経理課・木下紬の恋のバグ

 長谷川と非常階段で結託して「アベニール包囲網」の作戦を立ててから、数日が瞬く間に過ぎていった。

 紬がノートに書き留め、営業部にこっそり共有した「アベニール攻略裏マニュアル」は、思いのほか効果を発揮した。

 営業部の佐藤や高橋たちは、マニュアル通りにお堅い役所言葉のキーワードと公的なURLを添えて経費申請を上げていった。

 そうすると、あれほど頑固だったアベニールが、嘘のように次々と承認ルートへデータを流してきたのだ。

「やった……! 本当に画面が赤くならない! ロックがかからないぞ!」

 デスクのパーテーションの向こうから、佐藤たちの嬉しそうな歓声が聞こえてくるたびに、紬は胸の奥で小さくガッツポーズを突き上げていた。

 現場に活気が戻り、人間たちの仕掛けた小さな知恵の反撃はひとまず大成功を収めたと言ってよかった。

 しかし、そのシステムの裏をかいたシワ寄せは、最終的なチェックを一手に見る管理部経理課の、紬の元へと一気に押し寄せることになった。

 キーワードが合致して自動却下を免れただけの伝票は、最終的に人間の目で整合性を確認しなければならないからだ。

 時計の針は、すでに夜の十時半を回っている。

「はぁ……さすがにちょっと目がチカチカしてきたな。画面の文字が二重に見える……」

 紬はキーボードを叩く手を止め、小さく伸びをして、カチコチに凝り固まった肩の骨をゆっくりと回した。

 経理課の先輩である藤沢先輩は「紬ちゃん、本当に手伝えなくてごめんね! 保育園のお迎えがあるからお先に!」と申し訳なさそうに定時で帰っていった。

 事なかれ主義の大河内部長にいたっては「残業申請の理由はアベニールが厳しく見てるからね。私は役員会があるから」と自分の保身だけを考えて夕方に早退してしまった。

 気がつけば、普段は五十人の社員が忙しなく動き回っている広大なオフィスの明かりは、紬のデスクの周りだけを残して完全に落とされ、あたりは深い闇に包まれている。

 昼間のあの賑やかさが嘘のように、オフィスは静まり返っていた。

 暗闇のなかで聞こえてくるのは、エアコンの空調音と、サーバーラックのファンが回る微かな電子音だけだった。

 天井の蛍光灯が、紬のデスクだけを白く冷たく照らしている。

「よし、あともう一息。長谷川さんの経費を最後に承認したら、今夜は終わりにしよう」

 紬は自分を奮い立たせるように声に出して呟き、画面に映る長谷川の綺麗な「市場検証用物品費」の文字を見つめてマウスをクリックした。

 カチリ。

 誰もいない静かなオフィスに、プラスチックのマウス音が妙に大きく、高く反響する。

 その時だった。

 ガランとしたフロアの奥、完全に暗闇に包まれたエレベーターホールのあたりから、微かな異音が聞こえた。

――スゥ……、ト、トン。

 静寂のなかに響いたその不自然な摩擦音に、紬の背中の産毛が、一瞬で総立ちになった。

「え……? 誰か、まだ残っているの……?」

 紬は恐る恐る振り返ったが、背の高いパーテーションの影に遮られて、暗闇の奥の様子はまったく見通せない。

 警備員さんの夜間巡回にしては、時間がまだ少し早すぎるし、何より足音が忍び足のように静かすぎるのが不気味だった。

――コツ、コツ、コツ。

 静寂を引き裂くように、今度ははっきりと、規則正しい硬い革靴の音がこちらに向かって近づいてきた。

 ゆっくりと、しかし確実に、足音は迷うことなく紬のいる経理課のデスクを目指して真っ直ぐに歩み寄ってくる。

『嘘でしょう……。鬼塚部長が営業部で言ってた、アベニールの生霊とか、お化けじゃ……』

 実家のリビングで父たちと話した、あのコミカルな怪談話を思い出し、紬は恐怖で喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まりそうになった。

 本当に心臓がドクドクと耳の奥でうるさいほど脈打っている。

 恐怖で身体が完全にすくんでしまい、立ち上がることも、声を上げることもできない。

 紬は手元にあった大きくて重い経理用の電卓を、いざという時の武器代わりに、指が白くなるほどぎゅっと強く握りしめた。

 足音は、ついにパーテーションのそばまで迫り、 そしてピタリと止まった。

 薄い壁が一枚挟まったすぐ向こう側に、正体不明の「誰か」が静かに佇んでいる。その絶対的な沈黙が、かえって紬の恐怖を限界まで跳ね上げた。

 そして、オフィス街のきらびやかな夜景の光を背負って、暗闇の中から、一人の長身の男のシルエットが、ゆっくりと影を落とすように浮かび上がる。

「――こんな夜更けまで、何をしているんですか」

 冷徹なまでに透き通った、しかし確実に聞き覚えのある男の声が、暗闇から静かに降ってきた。

 紬が弾かれたように振り返ると、そこにはスマートな黒縁メガネのレンズを液晶の光に反射させた、DX改革推進本部の瀬尾が冷然と立っていた。