経理課・木下紬の恋のバグ

「……瀬尾主任。データがすべてだと思っているなら、それは大きな間違いです」

 長谷川はデスクの椅子を大きく後ろへ引いて立ち上がると、瀬尾の視線を真っ正面から受け止め、低く、しかし力強い声で言い放った。

 その瞳には、先ほどまでのうつむいていた影は消え失せ、エース営業マンとしての確かな闘志が再び宿っている。

「アベニールが提示した代替ルートのデータなら、さっき俺の端末にも飛んできたから見ましたよ。だけどね、あれはただの机上の空論です」

 長谷川は自分のデスクのパソコン画面を親指で指し示し、瀬尾に向かって力強く一歩踏み出した。

「データ上は『別ルートのトラックを十台増やせば遅延は解決』ってなっている。だけど、今、千葉のインターチェンジ周辺は記録的な集中豪雨で大渋滞を起こしている。そんな現場のリアルタイムのトラブル、アベニールの予測にちゃんと入っていますか?」

 長谷川に具体的な現場の情報を突きつけられても、瀬尾は眉一つ動かさず、ただ手元のタブレットに視線を落とした。

「一時的な天候不良による局所的な渋滞など、数時間で解消される想定内のノイズです。大げさに騒ぎ立てる必要はありません」

 瀬尾は相変わらず淡々とした口調を崩さず、データを根拠に正論を突き返してくる。その姿勢に、フロアの空気がさらに張り詰めていく。

「ノイズなんかじゃないわ! 瀬尾さん、さっきの配送センターからのチャット、ちゃんと全部の文章を読みましたか!?」

 あまりにも現場を無視した瀬尾の態度に、紬はもう我慢できず、長谷川のすぐ隣に並んで声を張り上げていた。

 いつもなら誰の意見にも流されてしまう大人しい自分が、今は怒りで胸が熱くなっている。

「配送センターは『梱包資材の在庫が底を突いた』って、はっきりと連絡してきているんです。アベニールがいくらトラックの数を増やしたって、商品を包むための段ボールやテープが物理的に足りなければ、発送の準備すらできないんですよ!」

 紬は管理課の社員から預かった、外部倉庫からの連絡シートを印刷した紙を、瀬尾の黒縁メガネの目の前に真っ直ぐに突きつけた。

「段ボールのリアルな在庫数や、現場の作業員さんたちの体力の限界なんて、アベニールのデータには一行も入っていません。それを見落としたまま出荷の命令を強行するなんて、ただの無謀な暴走です!」

 経理課として、毎日現場のコストと物品の細かな動き、そしてそこに関わる人間の出入りの数字を見続け、守ってきた紬だからこそ気づいた、完璧なはずのシステムの最大の盲点だった。

 紬の必死の指摘に対し、瀬尾は初めてタブレットから顔を上げ、黒縁メガネの奥の瞳を微かに見開いた。

 静まり返る営業部のフロアのなかで、瀬尾のタブレットを叩いていた白い指先が、一瞬だけピタリと止まる。

「……資材の不足、ですか。アベニールは日東ライフスタイル商事の社内財務データはすべて網羅していますが、委託先である外部倉庫の『リアルタイムな段ボールの残数』までは同期していません」

 瀬尾は初めて、自分の信じる完璧な計算に「想定外のバグ」が存在することを認めるように、小さく唇を噛み締めた。

 メガネの奥の一重の瞳が、驚きと悔しさを孕んで紬の顔をじっと見つめている。

「だったら、話は早い。アベニールが計算できない領域なら、俺たち人間の手でそのバグを綺麗に修正してやりますよ」

 長谷川は紬の肩にそっと手を置くと、ニカッといつもの眩しい、太陽のような笑顔を見せてくれた。その手の温もりが、紬の背中を強く支えてくれる。

「紬ちゃん、今の段ボールの件、めちゃくちゃ大手柄。最高の視点だよ。俺、今から別の取引先の倉庫に頭を下げて、梱包資材を緊急で回してもらえるように直談判してくる!」

 長谷川はそう言うと、デスクの背もたれに掛けてあった上着を勢いよく引っ掴み、今度こそ前を向いて力強い足取りでフロアを飛び出していった。

 残された紬は、手元にあるノートをぎゅっと胸元で握りしめ、驚いた顔のまま立ち尽くす瀬尾を真っ直ぐに見つめた。

 データがすべてじゃない。機械に心を合わせる必要なんてない。私たちは私たちのやり方で、この嵐を乗り越えてみせる。