経理課・木下紬の恋のバグ

 ピリリリリッ! プルルルルッ!

 翌朝、営業部のフロアに一歩足を踏み入れた瞬間、紬は耳を突き刺すような激しい電子音の嵐に身をすくめた。

 一台や二台ではない。フロアにあるすべてのビジネスフォンの液晶画面が赤く点滅し、高音のコール音が、まるで悲鳴のように一斉に鳴り響いている。

 普段はのどかな専門商社のフロアが、今はパニック映画のワンシーンのような騒然とした空気に包まれていた。

「はい! 日東ライフスタイル商事営業部です! ……はい、関東エレクトロのバイヤー様ですね! 存じております! 大変申し訳ありません!」

 パーテーションの向こう側から、営業部のベテラン、佐藤のいつになく焦りきった大声が聞こえてくる。

 いつもならお茶目で冗談ばかり言って紬を和ませてくれる佐藤だが、今は額にびっしりと冷や汗を浮かべ、受話器を両手で強く握りしめながら、何度もデスクに向かって頭を下げていた。

「はい、千葉の倉庫のシステムエラーによる配送トラブルでして……! 本日中には必ず代替便の状況を……はい! 本当に申し訳ありません!」

 佐藤だけではない。

 若手の鈴木も、実演販売担当の高橋も、全員が受話器を耳に押し当て、平謝りを繰り返している。

 千葉の配送センターから出荷されるはずだった商品の「六割」が遅延した影響は、全国の取引先である大手家電量販店のバイヤーたちを一斉に激怒させていた。

「紬ちゃん、おはよう。営業部のほう、完全にパンクしてるわね……。かける言葉も見つからないわ」

 隣の席の藤沢先輩が、神妙な面持ちで鳴り止まない電話の音を聞きながら、営業部の騒ぎを見つめていた。

 経理課のデスクにいても、営業部員たちが受話器越しに浴びせられている怒号が、フロア中に響き渡ってくる。

「特売日のチラシに大々的に載せたのに、当日商品が届かないとはどういうことだ!」

「機会損失の損害賠償を請求するぞ!」

 バイヤーたちの容赦のない怒りが、オフィスの空気をピリピリと張り詰めさせていた。

「はい、ツクバカメラ様ですね。長谷川です。……はい、納品遅れのご連絡、誠に申し訳ございません」

 フロアの窓際では、長谷川がいつになく硬い、低い声で受話器に応対していた。

 朝一番に非常階段で美味しいミルクパンをくれたときの、あの爽やかな笑顔は完全に消え失せている。

 彼の端正な顔は、連日の疲れと責任感で強張っていた。

「今回のインフルエンサー企画、予測を遥かに超える注文がございまして……。はい、すぐに代替便の手配を……」

 長谷川が必死に現場の人間として打開策を提示しようとするが、受話器の向こうの相手は、なおも激しく捲し立てているようだった。

 彼がじっと唇を噛み締め、悔しさを堪えるように拳を強く握りしめている姿を見て、紬は胸が締め付けられるように痛んだ。

 アベニールが提示した「売上最大化」という完璧な数字。

 それを盲信して現場の生身の人間や倉庫の限界を完全に無視して突っ走った結果が、この鳴り止まない電話と怒号の嵐だった。

「――やはり、現場の対応速度がデータの予測値に追いついていませんね」

 澄んだ声とともに、パーテーションの影から瀬尾蓮が静かに姿を現した。

 その手には最新のタブレットが握られ、黒縁メガネの奥の瞳が静かにフロアを見渡している。

 フロア中に響く悲鳴や怒号さえも、自分には関係のない「他人のノイズ」としか思っていないような、徹底した冷静さだった。

 先日深夜にサプリメントをくれたときの、あの不器用な優しさが嘘のように、今の彼は別人に見えた。

「瀬尾主任……! これでもまだ、システムを止める必要はないって言うんですか!?」

 紬は椅子から立ち上がった。

 手元に持っていたペンの先が震えるほど、激しい憤りが込み上げてくる。

「営業部のみんなが、あんなに頭を下げているのに……! 機械のスピードに人間の脳を追いつかせろなんて、やっぱりただの傲慢です!」

 紬の必死の抗議に対し、瀬尾は眉一つ動かさなかった。

 ただ、黒縁メガネの位置を指先で直す。

「感情論では何も解決しませんよ。僕はただ、データを処理しているだけです」

 そう言い残すと、瀬尾は淡々と別室へと去っていった。

 残された紬は、鳴り止まないコール音のなかで、傷つく仲間たちを前に何もできない自分自身の無力さに、悔し涙を堪えながら拳を握りしめていた。