経理課・木下紬の恋のバグ

 重い防火扉の向こう側は、ひんやりとしたコンクリートの独特な匂いに満ちていた。

 エアコンの冷風が完全に遮断された、どこか隔離されたような静けさのなか、紬がゆっくりと階段を上っていく。

「――お、ナイス。ちゃんと暗号、解いてくれた」

 上方の踊り場から、聞き慣れた明るい声が降ってきた。

 見上げると、手すりから身を乗り出した長谷川律が、いつもの人懐っこい笑顔でこちらを見下ろしている。

 ワイシャツの袖を少しだけたくし上げた彼の姿を見た瞬間、紬の胸の奥が、トクンと小さく跳ね上がった。

「長谷川さん、本当に驚きましたよ。急にお堅いビジネス敬語でメッセージが届くから」

「あはは、ごめんごめん。でもさ、ああでも書かないと室井統括のAIに一発で引っかかるでしょ?」

 長谷川は階段をトントンと軽快な足取りで下りてくると、紬のすぐ目の前で足を止めた。

「はい、これ。朝からよく頑張りましたのご褒美」

 差し出されたのは、自動販売機から出てきたばかりの、熱い微糖の缶コーヒーだった。

「あ、ありがとうございます……」

 受け取ると、冷え切っていた手のひらに、じわじわと心地よい熱が広がっていく。

 長谷川は自分の分のブラックコーヒーのプルタブを、カシャリと小気味よい音を立てて開けた。

「紬ちゃん、さっきフロアでえらく真剣な顔してたからさ。昨日は、営業の佐藤さんたちに詰め寄られるわ、大河内部長には逃げられるわで、大変だろうなと思って」

 長谷川は缶を片手に、コンクリートの壁にぽんと背中を預けた。

「本当に、アベニール(AI)の判定、厳しすぎますよね。私だって、本当は佐藤さんたちの申請を通してあげたいのに、経理課の手動での解除すらできなくて……」

 紬も隣に並び、温かい缶を両手で包み込みながら、小さくため息をついた。

 缶から伝わる熱が、指先から腕へと伝わり、午前中からずっときりきりと痛んでいた胃の緊張を、優しく解きほぐしていくのが分かった。

「うん、わかる。でもさ、さっき営業部に戻ったら、鬼塚部長がアベニールの画面に向かって本気で塩撒いてたよ」

「えっ……塩ですか?」

 不意の言葉に、紬は思わず顔を上げて長谷川を見た。

「そう、お清めだってさ。パソコンの横に盛り塩までしようとして、鈴木に『精密機械なんでマジでやめてください!』って必死に止められてんの」

 長谷川が声を殺してクスクスと楽しそうに笑う。

 その笑ったときにできる目元のシワを見ていたら、紬の胸の奥をずっと塞いでいた重い塊が、すとんと落ちていくのがわかった。

「ふふっ、鬼塚部長らしいですね。営業部はいつも賑やかで、なんだかちょっと羨ましいです」

「でしょ? だからさ、紬ちゃんが一人で責任を感じる必要なんて、一ミリもないんだからね」

 長谷川は缶コーヒーをごくりと飲むと、紬の目を真っ直ぐに見つめてきた。

 いつもより少しだけ距離が近くて、彼の真っ直ぐな瞳に見つめられると、紬は思わずドキリとしてしまう。

「チャットの監視なんて、上手くすり抜ければいいだけだしさ」

 長谷川は不敵にいたずらっぽく笑うと、残ったコーヒーを一気に飲み干した。

 冷たいコンクリートの壁を背にしながらも、彼のまとう空気だけはどこまでも前向きで、力強い。

「あんな四角い画面の中のルールに、俺たちの仕事を全部決められてたまるかっての」

 長谷川は、熱い缶を両手で包み込んでいる紬の小さな手元に、そっと優しい視線を落とした。

「回らないのはアベニールとかいう冷たい機械のせい。紬ちゃんは、いつも通り優しく俺たちの書類を見てくれてれば、それだけで百点満点だから」

 悪戯っぽく、でもどこか包み込むような深い優しさを湛えた長谷川の言葉が、紬の心にじわじわと染み渡っていく。

 コンクリートの冷たい階段室のなかで、長谷川の言葉と、手の中の缶コーヒーだけが、確かに温かかった。

「……はい。ありがとうございます、長谷川さん。なんだか、急に元気が出てきました」

 紬は今度こそ、固くなっていた表情をふっと緩めて微笑んだ。実家の家族、そして目の前で笑ってくれるこの長谷川の温かさがある。

「よし、もう負けない。アベニールがどれだけ冷酷でも、私は私の仕事を全うしよう」

 温かいコーヒーを一口含み、その苦味と甘さに目を細めながら、紬は静かに前を向いていた。

 長谷川と過ごすこの短い息抜きの時間が、今の紬にとって、何よりも特別な、かけがえのない「温もり」だった。

 この人と一緒なら、明日からのオフィスもきっと乗り越えられる。紬の心に、確かな前向きな光が灯っていた。