夜の庭

 ロンドンから呼び寄せた庭師が作った温室というのはどんなものなのか、いまさらながら興味があった。昨年、そこが人々の話題になっていた時には、エリザベスはまだ父親を看病していてそれどころではなかった。アンドルーにつれられて何枚かのガラス戸をくぐると、そこにはすばらしく天井の高い温室があった。おそらくアジアの方から持ち込まれた大きな椰子の木を真中に据えて、珍しい蘭が固めていくつも植えられている。同じくロンドンから呼んでこられたという陶器屋が持ってきたのだろう、アイボリーホワイトの天使や小さな噴水がその間を縫って置かれていた。ただ、よく見てみると、いくつかの蘭は手入れがうまくいっていないのか、ちょっと湿りすぎで病気のようだった。確かに今はまだそれほどではないけれども、ここは温水を通さなくても、きっと夏に暑くなりすぎるだろう。外側のガラスはステンドグラスで非常に美しい装飾が施されているが、今の時期の夜でさえ少しむっとするようなのだ。これが夏になったらもうすこし風通しがよくないと。ガラスはいくつか開けられる窓があるのだから、そこを開けてやらないといけないのだわ。プリンストン家の人たちは気がついていないのね……

エリザベスが目を輝かせているのを見て、アンドルーがくすっと笑った。
「なぁに?」
エリザベスが振り返って尋ねた。
「相変わらずだね。本当に花が好きなんだなと思って」
アンドルーがそういうのもあたりまえだ。
「ごめんなさい。すぐ夢中になってしまって」
エリザベスはアンドルーにいざなわれて真中の椰子の木の下に置かれている真鍮のベンチに腰掛けた。

「君の手入れしていたあの庭と離れるのはつらいだろうね。それで、新しい家は見つかったの?」
アンドルーはエリザベスがどんなに庭を愛しているかをよく知っていた。
「いいえ、まだよ。でも、早く探さなくちゃね。もうあんまりぐずぐずしていられないわ。5月の終わりには出て行くことになっているし」
それを聞いたアンドルーは顔をしかめた。
「5月の終わりって、それはカミラが決めたの? りんごの始末をしていけって事?」
子供のころからずっと一緒に過ごしているアンドルーにはそのことが良くわかっていた。夏に実のなるりんごは5月に受粉をしなければならない。そこまでがとても大変な作業なのだ。エリザベスは毎年それを出来る限り屋敷の使用人たちを使ってやっている。カミラが彼らをうまく指示できないということは明らかで、だからこそ、自分で5月の終わりまでという期限をつけたのだ。

「りんごは私が手入れをしたいからそうするの。もうこれで最後なのだし……それにジョンたちは5月まで待ってくれたのよ。紙の上ではもう遺産の譲渡は終わってるし、普通ならもうとっくに追い出されてるところだわ」
エリザベスは寂しげにアンドルーに笑いかけた。
「エリザベス。君、本当に結婚するつもりなの? あいつと?」
アンドルーはあごを元来たほうにちらと向けた。シルヴィのことを言っているのだ。
「ロード・シルヴィは……さぁ、どうかしら? 私に特別な興味があるようには思えないけれど。でも、心配しないで。アンドルー。私、小さな家を買うくらいのお金はあるのよ。いよいよだめなら家庭教師なんてことも……」
「何を馬鹿な! 君が家庭教師? そんなことになるくらいなら、僕が君と結婚する」
「まぁ、アンドルー! ばかなこと言わないで」
エリザベスはアンドルーの腕を取って笑った。
「いや、本気でそう思ってるんだ。僕たちの本当の関係を知ってる人間はもういない。だから、表向きだけでもそうできないことはないと思うんだ」
アンドルーは真剣だった。
「アンドルー……本当はあなたがローウェルの家督を継げたのにね」
エリザベスはアンドルーの顔をまじまじと見つめて言った。
「でも、大丈夫。私、何とかなると思うの。きっといい子にしていれば、どなたか良い方がもらってくださるわ」


エリザベスの背中に手を回しながら、アンドルーはなぜか温室の通路のはるか向こうを見ていた。そしていつもはそんな風にしないのに、エリザベスの手を取って指にゆっくり熱いキスをした。まるで恋人にするように。その後、エリザベスの腕を取ってフロアの方へ続く廊下へ回れ右して戻った。アンドルーがなにやらほくそ笑んでいるのをエリザベスは見逃さなかった。
「なぁに? 何がおかしいの?」
「いや。なんでもない」

フロアへ戻った二人はしばらく楽しくおしゃべりしていたが、そこへジョンとカミラの夫婦がやってきた。アンドルーはカミラがとても苦手なので、それを知っているジョンが始めの挨拶だけしてアンドルーを連れてどこかへ行ってしまった。
「あの男とまだ付き合ってるの? もういい加減になさい。ご縁のない方とずるずるお付き合いするのは良くないわ」
カミラはあきれたように言った。カミラに迷惑をかけたことはないはずだが、彼女はアンドルーのことを非常に嫌っていた。アンドルーの家が貧しい貴族であることが気に入らないのだ。
「アンドルーは私たちの遠い親戚だし、大切なお友達よ。カミラ」
エリザベスは珍しくちょっと言い返してみた。アンドルーのことでそんな風に言われるのがたまらなかった。
「おお、いやだ、いやだ。あんな噂を立てられて、どうしてそんなに平然としていられるのか不思議だわ。こんなところでおしゃべりしているのを見られたら、また皆の噂の種になるわ。少しは考えなさい」
数年前、エリザベスはアンドルーと結婚すると噂が広まったことがあった。カミラはそのことずっと言うのだ。

フロアの向こう側でシルヴィがプリンストン家の下の娘に質問攻めにあっていた。エリザベスはもはや彼とダンスをしようなどとは思わなかった。一緒にやってきたのが嘘のようだ。エリザベスのはかない夢は石鹸の泡のように消え去ってしまった。やはり多くを望んではいけなかったのだ。エリザベスはため息が出そうなのをなんとか我慢した。おまけにおそらくカミラが近くにいるせいで、エリザベスのところには誰も寄ってこない。友人も知り合いもたくさんいるが、カミラの毒舌はサウスハンプトンの社交界ではとても有名だった。

「エリザベス!」
そうしてやっと声をかけてくれたのは、デニー・レドナップだった。
「レドナップ海尉」
「こんばんわ、カミラ。この間お会いしたときに、海尉艦長に昇進したと言い忘れたようですね」
「あら、そうでしたの。私、制服には疎くって」
カミラが言うのにレドナップは「皆さんそうです」と笑ってこたえた。レドナップも人は良いのだ。
「ところでエリザベス。やっとあなたを見つけた。どうか、私と一曲踊っていただきたい」
「ええ、でも……」
エリザベスはなんとか断る理由を見つけたかったのだが、都合のいい口実がみつからなかった。
「まぁ、エリザベス。私子供じゃないのよ。ぜひ、踊っていらっしゃいな。こんなご立派な方に申し込まれるなんて、幸せだわね」
カミラはまるでそれが自分のことのように言った。レドナップと本当に踊りたいのはカミラではないのだろうか? エリザベスはそれ以上何も言えず、レドナップとフロアに出た。

相手は望んだシルヴィではなかったが、レドナップもなかなかの踊り手だった。少々手荒な感じはしたが、エリザベスは想像していたように自分が右に左に振り回されるのを楽しんだ。曲が速いワルツに変わると、レドナップのリードはますます早くなり、エリザベスはついていくのが大変になった。二人は人々の間を縫うようにステップを踏んだ。エリザベスが子供の頃にはまだ、舞踏会といえばカドリールが主流だったが、最近はどこの舞踏会でもおとなしいダンスはすっかり踊られなくなってしまった。
ワルツを2曲も踊ると、エリザベスは自分がふらふらしているのがわかった。普段庭仕事しているとはいえ、急に激しい運動をするとこたえる。「ああ、レドナップさん。少し休憩させてください。目が回りそうですわ」とエリザベスが告げると、レドナップはエリザベスをフロアの陰になった窓の近くのアルコーブの下へ連れて行った。カーテンの陰に隠れるようにして、レドナップはエリザベスを椅子に座らせた。エリザベスは本当に気分が悪く、目の前が真っ暗になる寸前で、アルコーブの柱に身体を持たせかけてなんとか息を抑えようとしていた。
「エリザベス。明日、私とポーツマスへ行ってください」
突然、エリザベスにレドナップが言った。エリザベスにはレドナップの言っていることがよくわからなかった。それより、本当に自分の視界が暗くなって、気を失いそうだったのだ。
「――わたくし」


そのあと、エリザベスは遠くのほうで誰かが言い争っているのを聞いた。しかし、それが誰かはわからなかった。ああ、暑くもないのに汗が出ているみたい。きっと人の多さに参ってしまったのだわ。ここから逃げ出さなければ。自分の庭で日にあたる暑さとは違い、ここには風というものが全く感じられない。おまけにここにいる人々の強い芳香。まるでお酒に酔ってしまったみたい……そして、エリザベスはふと自分の身体が床から浮くのを感じ、そのあとはどうなったのかわからなくなってしまった。

エリザベスが次に気が付いたのは、自分が乗ってきた馬車の中だった。カミラが舞踏会の途中で帰ってきたことに文句を言っているのが聞こえる。そのカミラの肩にエリザベスは頭を寄せ掛けていた。馬車の窓が開いていて気持ちが良い。エリザベスはうつろに目を開けたが、意識は朦朧としていた。
「エリザベス? エリザベス?」
カミラが声をかけたがエリザベスは返事ができなかった。体がだるくて口がきけない……もたれているのは気持ちがいいわ。少しの間だけ、このままでいさせてほしい。カミラが迷惑に思っているのはわかっているけど、少しの間だけ……エリザベスはまた目を閉じた。そして昔、何度も夢見たシルヴィと踊る夢を再び見た。

これは夢だってわかってる。けど、とても幸せな気分。彼が私の手を取って、面白いようにくるくる私を回すの。彼の暖かい大きな手がしっかり私の腰を支えてくれているから大丈夫。鳥の羽みたいに飛んでいきそうだけれど、飛んでいかないわ。彼のブルーグレーの瞳がきれい。夢の中ならこんな風に微笑んでくれるのね。ああ。私は彼のことが本当に好きなのだわ。夢の中なら彼も私を愛してくれるみたい……ロード・シルヴィが本当に私を愛してくれたら……こんな風に夢ではなく……

エリザベスの閉じたまぶたに涙がにじんだ。


馬車がローウェルの屋敷に着いた。エリザベスは自分の顔を何かが触ったのに驚いて目を開けた。カミラかと思ったがそうではなかった。ジョンは先に下りたが、シルヴィは自分がと言ってエリザベスを下ろしてくれようとしていた。その時涙に気づいて指でぬぐってくれていたのだった。
「夢を見たのか?」
シルヴィが小声でたずねる。エリザベスは現実に戻ったがシルヴィの問いには答えられなかった。その代わりに、彼の前で眠った挙句、泣いていたのに気づいて恥ずかしさで死にそうな気分になった。執事のビッグスが馬車の扉を開け、エリザベスはシルヴィが差し出した手を借りてよろよろしながら馬車を降りた。彼の前でもう1分たりとも過ごしたくない。エリザベスは「ごめんなさい」と言って、玄関に迎えに出てきたべネに手をかり、自分の部屋へ急いで下がった。

部屋に何とか逃げ込んだエリザベスは、しばらく誰も部屋に近づけないようにべネに言って下がらせた。自分は一体何をやってしまったのだろう。シルヴィの前で……エリザベスは涙を止めることができなかった。さっき自分が見た夢は、自分が本当に望んでいたこと。だから夢に彼が出てきて、私と踊ったのだ。そうしたかったと心の中で強く思っていたのだわ。自分はまるで駄々をこねている子供のようだ。本当にみっともない。彼は私がどう思っていたかなんて知らないだろうけど、彼の前であんな姿をみせるなんて……エリザベスはもはや涙を止める方法もわからず、自分のベッドに身体を横たえて泣きながら深い眠りに落ちていった。

 夜中、変な時間に眠りについたせいで、エリザベスは目がさめてしまった。ベネが来てくれたのだろう、部屋の明かりは全て消されており、窓も閉まっている。エリザベスはベッドから起きだして、少し外の空気にあたるためにベランダへ出る扉を開けた。ひんやりした冷たい空気が部屋の中へ流れ込む。疲れてほてっているようだった体から体温が一気に奪われていく。もうイースターが来たというのに……エリザベスは空に高くのぼった月を見た。月の光がまぶしいわけはないが、目を閉じてガラスの扉にもたれかかった。

本当に家を探さなければ。この家のお金の価値のない思い出のものはできる限り持って出よう。自分がいなくなったら、カミラはきっと全部捨ててしまうだろうから。父の書斎の本を持ち出したら、カミラは怒るだろうか? エリザベスにはどうしても持って行きたい本が何冊かあった。昔、家庭教師のミセス・ジョイスと勉強した百科事典や歴史の本。それにフランス語とドイツ語の辞書、できればスペイン語とアラブ語の辞書も…百科事典はきっとだめね。あれはコレクションとして並べておくのにいいものだから。ロンドンの父親が借りていた部屋にもいくらかはあると聞いているけれど……それに、いつも使っている植物図鑑は……その図鑑に書かれていることは、エリザベスの頭の中に全てあった。しかし、その本はどうしても手元に置いておきたい。もし、だめだといわれたら、自分で新しいのを買う? エリザベスはそして、ふと我に返った。

よく考えてみれば、自分にはもう手入れする庭はないのだ。図鑑など持っていてどうするというのだ。エリザベスは大きくため息をついて頭をふった。そして、ベランダにむかって開け放たれたガラス戸になんとかもたれかり、まるで月から自分を隠すように目の上を腕で覆った。

なにもかも変わってしまう。全てなくなるのだ。全て――

ベランダからはエリザベスの手入れしている少し南下がりの広大な庭が一望できたが、エリザベスは庭を見ようとはしなかった。月明かりの下、木々の頭のてっぺんに飛び出た毛のような枝葉だけが、音を立てずに冷たい風にそよいでいる。その下に眠りについている小さな草花たち。食べるのに困らない程度のお金はあるとはいえ、エリザベスにとって屋敷を出るということはとてつもなく恐ろしい孤独を意味していた。自分が連れて行けるのはベネだけ。後は何もない。アリソンも今までと変わらず、自分と友達でいてくれるだろうか。

この復活祭のお祭りが終わったら……シルヴィは戻らない。二度と。

エリザベスはシルヴィの前ではせめて、毅然とした態度でいたかった。たとえ、自分があと少しでここから出て行かなければならない惨めな境遇であっても。彼は貴族の中でもかなり身分は高いし大金持ちだ。そんな人間がわざわざ、自分のような貧乏で落ちぶれた貴族の田舎者と結婚するだろうか? 確かに彼は、有り余るほどお金を持っていながら、国に奉仕している変わり者だ。けれど、ロンドンにはもっと素敵な女性たちがたくさんいる。シルヴィを自分に勧めたピアソン卿は、父の大事な友人だったから、私のことをかわいそうに思ったに違いない。シルヴィにとっては迷惑な話だっただろう。きっと、どうしてもと勧められて、ここに来ることを拒めなかったのだ。彼はここにただ滞在しただけ。田舎の生活を少し楽しんで、日々の疲れを癒しにきただけ。

全てのことに期待をしないこと。エリザベスはそれでなんとかやってきた。自分が期待しなければ裏切られることもない。もし、シルヴィのことで自分が期待しすぎて、それがうまくいかなかったら、どうしたってひどく傷つくことになる。自分ひとりで生きていかねばならないのに、そんな痛手を追ってはいられない。ここ数日の間に、彼と自分にあったことは良い思い出にしよう。彼が触れた自分の唇。頬。そして抱きしめられたときのあの心地よい気分。エリザベスはそれを思い出すように、持って出たショールで自分の体をきつく巻いた。これまでになかったすばらしい思い出。今までに若いときのシルヴィの夢を何度も見たように、これからはこの夢を何度も見るのだろう。エリザベスは体が冷え切ってしまうまでそこにいた。