経理課・木下紬の恋のバグ

 お昼休みに入っても、営業部のフロアからは重苦しい空気が消えることはなかった。

 午前中の怒涛のクレーム電話がようやく一段落したものの、社員たちは疲れ果てた表情でデスクに突っ伏している。

 いつもなら、誰からともなく「飯行こうぜ」と声が上がる時間なのに、誰も席を立とうとすらしない。

 紬は経理課の自席から、パーテーション越しに長谷川が座る窓際のデスクへ、そっと視線を送った。

 長谷川は昼食を取ることも忘れ、ただ一人、パソコンの画面を睨みつけたまま、完全にフリーズしていた。

 いつもなら「紬ちゃん、お疲れ様!」と人懐っこい笑顔で声をかけてくれる彼の背中が、今は驚くほど小さく、痛々しいほどに強張っている。

 ディスプレイの光に照らされた横顔は、生気を失ったように青白かった。

 紬は、その痛々しい後ろ姿からどうしても目を背けることができなかった。

 胸の奥に広がるもどかしさを堪えきれず、書類を確認するふりをして、彼のデスクの横へゆっくりと歩み寄る。

「長谷川さん、あの……。これ、お茶です。少しでも、休んでください」

 紬がそっと温かい緑茶の入った紙コップを置くと、長谷川はハッと弾かれたように顔を上げた。

「あ……ありがとう……」

 長谷川は無理に口元を歪め、いつものように笑おうとした。

 けれど、その目はまったく笑っていなかった。

 目の下には、連日の徹夜作業と心労のせいで濃いクマがくっきりと浮かび上がっている。手元のコップから立ち上る湯気が、彼のやつれた顔を悲しく曇らせていた。

「私のほうこそ、お忙しいのに話しかけてすみません。でも、長谷川さん、あまり自分を責めないでください」

 紬が真っ直ぐに彼の目を見つめて語りかけると、長谷川は視線を落とし、机の上で拳を白くなるほど強く握りしめた。

「いや、これは俺の責任だ。だって、今回のインフルエンサー企画を強引に進めたのは、他でもない俺だからね」

 長谷川の低く掠れた声が、狭いデスクの間で切なく響く。

「アベニールの予測を見たとき、鬼塚部長が現場の限界を心配してくれていたのに、俺は『チャンスを逃したくない』って、室井統括の言葉に乗っかっちゃったんだ」

 長谷川はそこまで言うと、力なく視線を落とし、デスクの上の冷めかけた緑茶をじっと見つめた。

 いつも営業部を明るく引っ張っている彼が、ここまで深く後悔の念を口にするのを、紬は初めて見た。

「もっと慎重に倉庫の状況を確認していれば、佐藤さんや高橋さんにあんなに頭を下げさせて、苦しい思いをさせることもなかったのに……」

 長谷川は深く首を垂れ、自身の過ちを吐き出すように、何度も小さく首を振った。

「現場の泥臭い繋がりを、俺自身が裏切っちゃったみたいで……。みんなに、本当に申し訳ない。エースだなんて、調子に乗ってた自分が恥ずかしいよ」

 営業部のトップを走ってきたプライドが、商品への情熱が、そして仲間を誰よりも大切にする彼の優しさが、今、彼自身の心を激しく傷つけていた。

 紬は彼の震える拳を見つめた。

 そして、先日、非常階段で「紬ちゃんはいつも通り優しく俺たちの書類を見てくれてれば、それだけで百点満点だから」と自分を救ってくれた、彼の温かい言葉を思い出した。

 今度は、私が彼を助ける番だ。

「そんなことありません! 長谷川さんは会社のために、一生懸命、新しい挑戦をしただけです!」

 紬は気づけば、彼のデスクの前で拳を握り、フロアに響くほどの声で必死に訴えかけていた。

「アベニールの数字を盲信して、現場の人間や倉庫の限界を完全に無視して命令を出したのは経営企画部です。長谷川さんが一人で責任を背負い込む必要なんて、一ミリもありません!」

 紬の必死の言葉に、長谷川はゆっくりと顔を上げた。

 そして、驚いたように彼女の潤んだ瞳を見つめる。

「……紬ちゃん。ありがとう」

 長谷川が何かを言いかけた、そのときだった。

「――相変わらず、非効率な感情論に時間を費やしているのですね」

 澄んだ声とともに、パーテーションの影から瀬尾蓮が静かに姿を現した。

 その手には最新のタブレットが握られている。

「長谷川さん。自責に浸る暇があるなら、アベニールが提示した次なる代替配送ルートの修正データを早く承認してください。あなたの遅れが、また新たな機会損失を生んでいます。感情に振り回されるのは無駄です」

 事務的な瀬尾の言葉が、二人の間に容赦なく割り込んだ。

 長谷川は表情をさらに硬くして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 紬は二人の男の間に張り詰める空気を感じ、ただ息を呑むことしかできなかった。