経理課・木下紬の恋のバグ

 長谷川から手渡された焼き立てのパンの切れ端を、紬は周囲の目を盗むようにして自席へと持ち帰った。

 パソコンの電源を入れ、ディスプレイの陰に隠れるようにして、まだ湯気の立つそれをこっそり口に運ぶ。

 ふんわりとした小麦の甘みと、濃厚なバターのコクが口いっぱいに広がった。

 噛み締めるたびに、先ほどまで満員電車で押し潰されていた憂鬱な気持ちが、優しく解けていくのが分かった。

「おはよう、木下さん。今朝もライフスタイル家電部は賑やかね」

 口の中のパンを慌てて飲み込んだところで、隣の席から穏やかな声が掛けられた。

 経理課の先輩であり、紬の良き相談相手でもある藤沢祥子だ。

 三十代半ばの彼女は、いつも仕立てのいいネイビーのブラウスをスマートに着こなし、大企業の荒波をいくつも乗り越えてきたベテランの余裕を漂わせている。

「おはようございます、藤沢先輩。はい、今朝は新作ホームベーカリーのミルク食パンだそうです。すごく美味しくて……」

「やっぱりね。廊下までバターのいい匂いが充満していたわ。あの熱血鬼塚部長のことだから、また水分量がどうのってバイヤー並みにこだわっているんでしょうね」

 藤沢はクスリと笑いながら、手元のマグカップからコーヒーを一口啜った。

「本当に泥臭いですよね。でも、あの熱量があるからこそ、うちの調理家電はヒットしているのかも知れません」

「ええ。でも、その泥臭さのシワ寄せが、全部私たちのところに回ってくるのだけは勘弁してほしいけれど」

 藤沢が視線で促した先、紬のデスクの「未処理トレイ」には、すでに営業部から回ってきた書類の束がいくつかのせられていた。

 その一番上にあった請求書の用紙を手に取った瞬間、紬は思わず「あちゃあ」と声を漏らした。

 量販店の上席バイヤーとの『飲みニケーション』で有名な、ベテラン営業マンの佐藤からの提出物だ。

 大手取引先からの重要な請求書であるにもかかわらず、用紙の右上に並ぶはずの赤インクが一つ欠けている。

営業担当者本人が内容を確認したという証明の、『担当印』の欄が真っ白なのだ。

「佐藤さん、また自分のシャチハタを押し忘れてる……。システム上でも確認ボタンが未入力のままですし、これじゃ正式な伝票として起票できないのに」

「またいつもの裏ルールの出番ね」

 藤沢が呆れたように肩をすくめる。

 伝統的大企業である日東ライフスタイル商事では、数年前に「ペーパーレス化」を謳って新しい会計ソフトが導入された。

 しかし、現場の人間が古い慣習から抜け出せないため、結局はPDFで届いた請求書をわざわざ紙に印刷している。

 担当者のハンコを押してから経理に提出し、経理がそれを目で確認してシステムに入力するという、歪な二度手間が日常化している。

「佐藤さーん、またハンコ忘れてますよ!」

 紬がフロアの向こう側にある営業部のデスクへ向かって、少し声を張り上げる。

 すると、パソコン画面に向かって頭を抱えていた佐藤が、丸い身体を揺らしながらバタバタと駆け寄ってきた。

「紬ちゃん、すまん! 昨日の夜、ビックカメラのバイヤーと午前二時までハシゴ酒でさ、頭が完全にウニになってて……ほら、これで勘弁して!」

 佐藤はポケットから愛用のシャチハタを取り出すと、紬の目の前で「ポン!」と勢いよく書類に判を押した。

「もう、次回からはシステム側の承認ボタンもちゃんと押してくださいね? 支払いが遅れたら困るのは佐藤さんなんですから」

「わかってる、わかってる! いつも融通利かせてくれてありがとうな、紬ちゃん!」

 佐藤は手を合わせて拝むようなポーズをすると、また忙しなく自分の戦場へと戻っていった。

「まぁ、これがうちの会社の良いところでもあるんだけどね」

 奥のガラス張りの部長室を見やりながら、藤沢が声を低くした。

 経理部長の大河内は、典型的な事なかれ主義の上司だ。

 今日も自分のデスクに「あとでじっくり確認するから」と承認待ちの書類を山積みにしたまま、パソコンでネットニュースを眺めている。

「大河内部長がああやって書類を溜め込んで、期日ギリギリになってから『木下さん、これ今日中に処理しといて』って丸投げしてくるのも、いつもの裏ルールですしね」

「本当に。でも、そうやってお互いにうっかりミスをカバーし合ったり、人間の目で見て融通を利かせたりできるから、この大きな組織がギスギスせずに回っているのかも知れないわ」

 藤沢の言葉に、紬は深く頷いた。

 効率的とは言えない。スマートでもない。

 けれど、ここには人間同士の確かな信頼と、大企業特有ののどかで温かいルールが存在していた。

 それが、この会社で働く人たちにとって、当たり前の日常だった。