振り向くと、書類を抱えた男性がこちらを見ていた。
三十代半ばくらい。きちんとしたスーツ姿で、落ち着いた雰囲気の人だった。
「少し立ち入りすぎでは?」
「あら、征」
聖子さんが平然と返す。
「お客様でしょう」
「何よ、偉そうに。どうせ聞き耳立ててたんでしょ」
男性の眉間に皺が寄った。
「人聞きの悪い言い方はやめてください」
「じゃあ、なんで話の内容を知ってるのよ」
「声が聞こえただけです」
「それを聞き耳っていうの」
「言いません」
「言います」
「ちょっと、二人とも」
茂樹先生が額へ手を当てる。
「お客さんの前ですよ」
そのやり取りが、あまりにも遠慮がなくて、あまりにも普通で。
「……ふっ」
思わず、声が漏れた。
三人が一斉にこちらを見る。
「あ……すみません」
恥ずかしくなって俯いた。
でも。
「ふふっ……」
今度は、止められなかった。
肩が少し揺れる。
声を出して笑った。
いつ以来だろう。
こんなふうに笑ったのは。
ロト7で十二億円を当てた時ですら、笑わなかったのに。
目の前では三人が、今度は互いの顔を見合わせている。
それがまた可笑しい。
「笑ったわね」
聖子さんが嬉しそうに言った。
「え?」
「奏さん、今ちゃんと笑った」
「あ……」
そう言われて初めて、自分でも気づいた。
本当に、笑った。
茂樹先生は何も言わず、ただ穏やかに笑っている。
この場所へ入って、まだそんなに時間は経っていない。
なのに、ほんの少しだけ肩に乗っていた何かが軽くなった気がした。
「そういえば」
茂樹先生が、男性へ視線を向ける。
「奏さんに紹介していなかったね」
「今さらですか、所長」
男性が呆れたように言った。
「早乙女征。三十六歳。うちの司法書士です。パラリーガルとして、弁護士の補助もしてもらっています」
征さんが私に向き直る。
「早乙女征です。先ほどは失礼しました」
「神宮寺奏です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「聞き耳のことは謝らないのね」
聖子さんが、ぼそっと言う。
「聖子さん」
「はいはい」
また、笑いそうになった。
本当に、なんてアットホームな法律事務所なんだろう。
◇
でも、その瞬間。
さっきの聖子さんの言葉が、もう一度頭の中へ戻ってきた。
――変えられたこと。
――誰かに変えられてしまったこと。
一人の顔が浮かんだ。
その次に、もう一人。
そして、もう一人。
最後に。
一番思い出したくなかった女の顔が浮かぶ。
それまで笑っていたはずなのに、胸の奥で何かがざらりと動いた。
ある。
……あった。
「……あります!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
「わっ」
「え?」
「おお」
三人が揃って身体を震わせ、こちらを見る。
「あっ……すみません」
我に返り、思わず肩を縮めた。
茂樹先生はすぐに表情を緩める。
「いいよ、気にしなくて」
そして、さっきまでより少しだけ真剣な目で私を見る。
「どうしたのかな?」
私はゆっくりと息を吸った。
胸の奥に押し込めていた顔が、まだ消えない。
髙橋耕史。
深町淳二。
新庄篤郎。
そして――坂梨未來。
膝の上で、そっと手を握る。
「私の人生を……変えた人たちのことを、思い出しました」
茂樹先生は、何も言わずに頷いた。
聖子さんも、征さんも。
さっきまでの賑やかさを消し、私の言葉を待っている。
私は初めて――ずっと見ないふりをしてきた過去へ、向き合おうとしていた。

