経理課・木下紬の恋のバグ

 瀬尾から誰もいない夜のオフィスでサプリメントを手渡されたあの夜から、一週間が経った。

 紬のパソコン画面に映るアベニールは、今や長谷川と非常階段で一緒に作った「裏マニュアル」のお堅い役所言葉をすっかり学習していた。

 営業部からの申請をほとんど弾くことなく、滑らかにデータを処理し続けている。

 人間とAIが奇妙な共存を果たした五十人のオフィスには、一時の穏やかな平穏が戻っていた。

「木下さん、ちょっとこれを見てくれないか」

 午前十時、営業部のトップである鬼塚部長が、いつになく真面目な顔をして紬のデスクへ歩み寄ってきた。

 その手には、いつも持っている紙の書類の束ではなく、会社から新しく支給された薄型のタブレット端末が握られている。

「鬼塚部長、どうしたんですか? またアベニールに何かエラーでも吐き出されちゃいましたか?」

 紬が画面を覗き込もうとすると、隣の席に座る藤沢先輩も「何事かしら」とキーボードを叩く手を止めた。

「いや、エラーの逆だ。今度、うちの長谷川が仕込んできたインフルエンサーを使ったSNSのプロモーション企画があるだろ? それの売上予測をアベニールに掛けたら、とんでもない数字が出ちまったんだよ」

 鬼塚部長が困惑したように差し出した画面には、アベニールが算出した、不気味なほど綺麗な右肩上がりのグラフが表示されていた。

 画面いっぱいに赤く明滅する大きな文字で、予測結果が刻まれている。

【予測:企画開始から四十八時間以内に、注文数が通常期の八百%を突破します。在庫および配送ラインの最大拡充を推奨します】

「は、八百パーセント……!? 嘘、四倍どころか八倍の注文が一気に来るってことですか?」

 紬は思わず大きな声を上げ、表示された現実離れした数字を二度見した。

「ああ、信じられんが画面にはそう出ている」

 鬼塚部長はそう言って、タブレットの画面を大きくスクロールしながら眉間を深くしかめた。

「うちの営業部のこれまでの経験値からいけば、せいぜい二倍、良くて三倍のヒットだ」

 鬼塚部長は一度言葉を切ると、大きなため息をついた。

 これまで何度も修羅場をくぐり抜けてきた彼の現場感覚が、この異常な数字に強い違和感を覚えているようだった。

「だから長谷川もその予測に基づいて事前に在庫を手配していたんだが、アベニールは『それでは絶対に足りない、重大な機会損失になる』と警告してきてるんだ」

 鬼塚部長は腕を組み、デスクの前で困ったように唸った。

「室井統括部長は、このアベニールの絶対予言を100%信頼して、すぐに外部の委託先の大規模倉庫へ配送ラインの最大増強を指示しろって命令してきてる」

 鬼塚部長は組んだ腕に力を込め、言葉をさらに一段重くした。

「だが、現場の人間をそんな急に動かせるもんか!」

「鬼塚部長。アベニールは過去のトレンドやインフルエンサーのフォロワーの購買データをすべて精密に計算しています」

 不意に、澄んだ声がパーテーションの背後から響いた。

 振り返ると、いつの間にか経理課のフロアに立っていた瀬尾蓮が、黒縁メガネの奥の瞳を光らせていた。

 手にはいつものタブレットを握っている。

「アベニールの予測に狂いはありません」

 瀬尾は手元のタブレットを白い指先で軽快にフリックし、淡々と、しかし確信を込めて言葉を紡いだ。

「人間の勘や過去の古い経験で『そんなはずはない』と勝手にブレーキを踏むことこそが、ビジネスにおける最大の非効率です」

 淀みのない、あまりにも滑らかな敬語。

 だからこそ、長年現場を守ってきた鬼塚部長のプライドを正面から踏みにじるような厳しさが際立つ。

「今すぐ倉庫に連絡し、出荷システムを最大稼働させてください」

 丁寧な敬語のまま、瀬尾は一切の妥協を許さない視線を営業部長へ真っ直ぐに向けた。

「瀬尾主任。データが正しいのは頭ではわかっているが、実際に倉庫で箱詰めをしてトラックを動かすのは機械じゃなくて、生身の人間なんだぞ。急に八倍の荷物を回されて、現場がパンクしないわけがないだろ」

 鬼塚部長は、現場を預かる長として静かに言い返したが、瀬尾は眉一つ動かさない。

「人間を最も効率的に動かすために、このデータが存在しているのです。ご対応をお願いします」

 そう言い残すと、瀬尾は淡々と別室へ去っていった。

 残された紬は、画面の中で怪しく光る「800%」という赤い数字を見つめ、実家で父が言っていた「道具に振り回されるな」という言葉を思い出していた。

 完璧すぎる機械の絶対予言。

 それが、これから日東ライフスタイル商事を襲う、誰も予想できなかった配送遅延の大嵐のカウントダウンであることに、このときの紬はまだ、気づく由もなかった。