ロンドンでレドナップを偶然見かけたのは、仕事に戻ったシルヴィが、ロシアの海運会社に出入りする人間を追いかけてきたその時だった。その建物の隣は宿屋で、ロシアからきた船の船員たちが常宿にしている。一階のレストランに親しげに女性と入っていったのは紛れもなくレドナップであった。
仕事の手前、表立って動くのはどうかと一瞬迷ったが、シルヴィはレドナップと話をしなければと思った。あの水疱瘡騒ぎの時、レドナップがあからさまに嫌な顔をしており、天然痘を恐れてその場からそそくさと逃げ出したのは知っていた。けれども、彼は自分の前でエリザベスに求婚したのだ。一体それはどうなったのか? バーティに宣言はしたものの、もしかしたらエリザベスのことは時期を逃してしまったかもしれないと考えていた。しかし……
「こんなところで君に会おうとは。ミスター・レドナップ」
いきなり声をかけられたレドナップは慌てていた。
「グロブナー卿!」
「サウスハンプトンからいなくなったと思ったら、女性と一緒とは……」
シルヴィが言いかけたのを遮るように、レドナップはシルヴィの方に近づいて小声で言った。「別のところで……」
シルヴィは勝ちを確信した。「私はかまわないが」
レドナップは女性を窓際の席で待っておくように言い、自分はシルヴィと一緒に女性からは見えないレストランのカウンターへ歩いた。
明らかにレドナップは狼狽していた。おまけに窓際の席に待たせている女性には見覚えがある。バロネス・サリー・ジェフリーズ。サー・ジェフリーズの未亡人だ。亡くなった夫の方をシルヴィは知っていた。自分が七、八歳の時には、四十を過ぎていただろうか。そしてその夫人は確か、昔は移動劇団の女優をしていて、サー・ジェフリーズの遺産を湯水のように使っていると聞いている。若作りをしてはいるが、今、齢五十は超えているだろう。
「ミスター・レドナップ」
シルヴィは敢えてレドナップのことを艦長とは呼ばなかった。
「あの女性は?」
レドナップはまた一瞬ひるんだように見えたが、小さく息を吐いて言った。
「私のフィアンセだ。昨日、婚約した」
今度はシルヴィが驚く番だった。
「婚約!? 彼女と? ではエリザベスとの話はどうなったのだ」
「あ、あ、あなたにそんなことを答える義務はない」
レドナップはしどろもどろだ。そんなに金に困っていたのか。口には出さなかったが、エリザベスが相手でなくて良かったとシルヴィは内心ほっとしていた。
「では、あの窓際に座っている女性に聞いてみようか」
「や、やめろ。あなたはいつもそうやって……」
「どうしてそんなにおどおどしているのだ。聞かれたことに素直に答えればいいのだ。それとも締め上げられたいのか」
シルヴィは自分の長い手をレドナップの肩にかけた。レドナップは軍人にしては華奢で、一体どうやって海尉艦長にまでなったのかと思わせるほどだ。
「エリザベスとはどうなったのかと聞いているのだ」
シルヴィの腕がレドナップの首に巻きつけられる。もう片方の手の拳でみぞおちをこづくと、レドナップはうっと言って前かがみになった。
「さぁ、どうしたのだ」
レドナップはくぐもった咳をした。そして搾り出すような声で言った。
「……ど、どうもしていない。あのままだ……」
「あのままとはどういうことだ。エリザベスに求婚して、それからどうしたのだ」
「だから……」
シルヴィの拳がまたレドナップをこづいた。
「そのままだ。何もしていない。あれから……」
「つまり、天然痘を恐れてそのまま逃げてきたということか。サウスハンプトンに戻ってもいないのか」
「ああ、もどっていない」
シルヴィはその答えを聞いてかっとなり、もう一度レドナップのみぞおちに拳を入れた。レドナップは痛みでごほごほ咳をした。
「なんと情けない男だな。ということはエリザベスはそのままほったらかしにされているのか」
「何とでも言うがいい。天然痘の恐ろしさを知らないくせに……」
レドナップは悔しげにそう言った。
「君の行状をあの御婦人にばらしても良いが、これからいうことを手紙にしてエリザベスに出すなら、考え直さなくもない」
こういう脅しは得意だった。シルヴィはレドナップに手紙を口述させ、その手紙を預かって自分で投函した。そしてしばらく後、仕事もそこそこにまたサウスハンプトンへ向かい、エリザベスに求婚したのだった。
結局のところ、ピアソンと皇太子はやはりぐるだったのだろうか。書斎の椅子に座って、トルコ産の強い葉巻の端をかみながらシルヴィは考えていた。そんな気がしてならない。何のためにかはわからないが。そうでなければ、おせっかいが過ぎるというものだ。自分のことにしろ、エリザベスのことにしろ。自分は結婚などどうでも良かった。これまでいろいろな婦人と浮名を流してきたが、ダイアナが亡くなった後では真剣に誰かとその先を考えようなどとは思っていなかった。しかしエリザベスはどうだろうか。彼らが余計なことをしたせいでエリザベスはヒューイットと引き裂かれ、自分のところへ連れてこられた。
一体何のために? ただ、父親という後見人を亡くした女貴族など、掃いて捨てるほどいるだろう。自分の親しい友人の娘がそんな風になるのを見ていられなかったというのか? 考えれば考えるほどおかしい。彼らは何かたくらんでいる。
――しかし残念なことだが、こんなことは彼らにとっては何でもないことだ。シルヴィはタバコに火をつけた。
バーティもピアソンも人の都合など考えてはいない。自分はかまわないが、かわいそうなのはエリザベスだ。父親をなくして、よく知りもしない男のところへ連れてこられて。ヒューイットが恋人だったのならなおさらだ。父親が亡くなってすぐ、さっさと結婚しなかったのが運のつきだった。
そしてシルヴィは結婚式の前の夜、決心した。
エリザベスには手をつけない。自分から逃げ出すのを待つ。自から逃げ出したのなら、誰も文句は言うまい。彼女が自分から恋人の所へ舞い戻れば皇太子にも言い訳が立つ。
結婚式が終わったら、シルヴィはピアソンからの命令でパリに行くことになっていた。ピアソンは急いでいなかったが、シルヴィは式の後すぐ、フランスへ旅立つことにした。花嫁には何も告げてはいなかった。他の男を想いながら自分と夜を過ごそうとする女は、彼女であってはならない。
もし、彼女が本当に自分の妻になる覚悟があるのなら、しばらくは自分のことを待っているだろう。けれども、ヒューイットのことをまだ忘れずにいるなら、そのうち会いに行くに違いない。例え自分を選ばなかったとしても、エリザベスにはなぜか正直でいて欲しかった。泉の淵であの純粋なまなざしを自分に向けたエリザベス。それは幻想かもしれなかったが、自分にも一縷の望みはある。
シルヴィはアンドルーがロンドンのどこに下宿しているのかを例の探偵に探し出させ、自分の屋敷にいる執事のエヴァンズにはエリザベスの行動を逐一報告させることにした。妻が誰かと会っていないかよく監視させるのだ。エリザベスが不実の罪を犯していても構わない。世間に表立って知れなければ問題はない。ただ、ピアソンと皇太子に妻と別れる言い訳が欲しかった。その後は自分がまたどこか別のところで身持ちの悪い女性と浮名を流せば、エリザベスの体面は最低とまではいかなくとも、なんとか保たれる。自分がエリザベスにしてやれるのはそのぐらいのことだ。
翌日、二人の結婚式は滞りなく終わった。シルヴィは弟のホレイショーにしばらくメイフェアの屋敷に滞在してもらうことにし、式の後、すぐに仕事だからと言って出てきてしまった。どこに行くとも告げず。
感のいいエリザベスはその日の朝から、自分の態度が変わったことに気づいているようだった。花嫁を置きざりにするなんて、なんてひどい花婿だろう。屋敷を出るとき、エリザベスは唖然としていたが、執事のエヴァンズが「だんな様のお仕事はいつもこのようですから」とうまくあしらっていたのが聞こえた。
仕事の手前、表立って動くのはどうかと一瞬迷ったが、シルヴィはレドナップと話をしなければと思った。あの水疱瘡騒ぎの時、レドナップがあからさまに嫌な顔をしており、天然痘を恐れてその場からそそくさと逃げ出したのは知っていた。けれども、彼は自分の前でエリザベスに求婚したのだ。一体それはどうなったのか? バーティに宣言はしたものの、もしかしたらエリザベスのことは時期を逃してしまったかもしれないと考えていた。しかし……
「こんなところで君に会おうとは。ミスター・レドナップ」
いきなり声をかけられたレドナップは慌てていた。
「グロブナー卿!」
「サウスハンプトンからいなくなったと思ったら、女性と一緒とは……」
シルヴィが言いかけたのを遮るように、レドナップはシルヴィの方に近づいて小声で言った。「別のところで……」
シルヴィは勝ちを確信した。「私はかまわないが」
レドナップは女性を窓際の席で待っておくように言い、自分はシルヴィと一緒に女性からは見えないレストランのカウンターへ歩いた。
明らかにレドナップは狼狽していた。おまけに窓際の席に待たせている女性には見覚えがある。バロネス・サリー・ジェフリーズ。サー・ジェフリーズの未亡人だ。亡くなった夫の方をシルヴィは知っていた。自分が七、八歳の時には、四十を過ぎていただろうか。そしてその夫人は確か、昔は移動劇団の女優をしていて、サー・ジェフリーズの遺産を湯水のように使っていると聞いている。若作りをしてはいるが、今、齢五十は超えているだろう。
「ミスター・レドナップ」
シルヴィは敢えてレドナップのことを艦長とは呼ばなかった。
「あの女性は?」
レドナップはまた一瞬ひるんだように見えたが、小さく息を吐いて言った。
「私のフィアンセだ。昨日、婚約した」
今度はシルヴィが驚く番だった。
「婚約!? 彼女と? ではエリザベスとの話はどうなったのだ」
「あ、あ、あなたにそんなことを答える義務はない」
レドナップはしどろもどろだ。そんなに金に困っていたのか。口には出さなかったが、エリザベスが相手でなくて良かったとシルヴィは内心ほっとしていた。
「では、あの窓際に座っている女性に聞いてみようか」
「や、やめろ。あなたはいつもそうやって……」
「どうしてそんなにおどおどしているのだ。聞かれたことに素直に答えればいいのだ。それとも締め上げられたいのか」
シルヴィは自分の長い手をレドナップの肩にかけた。レドナップは軍人にしては華奢で、一体どうやって海尉艦長にまでなったのかと思わせるほどだ。
「エリザベスとはどうなったのかと聞いているのだ」
シルヴィの腕がレドナップの首に巻きつけられる。もう片方の手の拳でみぞおちをこづくと、レドナップはうっと言って前かがみになった。
「さぁ、どうしたのだ」
レドナップはくぐもった咳をした。そして搾り出すような声で言った。
「……ど、どうもしていない。あのままだ……」
「あのままとはどういうことだ。エリザベスに求婚して、それからどうしたのだ」
「だから……」
シルヴィの拳がまたレドナップをこづいた。
「そのままだ。何もしていない。あれから……」
「つまり、天然痘を恐れてそのまま逃げてきたということか。サウスハンプトンに戻ってもいないのか」
「ああ、もどっていない」
シルヴィはその答えを聞いてかっとなり、もう一度レドナップのみぞおちに拳を入れた。レドナップは痛みでごほごほ咳をした。
「なんと情けない男だな。ということはエリザベスはそのままほったらかしにされているのか」
「何とでも言うがいい。天然痘の恐ろしさを知らないくせに……」
レドナップは悔しげにそう言った。
「君の行状をあの御婦人にばらしても良いが、これからいうことを手紙にしてエリザベスに出すなら、考え直さなくもない」
こういう脅しは得意だった。シルヴィはレドナップに手紙を口述させ、その手紙を預かって自分で投函した。そしてしばらく後、仕事もそこそこにまたサウスハンプトンへ向かい、エリザベスに求婚したのだった。
結局のところ、ピアソンと皇太子はやはりぐるだったのだろうか。書斎の椅子に座って、トルコ産の強い葉巻の端をかみながらシルヴィは考えていた。そんな気がしてならない。何のためにかはわからないが。そうでなければ、おせっかいが過ぎるというものだ。自分のことにしろ、エリザベスのことにしろ。自分は結婚などどうでも良かった。これまでいろいろな婦人と浮名を流してきたが、ダイアナが亡くなった後では真剣に誰かとその先を考えようなどとは思っていなかった。しかしエリザベスはどうだろうか。彼らが余計なことをしたせいでエリザベスはヒューイットと引き裂かれ、自分のところへ連れてこられた。
一体何のために? ただ、父親という後見人を亡くした女貴族など、掃いて捨てるほどいるだろう。自分の親しい友人の娘がそんな風になるのを見ていられなかったというのか? 考えれば考えるほどおかしい。彼らは何かたくらんでいる。
――しかし残念なことだが、こんなことは彼らにとっては何でもないことだ。シルヴィはタバコに火をつけた。
バーティもピアソンも人の都合など考えてはいない。自分はかまわないが、かわいそうなのはエリザベスだ。父親をなくして、よく知りもしない男のところへ連れてこられて。ヒューイットが恋人だったのならなおさらだ。父親が亡くなってすぐ、さっさと結婚しなかったのが運のつきだった。
そしてシルヴィは結婚式の前の夜、決心した。
エリザベスには手をつけない。自分から逃げ出すのを待つ。自から逃げ出したのなら、誰も文句は言うまい。彼女が自分から恋人の所へ舞い戻れば皇太子にも言い訳が立つ。
結婚式が終わったら、シルヴィはピアソンからの命令でパリに行くことになっていた。ピアソンは急いでいなかったが、シルヴィは式の後すぐ、フランスへ旅立つことにした。花嫁には何も告げてはいなかった。他の男を想いながら自分と夜を過ごそうとする女は、彼女であってはならない。
もし、彼女が本当に自分の妻になる覚悟があるのなら、しばらくは自分のことを待っているだろう。けれども、ヒューイットのことをまだ忘れずにいるなら、そのうち会いに行くに違いない。例え自分を選ばなかったとしても、エリザベスにはなぜか正直でいて欲しかった。泉の淵であの純粋なまなざしを自分に向けたエリザベス。それは幻想かもしれなかったが、自分にも一縷の望みはある。
シルヴィはアンドルーがロンドンのどこに下宿しているのかを例の探偵に探し出させ、自分の屋敷にいる執事のエヴァンズにはエリザベスの行動を逐一報告させることにした。妻が誰かと会っていないかよく監視させるのだ。エリザベスが不実の罪を犯していても構わない。世間に表立って知れなければ問題はない。ただ、ピアソンと皇太子に妻と別れる言い訳が欲しかった。その後は自分がまたどこか別のところで身持ちの悪い女性と浮名を流せば、エリザベスの体面は最低とまではいかなくとも、なんとか保たれる。自分がエリザベスにしてやれるのはそのぐらいのことだ。
翌日、二人の結婚式は滞りなく終わった。シルヴィは弟のホレイショーにしばらくメイフェアの屋敷に滞在してもらうことにし、式の後、すぐに仕事だからと言って出てきてしまった。どこに行くとも告げず。
感のいいエリザベスはその日の朝から、自分の態度が変わったことに気づいているようだった。花嫁を置きざりにするなんて、なんてひどい花婿だろう。屋敷を出るとき、エリザベスは唖然としていたが、執事のエヴァンズが「だんな様のお仕事はいつもこのようですから」とうまくあしらっていたのが聞こえた。
