その時、奥の扉が開いた。
「聖子さん、お客様?」
穏やかな男性の声がする。
振り向くと、六十代くらいの男性がこちらへ歩いてきた。
銀色の混じった髪に、柔らかな目元。きちんとスーツを着ているのに威圧感がなく、むしろ、ずいぶん人当たりのよさそうな人だった。
「あ、所長」
聖子さんが振り返る。
「予約の方ではないんですけどね。何かあったみたいで」
何かあった。
その言葉に、少しだけ胸が動いた。
……確かに。
何かは、あった。
それも、ありすぎるほど。
男性は私を値踏みするように見ることもなく、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。澤登茂樹です。ここの所長をしています」
「あ……神宮寺奏です」
「どうぞ、そのままで」
茂樹先生は私の向かいへ腰を下ろした。
「何かご相談かな?」
そこで私は困った。
この人は当たり前のことを聞いている。
法律事務所なのだから、当然だ。
なのに。
「……分かりません」
口から出た答えは、それだった。
自分でも意味が分からない。
案の定、聖子さんが少し目を丸くした。
けれど茂樹先生は、特に驚いた様子もなく静かに聞き返す。
「分からない?」
「はい」
私は膝の上で両手を握った。
「何でここに入ったのか……自分でも分からないんです」
言ってしまった。
こんな客、面倒だろうな。
予約もない。相談内容もない。ただ何となく入ってきた。
やっぱり帰った方がいい。
そう思って視線を落とした時だった。
「そうなんだね」
あまりにも普通に返されて、思わず顔を上げる。
茂樹先生は笑っていた。
同情するような笑いではない。困っているようにも見えない。
「でも、ここへ入ってきたってことは、何かあるのかもしれないね」
「……そうなのかな」
気づけば、そんな言葉を返していた。
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
茂樹先生は急かす様子もなく、ゆったりとソファへ背を預ける。
「うちは最初の一時間は無料相談なんだけどね」
無料。
その言葉だけで、反射的に身体が固くなる。
すると、すぐに気づかれた。
「ああ、気にしなくていいよ」
「え?」
「今から話すことは、まだ相談じゃないでしょう?」
「……相談じゃない?」
「奏さん自身が、何を相談したいのか分かっていないんだから」
そう言って、少し笑う。
「まずは、そこを見つけるところからでいいんじゃないかな」
見つける。
自分が、何をしたいのかを。
そんなことを言われたのは初めてだった。
◇
今までの私は、いつも「やらなければならないこと」を先に考えてきた。
学校へ行くために勉強する。学費のために成績を維持する。生きるために働き、お金がなければ節約して、仕事を失えば次を探す。
「したいこと」なんて、ずっと後回しだった。
ふと、自分の格好へ目を落とす。
何年も着ている服に、昔作った眼鏡。適当にまとめただけの髪と、最低限の化粧。
もしかして。
見窄らしいから、かわいそうだと思われたのだろうか。
そう考えて茂樹先生の顔を見る。
けれど、その目には憐れみがなかった。
かわいそうな人を見る目でもない。
ただ、目の前にいる私を見て、話を聞こうとしている。
それだけだった。
なぜか、そのことに少しだけ戸惑った。
「……私の人生って」
気づけば、口を開いていた。
「はい?」
「何色なんでしょうか」
言ってから、自分でも驚く。
何を聞いているんだ。
ここは法律事務所で、目の前にいるのは弁護士。
人生相談へ来たわけじゃない。
それなのに、茂樹先生は笑わなかった。
少し考えるように視線を落とし、それからゆっくりと口を開く。
「人生の色は、人それぞれなんじゃないかな」
「人それぞれ……」
「うん。今の色もあるし、これからの色もある。それに私はね、過去の色だって変わることがあると思ってる」
「過去も?」
思わず聞き返した。
過去なんて、一番変えられないものだと思っていた。
「起きたこと自体は変えられないよ」
茂樹先生の声は穏やかだった。
「でも、その出来事をどう思うかは、そのあとの人生によって変わることがあるでしょう?」
私は黙った。
そんなふうに考えたことはなかった。
過去は過去。
終わったこと。
変えられないなら、考えない。見ない。触らない。
それが一番楽だと思っていた。
「何か話してみる?」

