経理課・木下紬の恋のバグ

 アベニールの予言した「八百パーセントの注文殺到」は、最悪の形で現実のものとなった。

 長谷川の仕込んだインフルエンサーがSNSで我が社の調理家電を紹介した直後、アベニールの予測をさらに上回る凄まじい勢いで、全国からの注文データがシステムに飛び込んできたのだ。

 管理部のフロアでは、受発注の入力作業を直接処理する管理課のパソコン画面が、見たこともない速度で点滅し続けている。

 カタカタと激しくキーボードを叩く音が、まるで戦場のようにフロア中に鳴り響いていた。

「嬉しいことだけど……これ、本当にすべて出荷できるの……? 現場のキャパシティがもつかしら」

 隣の席で、経理課の藤沢先輩が青ざめた顔をして、管理課のデスクの騒ぎを凝視していた。

 その懸念は、翌日の午後、最悪の報せとなって管理部へ届くことになる。

 チリン、と鋭い音を立てて、フロア共通のビジネスチャットが激しく震えた。

 送信者は、千葉にある外部委託先の配送センターの責任者、山田だった。

 受発注の窓口である管理課宛てに送られてきたチャットの文字からも、現場の凄まじい逼迫と怒りが伝わってくるようだった。

『日東ライフスタイル商事・管理部管理課御中。緊急の業務連絡です』

 経理のデスクにいながらも、紬はそのただならぬ文面に思わず息を呑んだ。画面には、現場の悲鳴のような状況が綴られている。

『昨日から御社から送られています、出荷指示データが、通常の処理上限を完全に超えています。現場の作業員を夜通しフル稼働させて箱詰めを行っていますが、すでに梱包資材の在庫が底を突き、トラックの集荷手配も完全にパンクしました』

『配送センターが、パンク……!?』

 紬は管理課の社員と一緒に画面を覗き込み、あまりの事態に背筋が凍るのを感じた。

『本日出荷予定だった商品のうち、約六割に致命的な配送遅延が発生しています。このままでは明日以降、量販店や個人のお客様からのクレームで大炎上します。システムからの強制的な出荷エントリーを、今すぐ一時停止してください』

 一時停止してください――という切実な懇願だった。

 事態を重く見た紬は、管理課のデータを出力した紙を手に取り、奥の部長室から出てきた大河内部長に駆け寄った。

「大河内部長、大変です! 管理課に千葉の配送センターから連絡が来ました。アベニールの指示通りに出荷を強行したせいで、現場が完全に崩壊して大規模な配送遅延が起きています!」

「ええっ!? 配送遅延だって!?」

 大河内部長はハンカチで額の汗を何度も拭いながら、飛び上がるように驚いた。

「今すぐ出荷システムを止めないと、明日には取引先への信用問題になります。アベニールを一時的に停止する申請を出してください!」

 紬が必死に訴えると、大河内部長はあからさまに視線を泳がせ、ソワソワとエレベーターのほうへ体の向きを変えた。

「い、いや、木下さん。アベニールの管理権限はすべて経営企画部にあるんだ。私が勝手にシステムを止めるなんて判断をしたら、それこそ室井統括部長にどんな叱責を受けるか分からないじゃないか」

 大河内部長は手元の書類を小脇に抱え直すと、もっともらしい言い訳を口にして、眼鏡の位置を直した。

「ちょうどこれから上のフロアで役員会があるからね。私から室井統括に、直接この状況を報告して判断を仰いでくるよ。現場はそのまま待機させておいてくれ」

 大河内部長はそう言い残すと、自ら大きな決断を下して責任を負うことを避けるように、急ぎ足でエレベーターへと乗り込んでいってしまった。

 残された経理課のフロアに、えも言われぬ冷たい沈黙が広がる。

「――無駄な抵抗はやめてください。システムを止める必要はありません」

 澄んだ声とともに、パーテーションの影から瀬尾蓮が静かに姿を現した。

 その手には最新のタブレットが握られ、黒縁メガネの奥の瞳は、静かに紬を見つめている。

「配送センターの遅延は、現場の生身の人間のリソース管理が甘かったという二次的なバグに過ぎません。アベニールの算出した売上最大化のロジックは完璧です。人間が折れそうだからとシステムを止めるなど、論外です」

 丁寧な敬語のまま、現場の人間を完全に無視した瀬尾の正論。

 紬は手元にある配送センターからの悲鳴の紙を握りしめ、数字の前に、激しい憤りで身体を震わせていた。

 このままでは現場が死んでしまう。

 数字の奥にある人間の痛みを見ようともしない瀬尾を、紬は悔しさに唇を噛み締めながら、真っ直ぐに睨みつけていた。