経理課・木下紬の恋のバグ

 全社会議の翌朝。紬がいつも通りにオフィスへ出社し、自席のデスクに腰を下ろしてパソコンの電源を入れた瞬間、思わず息を呑んだ。

「……何、これ。本当に変わっちゃったんだ」

 ディスプレイに映し出されたのは、昨日まで見慣れていた、あの少し古くさくてグレー基調の社内会計ソフトの画面ではなかった。

 幾何学的で洗練されたシルバーのエンブレム。

 その中央で、白く冷たい光を放ちながら一定の周期で点滅しているのは、昨日壇上で室井統括部長が提示したあのロゴ――『AVENIR(アベニール)』の四文字だった。

「本当に、今日から強制的に切り替わったのね。冗談であってほしかったわ」

 隣の席から、藤沢先輩の重く沈んだため息が聞こえてくる。

 フロアを見渡せば、すでに席についている管理部の面々や、パーテーションの向こう側にいる営業部の社員たちも、一様に困惑した表情で一新された液晶画面を凝視していた。

 日東ライフスタイル商事の管理部・経理課において、これまでの仕事は「システムと人間の融通」がセットで回っていた。

 営業部員がパソコンの画面上で入力したデータに、多少の入力ミスや書類の添付漏れがあることがある。

 そういうのがあっても、紬たちが「まぁ、あとで確認すればいいか」と手動で承認ボタンを押すことで、日々の実務は円滑に、そしてギスギスせずに回っていたのだ。

 人間同士の目配せと信頼関係。それがこの会社の暗黙のルールだった。

 だが、このアベニールは根本から作りが違っていた。

 画面の隅に表示されている冷たいヘルプ用の規約をスクロールすると、非情な文言が並ぶ。

『本システムはAIによる自動精査を行います。基準を満たさない申請、および整合性の取れない入力は自動的にロックされます』と。

 人間が間に入る隙を、最初から綺麗に排除したような設計。

「よし……とにかく、いつも通りにやってみよう」

 紬は自分に言い聞かせるように小さく呟くと、未処理トレイに置かれた経費精算伝票の山に手を伸ばした。

 最初に取り出したのは、今朝一番にメッセージが届いていた、営業部の長谷川律から回ってきた申請データだ。

 新作ホームベーカリーのマーケティング活動にかかった臨時の試作費用――。

 具体的には、プレミアム感を演出するために購入した「特製ミルクと有機小麦粉」の購入費、計一万二千円の領収書データだった。

 これまでの古いシステムであれば、紬が長谷川の熱意を汲んで、備考欄に「商品検証用」と一筆添えるだけで簡単に承認できていた案件だ。

 お互いに顔がわかる五十人の会社だからこそ、その「臨機応変な対応」こそが会社の強みでもあった。

 紬はいつも通り、長谷川が入力した数字と、添付されている領収書の画像を確認した。

 内容に不備はない。紬はマウスを握り、画面の右下に新しく配置された【経理承認】のボタンをクリックした。

 カチリ、と静かなプラスチックの音が、妙に緊張したフロアに響く。

 次の瞬間、パソコンの液晶画面が、目を見張るような鮮烈な「赤」に染まった。

【警告:費用対効果の基準を満たしていません。申請を自動却下します】

 ポップアップで現れた真っ赤なエラーメッセージが、紬の視界を暴力的にジャックする。
「え……? 却下って……」

 紬の指先が、キーボードの上で完全にフリーズした。

 焦った紬は、もう一度データを精査してみた。

 今度は備考欄に「新作ホームベーカリーの実演・検証用食材費。マダム層への売上貢献予測高し」と、より具体的な文言を打ち込んでから、再度申請の処理を試みた。

 しかし、結果は同じだった。マウスをクリックしたわずか一秒後には、再び冷酷な真っ赤な警告画面な警告画面が容赦なく跳ね返ってくる。

 アベニールは「過去の平均的な調理検証費を二百%超過」という機械的な計算データのみを根拠にして、人間の言い分や現場の事情を一切聞き入れようとしない。

 手動での修正すら受け付けず、画面上の長谷川のデータは「未承認(ロック)」の状態で完全に固定されてしまった。

「嘘でしょう……。これじゃ、長谷川さんの立て替えたお金が精算できない……」

 画面を見つめたまま、紬は底冷えするような困惑感に包まれていた。

 昨日、室井統括部長が静かな敬語で告げた「適正化」が、今まさに自分のデスクの上で現実のものになろうとしていた。

 これまでの融通が、完全にシャットダウンされたのだ。紬は、目の前の赤い画面から視線を外すことができなかった。