経理課・木下紬の恋のバグ

『数字は嘘をつかないけれど、人間はたまに大嘘をつく』

 通勤電車の吊り革に掴まりながら、木下紬は心の中でそう呟き、小さく溜め息をついた。

 五月の朝の車内は、乗客たちの熱気と微かな汗の匂いが混じり合い、すでに少し寝苦しいような空気が満ちている。

 ガタゴトと揺れる電車に身を任せながら、紬は昨夜、自分の夢にまで出てきた『営業部の提出遅れ請求書』の山を思い出して、無意識に胃のあたりを軽く押さえた。

 日東ライフスタイル商事の管理部・経理課に配属されて、今年で五年。

 伝票処理から財務諸表の仕上げまでを少人数で回す経理のデスクは、月末の締め作業が近づくこの時期、どれだけ経験しても足取りが重くなる。

 同じ管理部内にある「管理課」のデスクでは、営業部が取ってきた商品の受発注データが秒刻みで処理されている。

 その最終的なお金の整合性を合わせ、取引先への支払いを確定させるのが、紬たち経理課の仕事だ。

 支払期日が迫った請求書を営業部が机に溜め込んでいるのを見つけるたび、紬の寿命は縮まる思いがする。

「今月こそは期日を守ってくださいねって、あれほど念を押したのに……」

 スマホの画面で今日のスケジュールを確認すれば、他部署から回ってきた未承認の経費や請求書のデータがすでに赤く点滅している。

 頭の中で電卓を叩くシミュレーションを繰り返しながら、最寄り駅からオフィスビルまでの徒歩五分間、紬はただ地面のタイルを見つめて歩いていた。

 しかし、そんな憂鬱な緊張感は、本社ビルのフロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、呆気なく霧散することになる。

 三階のオフィスフロアへと続く廊下を進むにつれて、冷たいエアコンの風に混じって、どこか懐かしくて愛おしい匂いが漂ってきたのだ。

 香ばしい小麦の香りと、じんわりと熱いバターの甘い匂い。

『あ、今日はミルク食パンだ……』

 紬は知らず知らずのうちに、固くなっていた肩の力をふっと抜いていた。

 廊下の突き当たりにあるガラス張りの一角。

 通称『テストキッチン』と呼ばれるそこは、同社が今最も力を入れている「ライフスタイル家電部」が、自社開発中の試作品を実際に動かして検証するための社内厨房だ。

 中を覗くと、案の定、営業部の面々が朝から騒がしく動き回っていた。

「鬼塚部長、焼き色『標準』だと、耳の周りがちょっと硬くないですか?」

「うーん、やっぱり日本の小麦粉だと水分の比率を変えなきゃダメか。よし、次は五ミリリットル減らして、焼き色『薄め』でセットしてみてくれ!」

 営業部のトップである鬼塚部長が、ワイシャツの袖を乱暴にまくり上げ、粉まみれの手で熱心に指示を出している。

 その横では、営業のエースである長谷川律が、焼き上がったばかりの食パンを火傷しそうな手で器用にちぎり、息を吹きかけながら口に放り込んでいた。

「熱っ!……でも部長、これめちゃくちゃモチモチです!耳まで柔らかい。これなら量販店のバイヤーだけじゃなく、目の肥えたマダム層にも絶対ウケますよ!」

「バカ野郎、お前が全部食うな!バイヤーに持っていくサンプルがなくなるだろ!」

 ガラス越しにも漏れてくる男たちの怒鳴り合いと、楽しそうな笑い声。床からじんわりと伝ってくる、ホームベーカリーが稼働する規則的な駆動音。

 数字と書類ばかりを追いかける乾燥した経理課にいる紬にとって、毎朝このキッチンの前を通って漂ってくる美味しい匂いを嗅ぐことは、今日も一日を乗り切るための小さくて確かな「心の燃料」だった。

「あ、木下さん!おはようございます!」

 不意にガラス扉が勢いよく開き、長谷川がひょっこりと顔を出した。

 その手には、湯気が立つ小さなパンの切れ端が、ペーパーナプキンに丁寧に包まれて握られている。

「これ、試作品の一番美味しいところ。いつも俺の無理な経費精算とか、遅れた請求書を通してもらってるお礼です。他の人に見つかると鬼塚部長に怒られるから、内緒で食べてくださいね」

「もう、長谷川さん。お礼の前に、今月はちゃんと期日通りに提出してくださいね? 支払いが遅れたら取引先に怒られるの、私なんですから」

 紬が少しだけ目を細めて釘を刺すと、長谷川は「うっ」と大袈裟に身をすくめてみせた。

「善処します!……あ、でもこれ、本当に美味しく焼けたんで。木下さんが朝から疲れた顔してたから、少しでも元気になってほしくて」

 悪戯っぽく、でもどこか気遣わしげに微笑む長谷川の笑顔は、手渡されたパンと同じくらい、温かくて眩しかった。

「……ありがとうございます、長谷川さん。席でこっそりいただきますね」

 受け取ったパンの温もりを手のひらに感じながら、紬は自分のデスクへと歩き出す。

『よし、今日も頑張ろう』

 先ほどまでの胃の痛みはどこかへ消え去り、紬の心はすっかり前を向いていた。

 この温かくて、少しお節介で、人間味に溢れた日常が、明日から完全に塗り替えられてしまうなんて、このときの紬はまだ、知る由もなかった――。