経理課・木下紬の恋のバグ

 室井統括部長が手元のタブレットに視線を落とすと、背後のスクリーンが一瞬で切り替わった。

 映し出されたのは、幾何学的で洗練されたエンブレムと、スマートなフォントで刻まれたシステムロゴだ。

『AVENIR(アベニール)』

 暗転した講堂の中で、その白く冷たい文字が、集まった五十人の社員たちの顔を青白く照らし出す。

 フランス語で「未来」を意味するその名を、室井は淡々と口にした。

「明日より、我が社は経営最適化AIであります『AVENIR』を全面導入いたします」

 室井は一度視線を上げ、眼鏡の奥にある切れ長の瞳でフロア全体を静かに見据えた。

 マイクを通した丁寧な敬語が、スピーカーを介して講堂の壁に冷たく跳ね返る。

「これは皆さんの『生産性向上』と『業務負担の軽減』、つまりは我が社が推進すべき真の働き方改革を実現するための、絶対的な適正化です」

 淀みのない、あまりにも滑らかな語り口。

 だからこそ、その言葉の裏にある「人間の融通の全否定」が、恐ろしいほどの冷徹さを持ってフロアへ染み渡っていく。

 紬は隣の藤沢先輩と顔を見合わせた。先輩の目は、信じられないものを見るように小さく見開かれている。

「明日以降、管理部の仕訳業務や受発注、営業部の経費申請にいたるまで、すべてのバックオフィス業務はこのアベニールのデータ判定に基づいて運用していただきます」

 明日から手作業のチェックがなくなる。

 それは一見すると効率化のようだが、これまでお互いのミスを補い合ってきた、普段の日常がすべて機械の計算に置き換わることを意味していた。

 講堂が静まり返るなか、室井の言葉は容赦なく続けられた。

「アベニールは過去の膨大な財務データ、市況トレンド、そして各部署の費用対効果をリアルタイムで100%正確に計算します」

 室井は一度言葉を区切ると、ステージの演台にすらりと長い両手をそっとついた。眼鏡の奥にある切れ長の瞳が、前方に並ぶ各部署の部長たちを順番に射抜いていく。

「つまり、これまでの人間同士の『忖度』や『特例』といった曖昧な処理は、一切通用しなくなります。すべてはアベニールが提示する効率的なルールに従っていただきます」

 冷酷なまでに言い切るその丁寧な口調に、講堂内の空気がさらに重く沈み込んでいく。

 これまでお互いに助け合ってきたグレーゾーンを、すべて「不合理」の二文字で一掃するような宣言だった。

「もし、この新しい働き方のシステムに適応していただけない場合……」

 室井はそこでわざとらしく視線を落とし、少しだけ声を潜めてみせた。

「大変心苦しいのですが、今後の皆さんの人事評価やボーナス査定に、相応の影響が出ることがございます」

 影響が出ることがある。

「不要だ」と直接クビを宣告するよりも、丁寧な言葉で突きつけられる分、はるかに生々しい脅しだった。

 サラリーマンにとって、人事評価をチラつかされることほど胃が痛くなる恐怖はない。

 奥の大河内部長は、すでに縮み上がるように小さくなっている。

 そのときだった。講堂の最前列から、一人の男性が静かに、しかし確固たる意志を持って立ち上がった。

「室井統括部長、少々よろしいでしょうか」

 声を上げたのは、営業部のトップである鬼塚部長だった。

 ワイシャツの袖口はいつも通りきちんとボタンが留められ、その表情は極めて冷静だ。

 しかし、壇上の室井を見つめる瞳には、現場を預かる長としての強い光が宿っていた。

「室井部長のおっしゃる『効率化』の重要性は重々理解しております。ですが、現場を預かる身として一言申し上げさせてください」

 鬼塚部長は一度言葉を切ると、壇上の室井から目を逸らすことなく、一歩前に足を踏み出した。

 講堂内の空気はぴりぴりと張り詰め、長谷川をはじめとする営業部のメンバーも、固唾を呑んで部長の背中を見つめている。

「うちの営業が取引先のバイヤーと言葉を尽くして関係を築き、実演販売担当の高橋たちがお客様お一人お一人に寄り添って家電を売ってきたのは、すべて『人と人との信頼関係』に基づいたものです」

 静かではあるが、確かな重みのある言葉だった。

 長年、現場の泥臭い努力を間近で見て、一緒に会社を支えてきた生え抜きの部長だからこそ出せる、嘘のない本音。

「これらを一括して『非効率なコスト』と切り捨てられてしまっては、現場のモチベーションは保てません」

 鬼塚部長は広い講堂を見渡すように視線を動かし、最後にまた壇上の室井を真っ直ぐに見据えた。

「現場の泥臭い努力や工夫を反映できないシステムでは、真の改革とは言えないのではないでしょうか」

 鬼塚部長の理性的で、かつ厳かな問いかけは、その場にいる全社員の本音を代弁していた。

 長谷川も、他の営業部員たちも、鬼塚部長の背中を固唾を呑んで見つめている。

 講堂の空気が、張り詰めた緊張感とともに静かに熱を帯びていく。

 しかし、壇上の室井は、眉一つ動かさなかった。

 眼鏡の奥の冷たい瞳で鬼塚部長を見つめると、ふっと小さく、慇懃無礼な笑みを浮かべた。

「鬼塚部長。その『信頼関係を築くためのコスト』が、現在の我が社の利益を十五%圧迫しているという客観的なデータが出ております」

 室井は手元のタブレットの画面を白い指先で軽く叩いた。

 背後の巨大なスクリーンに、営業部の接待費や出張費の規約違反を示す赤いグラフが、非情な現実として大きく拡大される。

「ご自身の熱意を否定するつもりはありませんが、感情論で会社は救えません」

 淡々と、しかし突き放すように告げられる静かな敬語。

 講堂内の五十人の社員は、まるで冷水を浴びせられたかのように完全に沈黙し、誰もがその場に立ち尽くすことしかできない。

「これからは、機械のスピードに人間の脳を追いつかせてください」

 室井は一度言葉を切ると、冷たく澄んだ瞳で講堂全体をゆっくりと射抜くように見据えた。

「それが、この会社で働き続けるための最低条件です」

 冷たく突き放すような室井の正論が、鬼塚部長の紳士的な問いかけを完璧にシャットダウンした。

 鬼塚部長は口元を引き結んだまま静かに席に座り、講堂は逃げ場のない完全な絶望に包まれる。

 紬はただ、『AVENIR』のロゴを見つめながら、これから始まる日々に、言いようのない不安を感じていた。