「せ、瀬尾主任……っ!? どうしたんですか?」
紬は握りしめていた重い経理用の電卓をカチャリと机に置き、情けないほどに上ずった声を上げた。
誰もいないはずの暗闇からぬっと現れた彼の存在に、心臓がまだ信じられないほど激しく警報を鳴らし続けている。
「DX改革推進本部のサーバーメンテナンスです。リモートでの確認も可能ですが、実機を直接見た方が確実ですので」
瀬尾はスマートな黒縁メガネの位置を綺麗な指先で直すと、紬のデスクを静かに見下ろした。
その視線が、紬がキーボードの横に広げたままにしていた経理用のメモノートの上でピタリと止まった。
そこには昼間、長谷川と一緒に非常階段で必死に練り上げた、アベニールを騙すための「役所言葉のキーワード」と公的URLの法則がびっしりと書き込まれている。
『しまっ……! 完全に、見られた……!?』
紬は頭のてっぺんから血の気が引いていくのを感じ、慌ててノートを閉じようと両手を伸ばした。
しかし、瀬尾の細く長い指先が、紬よりも一瞬早くノートの端を静かに、的確に押さえた。
「大手家電量販店における市場動向調査、ですか。ずいぶんと古典的で、泥臭いハッキングを仕掛けましたね」
「あ、あの、これは……! 営業部の人たちは悪くないんです! 私が勝手に……!」
紬は言い訳を探そうと、喉を詰まらせて瀬尾の顔を真っ正面から見上げた。
室井統括部長の右腕である彼にこの「裏マニュアル」の存在がバレたということは、即座にシステムが修正され、自分や営業部が厳しい処分を受けることを意味していた。
せっかく取り戻したオフィスの活気が、また冷たい機械に潰されてしまう。
しかし、瀬尾はノートを押さえたまま、フッと小さく、呆れたようなため息を漏らしただけだった。
「安心してください。室井統括には報告しませんし、アベニールのアルゴリズムを今すぐ修正する予定もありません」
「え……? 報告、しないんですか?」
あまりにも予想外の言葉に、紬はパチパチと瞬きを繰り返した。
「ええ。確かにあなた方のやっていることは、システムの死角を突いた不合理な工作です」
瀬尾は押さえていたノートからそっと指を離すと、紬を真っ直ぐに見据えた。
咎めるような口調ではない。ただ客観的な事実を処理するように、彼の静かな声が暗いフロアに響く。
「ですが、アベニールにダミーであれ『公的機関のデータ』が大量に蓄積されることは、長期的にはAIの学習効率と予測精度を上げるメリットがあります」
瀬尾は一度言葉を切ると、スマートな黒縁メガネの位置を綺麗な指先で小さく直した。
ディスプレイのバックライトが、彼の整った横顔を白く照らし出している。
「ですから、今の段階では泳がせておいた方が効率的なのです」
瀬尾はそう淡々と告げると、ネイビーの上着のポケットから、小さなアルミのパウチ袋を取り出した。
それを、紬のキーボードのすぐ横に、コトッと静かな音を立てて置く。
「……なんですか、これ。新しい書類の添付データですか?」
紬が怪訝そうに袋のラベルを見ると、そこには、ビタミンやアミノ酸など、難しそうな成分名が細かく並んでいた。
「高濃度のアスタキサンチンと、脳の疲労を軽減するためのサプリメントです」
瀬尾は机の上に置いた小さなアルミ袋を、長い指先でスッと紬の方へ押し出してみせた。
「あなたがこれ以上、非効率な深夜残業でミスを連発し、体調を悪化させるのは、我が社の全体的な業務効率において極めて大きな機会損失にあたります」
瀬尾はそこまで一気に捲し立てると、初めて黒縁メガネの奥の瞳に、ほんの少しだけ人間らしい「気まずさ」を浮かべた。
「……つまり、その。あまり無理をして体調を崩されると、僕の計算が狂うので迷惑だ、という意味です」
迷惑だ、と言いながらも、彼の白い耳の裏が、液晶の光のなかでほんのりと赤くなっているのを、紬は見逃さなかった。
ロジックばかりを口にする彼なりの、不器用な気遣いだった。
「……ふふっ。ありがとうございます、瀬尾主任。ありがたく、いただきますね」
紬がサプリの袋を手に取って小さく笑うと、瀬尾は「では、僕はこれでサーバーのメンテナンスがあるので」と、いつものロボットのような硬い敬語を残して、早足で別室へ向かった。
ガランとした暗いフロアに、彼の少し慌てたような革靴の音が遠ざかっていく。
手の中に残された、冷たいサプリメントの袋。
けれど、そこには長谷川の温かい缶コーヒーとはまた違う、瀬尾蓮というロジック男なりの、不器用で、でも最高に真っ直ぐな「温もり」が確かにこもっていた。
「瀬尾さんって、本当は冷たい人じゃないのかもしれない……」
静まり返ったオフィスのなかで、紬の胸の奥が、不思議な甘い余韻でじんわりと満たされていく。
長谷川のまっすぐな情熱と、瀬尾の不器用な優しさ。
その二人のあいだで、紬の心に、AIには絶対に計算できない最大の「恋のバグ(葛藤)」が、静かに起動し始めていた。
紬は握りしめていた重い経理用の電卓をカチャリと机に置き、情けないほどに上ずった声を上げた。
誰もいないはずの暗闇からぬっと現れた彼の存在に、心臓がまだ信じられないほど激しく警報を鳴らし続けている。
「DX改革推進本部のサーバーメンテナンスです。リモートでの確認も可能ですが、実機を直接見た方が確実ですので」
瀬尾はスマートな黒縁メガネの位置を綺麗な指先で直すと、紬のデスクを静かに見下ろした。
その視線が、紬がキーボードの横に広げたままにしていた経理用のメモノートの上でピタリと止まった。
そこには昼間、長谷川と一緒に非常階段で必死に練り上げた、アベニールを騙すための「役所言葉のキーワード」と公的URLの法則がびっしりと書き込まれている。
『しまっ……! 完全に、見られた……!?』
紬は頭のてっぺんから血の気が引いていくのを感じ、慌ててノートを閉じようと両手を伸ばした。
しかし、瀬尾の細く長い指先が、紬よりも一瞬早くノートの端を静かに、的確に押さえた。
「大手家電量販店における市場動向調査、ですか。ずいぶんと古典的で、泥臭いハッキングを仕掛けましたね」
「あ、あの、これは……! 営業部の人たちは悪くないんです! 私が勝手に……!」
紬は言い訳を探そうと、喉を詰まらせて瀬尾の顔を真っ正面から見上げた。
室井統括部長の右腕である彼にこの「裏マニュアル」の存在がバレたということは、即座にシステムが修正され、自分や営業部が厳しい処分を受けることを意味していた。
せっかく取り戻したオフィスの活気が、また冷たい機械に潰されてしまう。
しかし、瀬尾はノートを押さえたまま、フッと小さく、呆れたようなため息を漏らしただけだった。
「安心してください。室井統括には報告しませんし、アベニールのアルゴリズムを今すぐ修正する予定もありません」
「え……? 報告、しないんですか?」
あまりにも予想外の言葉に、紬はパチパチと瞬きを繰り返した。
「ええ。確かにあなた方のやっていることは、システムの死角を突いた不合理な工作です」
瀬尾は押さえていたノートからそっと指を離すと、紬を真っ直ぐに見据えた。
咎めるような口調ではない。ただ客観的な事実を処理するように、彼の静かな声が暗いフロアに響く。
「ですが、アベニールにダミーであれ『公的機関のデータ』が大量に蓄積されることは、長期的にはAIの学習効率と予測精度を上げるメリットがあります」
瀬尾は一度言葉を切ると、スマートな黒縁メガネの位置を綺麗な指先で小さく直した。
ディスプレイのバックライトが、彼の整った横顔を白く照らし出している。
「ですから、今の段階では泳がせておいた方が効率的なのです」
瀬尾はそう淡々と告げると、ネイビーの上着のポケットから、小さなアルミのパウチ袋を取り出した。
それを、紬のキーボードのすぐ横に、コトッと静かな音を立てて置く。
「……なんですか、これ。新しい書類の添付データですか?」
紬が怪訝そうに袋のラベルを見ると、そこには、ビタミンやアミノ酸など、難しそうな成分名が細かく並んでいた。
「高濃度のアスタキサンチンと、脳の疲労を軽減するためのサプリメントです」
瀬尾は机の上に置いた小さなアルミ袋を、長い指先でスッと紬の方へ押し出してみせた。
「あなたがこれ以上、非効率な深夜残業でミスを連発し、体調を悪化させるのは、我が社の全体的な業務効率において極めて大きな機会損失にあたります」
瀬尾はそこまで一気に捲し立てると、初めて黒縁メガネの奥の瞳に、ほんの少しだけ人間らしい「気まずさ」を浮かべた。
「……つまり、その。あまり無理をして体調を崩されると、僕の計算が狂うので迷惑だ、という意味です」
迷惑だ、と言いながらも、彼の白い耳の裏が、液晶の光のなかでほんのりと赤くなっているのを、紬は見逃さなかった。
ロジックばかりを口にする彼なりの、不器用な気遣いだった。
「……ふふっ。ありがとうございます、瀬尾主任。ありがたく、いただきますね」
紬がサプリの袋を手に取って小さく笑うと、瀬尾は「では、僕はこれでサーバーのメンテナンスがあるので」と、いつものロボットのような硬い敬語を残して、早足で別室へ向かった。
ガランとした暗いフロアに、彼の少し慌てたような革靴の音が遠ざかっていく。
手の中に残された、冷たいサプリメントの袋。
けれど、そこには長谷川の温かい缶コーヒーとはまた違う、瀬尾蓮というロジック男なりの、不器用で、でも最高に真っ直ぐな「温もり」が確かにこもっていた。
「瀬尾さんって、本当は冷たい人じゃないのかもしれない……」
静まり返ったオフィスのなかで、紬の胸の奥が、不思議な甘い余韻でじんわりと満たされていく。
長谷川のまっすぐな情熱と、瀬尾の不器用な優しさ。
その二人のあいだで、紬の心に、AIには絶対に計算できない最大の「恋のバグ(葛藤)」が、静かに起動し始めていた。
