経理課・木下紬の恋のバグ

「――でさ、紬ちゃん。ただ機械の言う通りに落ち込んでるだけじゃ、営業マンの名が廃るからさ」

 長谷川は空になった缶コーヒーを小さく振って手すりの横に置くと、声をさらに一段落として紬に顔を近づけた。

 薄暗い非常階段の踊り場で、彼の吐息が届きそうなほどにぐっと距離が縮まる。

 少し冷えたコンクリートの空気の中で、彼のまとう温かい体温が伝わってくるようで、紬の心臓は再びトクンと大きく跳ね上がった。

「アベニールの自動却下(ロック)をすり抜ける、ちょっとした裏ワザを思いついたんだよね」

「えっ……裏ワザですか?」

 紬は驚いて、手元に持っていた経理課のメモノートを、自分の動揺を隠すように胸元へ強く抱え直した。

「そう。昨日、DX推進部の瀬尾主任が、冷たい顔をしてドヤ顔で言ってただろ?」

『事前にアベニールへ根拠となる市場データをインプットしておけば自動却下されない』ってさ」

 長谷川はポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで画面をフリックした。

 コンクリートに囲まれた静寂のなかで、液晶の青白い光が、彼のいたずらっぽく、しかし実に真剣に光る瞳を鮮やかに照らし出す。

「つまりさ、俺たちが経費をシステムに入力するときに、アベニールが絶対にNOと言えない『公的な市場調査データ』の見出しを、備考欄にキーワードとしてコピペして突っ込んじゃえばいいんだよ」

 長谷川の突拍子もない、けれど非常に理にかなった提案に、紬は思わず目を見開いた。

「それって……AIのシステムの死角を突く、カモフラージュってことですか?」

「言い方は悪いけど、そういうこと」

 薄暗い非常階段の踊り場で、彼のスマートな瞳が自信に満ちて輝いている。

「たとえば、佐藤さんの接待費なら、ただ『ビックカメラのバイヤーと飲食』って書くから不適切として弾かれる」

 長谷川はスマートフォンの画面を指し示しながら、声をさらに一段落として紬に顔を近づけた。

「そこに『大手家電量販店における、次期商戦に向けた最新の市場動向調査、および関係性構築のための意見交換会』って小難しく打ち替えるんだ」

「さらに、経済産業省が毎週出しているような、商業動向統計の公的なURLをデータとして備考欄に一本添える」

 長谷川は不敵にいたずらっぽく笑うと、スマートフォンの画面をトントンと指先で叩いた。

「そうするとさ、アベニールは『あ、これは正当な市場調査のコストなんだな』って誤認して、システム上のロックを通さざるを得なくなるはずなんだよね」

 長谷川はそこまで言うと、自分のスマートフォンをポケットへすっと滑り込ませた。

 驚く紬の顔を見て、彼の目元がさらに優しく和らいでいく。

「要するに、お堅い役所の書類みたいな言葉に変えるのさ」

「なるほど……! AIは言葉の裏にある人間同士の『融通』や『忖度』は感知できなくても、規約やプログラムに合致する『特定のキーワードと客観的なデータ』の形さえ揃っていれば、自動で承認を出すしかないんですね」

 紬は小脇に抱えていたノートを急いで開き、長谷川の言葉をペンで素早くメモしていった。

 これまで五年間、頑なに数字と規約に向き合ってきた経理課のプロとしての知識が、長谷川のしたたかな現場の営業論とカチリと噛み合っていくのがわかった。

 冷たい計算機を逆手に取る手法に、紬の胸はかつてない高揚感で熱くなっていく。

「そう。実演販売の高橋さんのトリュフオイルだってさ、『百貨店催事における、プレミアム層をターゲットにした実演調理の市場検証用物品費』って書けば通るはず」

 長谷川は紬のノートを上から覗き込みながら、楽しそうにペンの先を指し示した。

 彼の肩が紬の腕に微かに触れ、狭い非常階段に不思議な甘い緊張感が満ちていく。

 彼が時々くれる、あの焼き立てのミルクパンの甘い匂いが、すぐ近くでふわりと鼻腔をくすぐった。

「鈴木のセールの件も、ただの深夜対応じゃなくて『競合他社のアクセス集中時における、サーバー負荷および機会損失の防止措置』って申請名目を変えさせる」

 長谷川は顔を上げ、自身の完璧なひらめきに満足したようにいたずらっぽく目を細めた。

「これなら絶対にAIのチェックをすり抜けられる」

「すごいです、長谷川さん。それならアベニールの自動判定を、逆に私たちの味方に付けられます。営業部のみんなに、入力のキーワードの法則を『裏マニュアル』としてこっそり回しましょう」

「頼むよ、紬ちゃん。これで俺たちの現場の反撃、アベニール包囲網の開始だね」

 長谷川は紬のノートを上から覗き込みながら、楽しそうにペンの先を指し示した。

 彼の肩が紬の腕に微かに触れ、狭い非常階段に不思議な甘い緊張感が満ちていく。

 長谷川は嬉そうに微笑むと、ふと我に返ったように非常階段の防火扉のほうを見やった。

「そろそろ行こうか。あんまり席を離れていると、変に思われるからさ」

 そう言って片手を上げると、長谷川は「じゃ、また後で」と階段を軽快に下りていった。

 一人残された静かな非常階段で、紬はびっしりと書かれたノートを見つめ、静かに胸を熱くさせていた。

 冷たい機械のルールにただ怯えて、大河内部長のように逃げ回るのは、もう終わりだ。

 私たちは私たちのやり方で、人間同士の信頼を守り、このオフィスを絶対に回してみせる。

 手の中のノートを強く握りしめながら、紬は次なる戦いへ向けて、静かに防火扉の重い手すりに手をかけた。

 冷徹なシステムを相手にした、私たちの秘密の作戦が、今ここから始まるのだ。