった。昨日、誰かが言い争っていたと思ったのは間違いではない。この二人だ……一方のレドナップは不満気にシルヴィを見ていたが、観念したように大きくため息をついて言った。
「エリザベス。では、この方の前ではっきり申し上げましょう。あなたを愛しています」
レドナップはエリザベスに一歩近づいた。
「私と結婚してください」
エリザベスは胸を押さえた。一体何が……どうしていきなりそんなことに……
「確かに私はあなたに策を弄した。1年前、ここへやってきたときもあなたは私の気持ちを知っていたはずだ。前回は任務で仕方なくここを去りましたが、どうしてもあなたと結婚したいと思ったから私はこうしてここへまたやってきた。私には金はない。けど、きっと幸せにしてみせます」
胸が痛い。どうして?
「私――私は……すぐにお返事できません。そんなに急に……決められません」
エリザベスの左手はまた無意識に反対側の手の指輪を触っていた。
「すぐにとは言いません。けれど、あなたがきっと私を選んでくれると信じています。私が誠実な人間だと言うことはあなたもご存知でしょう」
「誠実な人間が、あんなことをするのか」
レドナップの言ったことをシルヴィはせせら笑った。エリザベスはシルヴィを一瞥すると、目を伏せて言った。
「どうか食堂へ、ロード・シルヴィ。ビッグスが待っておりますわ」
シルヴィは目を丸くしてエリザベスを見たが、大きく息を吸い込んで応接間の入り口の壁をどんとたたいた。そして、きびすを返して大またで部屋を出て行った。
「レドナップさん」
エリザベスの胸はちくちくするようだった。エリザベスも小さく息を吸い込んで、レドナップの方へ向き直った。
「大変残念ですけれど、本日はご一緒できません」
「――わかっています」
レドナップはエリザベスの手を取った。「私の愛は変わりませんから。どうか、私を信用してください。あなたを愛しています」
レドナップはエリザベスの手を無理矢理とって口づけ、屋敷を去った。エリザベスは応接間の壁にもたれた。ああ、めまいがする。レドナップのやり方は好きではないけれど、彼は本当は誠実な人間なのだ。自分の前で策を弄したと告白した。責めるだけの誰かとは違う。
エリザベスは気持ちを落ち着けるために小走りに庭に出ていった。
エリザベスは広大な庭の半分をずっと走った。自分の気持ちを落ち着けるためには、他に何も考えられないほど、体がつらい状況でなければならなかった。のどがひゅうひゅういって呼吸がおかしくなった。普段は来ないローウェルの庭の境界にある森の手前まで、エリザベスはやってきた。そしてまだ冷たい草の上に倒れこんだ。朝露が服の上からしみる。
男性に結婚を申し込まれるということをずっと望んでいた。たとえ財産などなくても、自分を愛してくれる人がきっといるはず。そして、それはレドナップに違いない。エリザベスは大きく息を吸い込んだ。それなのにどうしてこんなに悲しいのだろう。こんな自分をもらってくれる人がいるというのに。
いいえ。理由は簡単。胸がきゅうっと縮まるような痛み。レドナップにはそれを感じない。私が望んでいるのは今日、遠いところへ帰ってしまうあの人。エリザベスの目に涙がにじんだ。どうにもならない。自分が何を望んでも。
叔母のエレンがピアソン卿から手紙をもらったと聞いたとき、エリザベスは珍しく舞い上がった。自分がずっと夢見ていたシルヴィがここへやってくる。それも単なる休暇ではない。縁談の相手としてだ。はじめの何日かは確かに彼も田舎の生活を楽しんだだろう。外務省の仕事などエリザベスには想像もつかないことだが、ロンドンやパリを行き来する忙しい生活であればここでの時間の流れは死ぬほど退屈だったに違いない。遠乗りに行こうと言ったのも、退屈を紛らわすため。私に触れたのも……エリザベスはそのときのことを思い出した。あんな風に……あんな風に抱きしめられたことはなかった。
大きく深呼吸してエリザベスは草の上に起き上がった。服にしみこんだ朝露が冷たい。エリザベスは自分の目じりを手でぬぐった。自分の選択肢は2つしかない。レドナップのところへ行くか、自分でやっていくか。生活していくのに必要なお金はある。けれど、ひとりで生活するのだ。ベネがいるとはいえ、一人で全てを……エリザベスは頭を振った。いいえ、こんなことで迷っていてどうするの? 自分にレドナップが愛せると言うのか。シルヴィとのことはきっと自分の心の中で、一生消えてなくならないだろう。心の中で自分の夫を裏切りながら、普通に生活などできはしない。答えは始めから決まっていたのだ。
エリザベスは庭の境界から古い花々を摘みながら屋敷の方へ戻ってきた。時々、どうしようもなく涙が零れ落ちた。もう少し庭にいても良かったが、姿が見えないのを皆が心配しているだろう。シルヴィも午前中には発つだろうし。静かにいつもどおりの生活に戻らなければ。
屋敷に程近いところで、地面に落ちた木蓮の大きな花びらを拾い上げようとしたその時、エリザベスはサンザシの垣根の越しに誰かがいるのに気づいた。
「ロード・シルヴィ」
どうしてこの人は、こんなに人をびっくりさせるのが得意なんだろう。エリザベスは胸が痛くなった。きっと自分の顔はめちゃくちゃだ。服も泥だらけだし。けれど、今更どうしようもない。
「顔色が悪いようだが」
シルヴィは垣根を飛び越えてこちらへやってきた。
「いいえ。そんなことありませんわ」
エリザベスはうつむいて表情をさとられないようにした。
「すみません、ちょっと着替えてまいります」
エリザベスは早くその場を立ち去りたかった。彼と口をききたくなかった。このままそっとしておいてほしかった。しかし、シルヴィは逃げようとしたエリザベスの腕を突然つかんだ。
「エリザベス――」
シルヴィはすぐ手を離したが、エリザベスは顔をしかめた。
「なんでしょう?」
もし、彼に何かできることがあるのだとすれば、これが最後だわ。エリザベスも無理に微笑んで見せた。
「レドナップと結婚するのは間違いだ」
エリザベスは自分の耳を疑った。垣根の間を縫って南の方からびゅうっと風が吹いた。最近集められた枯れ草や雑草の山が舞い上がる。どうしてそんなこと言うの。今の言葉は何かきっと聞き間違えたのだ。エリザベスの腕にあった木蓮の花もまた下に落ち、花びらがばらばらになった。
「――今、なんとおっしゃいました?」
聞きなおさずにはいられなかった。しかし、シルヴィはまた同じ事を言った。
「レドナップと結婚するなと言ったのだ」
エリザベスはシルヴィを唖然としてみていたが、思い出したように口を開いた。
「どうして? どうしてそんなことを言われるのです。それは……それは私が決めることです。あの方が嫌いだからと言って、そんな風に言われるなんて……」
それを聞いたシルヴィは鋭い視線をエリザベスに向けた。
「君はレドナップのことを何も知らない。あの男は信用ならない」
シルヴィの真剣な様子に驚きはしたものの、エリザベスは落ち着いていた。
「私よりレドナップさんのことをご存知だと?」
「少なくとも君よりは」
エリザベスはため息をついた。何を一体……
「今日、いつごろお発ちになります?」
シルヴィはエリザベスをじっと見つめていた。そして、一呼吸おいてから静かに言った。
「帰らない。ロンドンに帰るのはやめた」
一瞬、唖然としたエリザベスだったが、「ご自由に」と言い残し、シルヴィに背を向けた。
それからエリザベスはばらばらになった木蓮の花を拾わないどころか、自分が抱きかかえていた枯れた花々を小道にぶちまけ、屋敷の方へ走った。勝手にすればいいわ。あんなこと言うなんて……エリザベスは屋敷の中に入って自分の部屋へ駆け上がった。ベネが階段のところでお嬢様と声をかけたが、エリザベスは「ひとりにしておいて」と言って、部屋のドアを閉めた。頭痛が酷くなってきた。
エリザベスは昼も具合が悪いからと言って食堂へ降りていかなかった。エレンが心配して様子を見に来たが、エリザベスはレドナップのこともシルヴィのことも黙っていた。シルヴィから事の顛末を聞いていたエレンは、父親が亡くなってからずっと気丈に振舞ってきたエリザベスが状況に翻弄されているのを見て心を痛めていた。
「リジー。あなたが怒るのも無理はないけれど、ロード・シルヴィはレドナップ艦長がここに来られる前に、あなたとお話をしたかったそうよ。あなたに結婚を申し込むつもりだったのよ、きっと。」
エリザベスはエレンが自分を慰めるために勝手にそう言っているのだと思った。
「おばさま。ロード・シルヴィから何か言われていらっしゃったの?」
エリザベスは長いすに座って、クッションに身体を預けていた。
「レドナップがあなたに結婚を申し込んだと。それだけよ」
やっぱり……そんなこと言うわけがないわ。エリザベスはがっかりした。エレンがエリザベスの隣に腰掛け、エリザベスの手を取って自分のひざに置いた。「ロード・シルヴィはここを出て行かれるそうよ」
それを聞いたエリザベスはクッションから頭を上げた。
「さっきは帰らないと言っていたのに」
「いいえ、ここを出て行かれるだけ。朝、電報を早く受け取りたいから町の宿に泊まると」
町の宿……ひどい言い訳。そんなに早く電報を受け取りたいならロンドンに戻ればいいのに。でももうどうでもいいわ。ここを出て行かれるのなら、大変結構。私は一人になりたいのだし。エリザベスは再びクッションに頭をうずめた。
「エリザベス。ロード・シルヴィはもうすぐお発ちになるわ。最後のご挨拶だけはきちんとして頂戴」
エレンはエリザベスの肩に手を掛けてそう言った。
「ここの主人はジョンよ。ジョンがお見送りすればいいわ」
「そんなこと、亡くなったあなたのお父様もお母様も絶対に許しませんよ。さあ、その顔を何とかして下に降りていらっしゃい」
エリザベスの額にそっとキスしてエレンは部屋を出て行った。代わりにベネが身支度するのに必要なものを抱えてやってきた。エリザベスは何とか立ち上がって自分の化粧台の前に立った。ひどい顔……ベネが洗面器に水を注いでいる。エリザベスはため息をひとつついて仕度を始めた。
階下に降りていくと、もう皆外に出ていた。ホールの外には、春に咲く薔薇の香りが漂っている。馬車につなぐには美しすぎるカルルスとポルックスがおとなしく主人を待っていた。
「とても楽しい滞在でした。どうもありがとう」
シルヴィは皆に向かって言った。
「どうしてですか。町の宿になどいかれなくても、ここで……」
事情を知らないジョンはシルヴィに食い下がったが、シルヴィは首を振った。
「残念ながら、そういうわけにはいかないのです。けれど、明日また来ますから」
シルヴィはそう言って、エリザベスの方へやってきた。エリザベスはびくっと身体を震わせて後ろへ下がりかけたが、何とか踏みとどまった。
「エリザベス」
エリザベスが自分から差し出さなかった手をシルヴィが半ば強引に取ってキスした。胸が痛い。まるで自分がシルヴィを追い払ったようになってしまった。そんなことは望んでいなかったのに。彼には気持ちよくここを離れてほしかった。
そしてシルヴィは行ってしまった。さっきは出て行ってもらえばせいせいするとさえ思っていたのに、今となってはまるで灯が消えてしまったようだ。ジョンの子供たちがそこいら中を走り回っているのに。子供たちの声がいつものように耳に入ってこない。エリザベスは自室に戻って、その日は部屋を出ることはなかった。
食事が終わって食堂の席を立とうとしたとき、エリザベスは窓の外に馬車がやってくるのに気づいた。ちらりとレドナップが乗っているのが見えた。こんな早くにどうして? エリザベスは顔をしかめた。
「お嬢様、レドナップ艦長です」ビッグスが食堂へやってきて言った。
「応接間にお通しして」
エリザベスは頭に手をやり、髪が乱れていないことを確認した。ビッグスに遅れて食堂を出ようとしたその時、シルヴィが食堂の正面の階段を降りてきた。エリザベスは食堂の入り口から階段の途中にいるシルヴィにひざをかがめて小さく挨拶し、急いで応接間へ向かった。「ロード・シルヴィに昨日来ていたタイムズとルモンドをお勧めして」エリザベスはビッグスに小声で言った。シルヴィに何も見られたくなかったし、感づかれたくない。
応接間ではレドナップが落ち着かない様子でエリザベスを待ち構えていた。
「おはようございます、レイディ・エリザベス」
エリザベスはさっきシルヴィにしたのと同じように挨拶した。
「まだボンネットもつけられていないようだが。用意はできていますか?」
「用意?」
レドナップが言ったことを全く飲み込めないエリザベスはレドナップに聞き返した。
「そうです。今日、私とポーツマスへ行くと約束したではありませんか」
「約束?」
エリザベスはあまりにも驚いて言葉が出なくなってしまった。
「覚えていらっしゃらないのですか?昨日、あなたは『はい』と答えました。この耳でちゃんとききましたよ」
レドナップはエリザベスを責めるように言った。
「一体いつ……いつそんなことを。私、覚えていません」
「ひどいな。私がどんな覚悟で言ったか、覚えていらっしゃらないと言うのですか。昨日、ダンスの後に私が訊ねたら、あなたは……」
「彼女は失神しそうだった。君がひどくふりまわしたからだ」
エリザベスの後ろから、太くてぴんと張った例の声がした。振り返ると、シルヴィが応接間の入り口に立っていた。燃えるような目でレドナップをにらんでいる。
「またあなたですか。どうしてそういつも、人の話に割り込もうとするのです。私はエリザベスに話をしているのだ。あなたには関係ない」
そうは言ったものの、レドナップはシルヴィの姿を見て一瞬ひるんだようだった。エリザベスはシルヴィのそのただならぬ様子に身体がすくんだ。
「いいや、目の前のご婦人がだまされて連れて行かれるところを黙ってみているわけにはいかない。彼女がどうにもならなくなったところにつけこんで、無理に話を進めようとする男は紳士などではない。帰りたまえ」
シルヴィはレドナップに全く臆する様子がなかった。昨日、誰かが言い争っていたと思ったのは間違いではない。この二人だ……一方のレドナップは不満気にシルヴィを見ていたが、観念したように大きくため息をついて言った。
「エリザベス。では、この方の前ではっきり申し上げましょう。あなたを愛しています」
レドナップはエリザベスに一歩近づいた。
「私と結婚してください」
エリザベスは胸を押さえた。一体何が……どうしていきなりそんなことに……
「確かに私はあなたに策を弄した。1年前、ここへやってきたときもあなたは私の気持ちを知っていたはずだ。前回は任務で仕方なくここを去りましたが、どうしてもあなたと結婚したいと思ったから私はこうしてここへまたやってきた。私には金はない。けど、きっと幸せにしてみせます」
胸が痛い。どうして?
「私――私は……すぐにお返事できません。そんなに急に……決められません」
エリザベスの左手はまた無意識に反対側の手の指輪を触っていた。
「すぐにとは言いません。けれど、あなたがきっと私を選んでくれると信じています。私が誠実な人間だと言うことはあなたもご存知でしょう」
「誠実な人間が、あんなことをするのか」
レドナップの言ったことをシルヴィはせせら笑った。エリザベスはシルヴィを一瞥すると、目を伏せて言った。
「どうか食堂へ、ロード・シルヴィ。ビッグスが待っておりますわ」
シルヴィは目を丸くしてエリザベスを見たが、大きく息を吸い込んで応接間の入り口の壁をどんとたたいた。そして、きびすを返して大またで部屋を出て行った。
「レドナップさん」
エリザベスの胸はちくちくするようだった。エリザベスも小さく息を吸い込んで、レドナップの方へ向き直った。
「大変残念ですけれど、本日はご一緒できません」
「――わかっています」
レドナップはエリザベスの手を取った。「私の愛は変わりませんから。どうか、私を信用してください。あなたを愛しています」
レドナップはエリザベスの手を無理矢理とって口づけ、屋敷を去った。エリザベスは応接間の壁にもたれた。ああ、めまいがする。レドナップのやり方は好きではないけれど、彼は本当は誠実な人間なのだ。自分の前で策を弄したと告白した。責めるだけの誰かとは違う。
エリザベスは気持ちを落ち着けるために小走りに庭に出ていった。
エリザベスは広大な庭の半分をずっと走った。自分の気持ちを落ち着けるためには、他に何も考えられないほど、体がつらい状況でなければならなかった。のどがひゅうひゅういって呼吸がおかしくなった。普段は来ないローウェルの庭の境界にある森の手前まで、エリザベスはやってきた。そしてまだ冷たい草の上に倒れこんだ。朝露が服の上からしみる。
男性に結婚を申し込まれるということをずっと望んでいた。たとえ財産などなくても、自分を愛してくれる人がきっといるはず。そして、それはレドナップに違いない。エリザベスは大きく息を吸い込んだ。それなのにどうしてこんなに悲しいのだろう。こんな自分をもらってくれる人がいるというのに。
いいえ。理由は簡単。胸がきゅうっと縮まるような痛み。レドナップにはそれを感じない。私が望んでいるのは今日、遠いところへ帰ってしまうあの人。エリザベスの目に涙がにじんだ。どうにもならない。自分が何を望んでも。
叔母のエレンがピアソン卿から手紙をもらったと聞いたとき、エリザベスは珍しく舞い上がった。自分がずっと夢見ていたシルヴィがここへやってくる。それも単なる休暇ではない。縁談の相手としてだ。はじめの何日かは確かに彼も田舎の生活を楽しんだだろう。外務省の仕事などエリザベスには想像もつかないことだが、ロンドンやパリを行き来する忙しい生活であればここでの時間の流れは死ぬほど退屈だったに違いない。遠乗りに行こうと言ったのも、退屈を紛らわすため。私に触れたのも……エリザベスはそのときのことを思い出した。あんな風に……あんな風に抱きしめられたことはなかった。
大きく深呼吸してエリザベスは草の上に起き上がった。服にしみこんだ朝露が冷たい。エリザベスは自分の目じりを手でぬぐった。自分の選択肢は2つしかない。レドナップのところへ行くか、自分でやっていくか。生活していくのに必要なお金はある。けれど、ひとりで生活するのだ。ベネがいるとはいえ、一人で全てを……エリザベスは頭を振った。いいえ、こんなことで迷っていてどうするの? 自分にレドナップが愛せると言うのか。シルヴィとのことはきっと自分の心の中で、一生消えてなくならないだろう。心の中で自分の夫を裏切りながら、普通に生活などできはしない。答えは始めから決まっていたのだ。
エリザベスは庭の境界から古い花々を摘みながら屋敷の方へ戻ってきた。時々、どうしようもなく涙が零れ落ちた。もう少し庭にいても良かったが、姿が見えないのを皆が心配しているだろう。シルヴィも午前中には発つだろうし。静かにいつもどおりの生活に戻らなければ。
屋敷に程近いところで、地面に落ちた木蓮の大きな花びらを拾い上げようとしたその時、エリザベスはサンザシの垣根の越しに誰かがいるのに気づいた。
「ロード・シルヴィ」
どうしてこの人は、こんなに人をびっくりさせるのが得意なんだろう。エリザベスは胸が痛くなった。きっと自分の顔はめちゃくちゃだ。服も泥だらけだし。けれど、今更どうしようもない。
「顔色が悪いようだが」
シルヴィは垣根を飛び越えてこちらへやってきた。
「いいえ。そんなことありませんわ」
エリザベスはうつむいて表情をさとられないようにした。
「すみません、ちょっと着替えてまいります」
エリザベスは早くその場を立ち去りたかった。彼と口をききたくなかった。このままそっとしておいてほしかった。しかし、シルヴィは逃げようとしたエリザベスの腕を突然つかんだ。
「エリザベス――」
シルヴィはすぐ手を離したが、エリザベスは顔をしかめた。
「なんでしょう?」
もし、彼に何かできることがあるのだとすれば、これが最後だわ。エリザベスも無理に微笑んで見せた。
「レドナップと結婚するのは間違いだ」
エリザベスは自分の耳を疑った。垣根の間を縫って南の方からびゅうっと風が吹いた。最近集められた枯れ草や雑草の山が舞い上がる。どうしてそんなこと言うの。今の言葉は何かきっと聞き間違えたのだ。エリザベスの腕にあった木蓮の花もまた下に落ち、花びらがばらばらになった。
「――今、なんとおっしゃいました?」
聞きなおさずにはいられなかった。しかし、シルヴィはまた同じ事を言った。
「レドナップと結婚するなと言ったのだ」
エリザベスはシルヴィを唖然としてみていたが、思い出したように口を開いた。
「どうして? どうしてそんなことを言われるのです。それは……それは私が決めることです。あの方が嫌いだからと言って、そんな風に言われるなんて……」
それを聞いたシルヴィは鋭い視線をエリザベスに向けた。
「君はレドナップのことを何も知らない。あの男は信用ならない」
シルヴィの真剣な様子に驚きはしたものの、エリザベスは落ち着いていた。
「私よりレドナップさんのことをご存知だと?」
「少なくとも君よりは」
エリザベスはため息をついた。何を一体……
「今日、いつごろお発ちになります?」
シルヴィはエリザベスをじっと見つめていた。そして、一呼吸おいてから静かに言った。
「帰らない。ロンドンに帰るのはやめた」
一瞬、唖然としたエリザベスだったが、「ご自由に」と言い残し、シルヴィに背を向けた。
それからエリザベスはばらばらになった木蓮の花を拾わないどころか、自分が抱きかかえていた枯れた花々を小道にぶちまけ、屋敷の方へ走った。勝手にすればいいわ。あんなこと言うなんて……エリザベスは屋敷の中に入って自分の部屋へ駆け上がった。ベネが階段のところでお嬢様と声をかけたが、エリザベスは「ひとりにしておいて」と言って、部屋のドアを閉めた。頭痛が酷くなってきた。
エリザベスは昼も具合が悪いからと言って食堂へ降りていかなかった。エレンが心配して様子を見に来たが、エリザベスはレドナップのこともシルヴィのことも黙っていた。シルヴィから事の顛末を聞いていたエレンは、父親が亡くなってからずっと気丈に振舞ってきたエリザベスが状況に翻弄されているのを見て心を痛めていた。
「リジー。あなたが怒るのも無理はないけれど、ロード・シルヴィはレドナップ艦長がここに来られる前に、あなたとお話をしたかったそうよ。あなたに結婚を申し込むつもりだったのよ、きっと。」
エリザベスはエレンが自分を慰めるために勝手にそう言っているのだと思った。
「おばさま。ロード・シルヴィから何か言われていらっしゃったの?」
エリザベスは長いすに座って、クッションに身体を預けていた。
「レドナップがあなたに結婚を申し込んだと。それだけよ」
やっぱり……そんなこと言うわけがないわ。エリザベスはがっかりした。エレンがエリザベスの隣に腰掛け、エリザベスの手を取って自分のひざに置いた。「ロード・シルヴィはここを出て行かれるそうよ」
それを聞いたエリザベスはクッションから頭を上げた。
「さっきは帰らないと言っていたのに」
「いいえ、ここを出て行かれるだけ。朝、電報を早く受け取りたいから町の宿に泊まると」
町の宿……ひどい言い訳。そんなに早く電報を受け取りたいならロンドンに戻ればいいのに。でももうどうでもいいわ。ここを出て行かれるのなら、大変結構。私は一人になりたいのだし。エリザベスは再びクッションに頭をうずめた。
「エリザベス。ロード・シルヴィはもうすぐお発ちになるわ。最後のご挨拶だけはきちんとして頂戴」
エレンはエリザベスの肩に手を掛けてそう言った。
「ここの主人はジョンよ。ジョンがお見送りすればいいわ」
「そんなこと、亡くなったあなたのお父様もお母様も絶対に許しませんよ。さあ、その顔を何とかして下に降りていらっしゃい」
エリザベスの額にそっとキスしてエレンは部屋を出て行った。代わりにベネが身支度するのに必要なものを抱えてやってきた。エリザベスは何とか立ち上がって自分の化粧台の前に立った。ひどい顔……ベネが洗面器に水を注いでいる。エリザベスはため息をひとつついて仕度を始めた。
階下に降りていくと、もう皆外に出ていた。ホールの外には、春に咲く薔薇の香りが漂っている。馬車につなぐには美しすぎるカルルスとポルックスがおとなしく主人を待っていた。
「とても楽しい滞在でした。どうもありがとう」
シルヴィは皆に向かって言った。
「どうしてですか。町の宿になどいかれなくても、ここで……」
事情を知らないジョンはシルヴィに食い下がったが、シルヴィは首を振った。
「残念ながら、そういうわけにはいかないのです。けれど、明日また来ますから」
シルヴィはそう言って、エリザベスの方へやってきた。エリザベスはびくっと身体を震わせて後ろへ下がりかけたが、何とか踏みとどまった。
「エリザベス」
エリザベスが自分から差し出さなかった手をシルヴィが半ば強引に取ってキスした。胸が痛い。まるで自分がシルヴィを追い払ったようになってしまった。そんなことは望んでいなかったのに。彼には気持ちよくここを離れてほしかった。
そしてシルヴィは行ってしまった。さっきは出て行ってもらえばせいせいするとさえ思っていたのに、今となってはまるで灯が消えてしまったようだ。ジョンの子供たちがそこいら中を走り回っているのに。子供たちの声がいつものように耳に入ってこない。エリザベスは自室に戻って、その日は部屋を出ることはなかった。
