経理課・木下紬の恋のバグ

 実家で家族の温かさに触れた翌朝、紬は少しだけ引き締まった気持ちで本社ビルの自動ドアをくぐった。

 機械に負けないように、自分の仕事を堂々とやろう。そんな小さな決意を胸に、紬は三階の管理部フロアへ向かった。

 しかし、三階の管理部フロアに一歩足を踏み入れた瞬間、昨日以上の重苦しい沈黙が紬を待ち受けていた。

 いつもならおはようと元気に飛び交うはずの声が消え、社員たちが声を潜めてパソコンの画面を睨みつけている。

 その異様な光景に、紬は一瞬で足がすくみそうになった。

「……紬ちゃん、おはよう。チャットツール、もう開いてみた?」

 隣の席の藤沢先輩が、声を極限まで落として囁いてきた。その表情はいつになく硬い。

 紬が怪訝に思いながら自分のパソコンを起動し、社内の連絡チャットを開くと、一番上に新しい通知がピン留めされていた。

『本システム(AVENIR)稼働中、社内チャットのログはすべて経営企画部において常時モニタリングされます。業務に無関係な私信、不適切な愚痴の書き込みは控えてください』

 画面に表示された室井統括部長の名前を見て、紬の背中に冷たいものが走る。

 つまり、昨日佐藤さんたちが経理のデスクに怒鳴り込んできたような「愚痴」や「不満」をチャットに書き込めば、すべて経営企画部に筒抜けになるということだ。

「これじゃ、お互いに仕事の連絡をするのも息が詰まるわね……。不用意なことは何も言えないわ」

 藤沢先輩がキーボードを叩く音すら、心なしかいつもより小さく、静かに感じられた。

 フロア全体が、目に見えない巨大な監視カメラに怯えているかのような、息苦しい空気に満ちていく。

 誰もが監視の目を恐れて貝のように黙り込むなか、紬の画面の右下で、一通のダイレクトメッセージがポップアップした。

 送信者の欄に表示されたのは、営業部の長谷川律の名前だった。

『管理部経理課・木下紬殿。先ほど申請いたしました、ライフスタイル家電部における検証用食材費の伝票番号「LF-0982」について、一部規約に抵触する恐れがあるとの警告がアベニールより通知されました』

『え……長谷川さん? なんだか、ずいぶんとお堅いビジネス敬語だけど……』

 いつもなら「木下さんおはよー!またエラー出ちゃった!」とフランクに送ってくる彼らしくない、妙に形式張った文章に紬は首を傾げた。

 メッセージにはまだ続きがあった。

『つきましては、至急データの修正方針について、第三テストキッチンのサンプル保管トレイ(棚番号:E-3)にて直接のご確認をお願いいたします。十五分後、現地にてお待ちしております。以上、業務連絡です』

 業務連絡です、という不自然な締めくくり。

 一見すると「キッチンの棚にあるサンプルを見にきてくれ」という完璧な定型文だが、紬はふっとその指定された場所に違和感を覚えた。

「棚番号、E-3……?」

 第三テストキッチンに、そんなアルファベット表記の棚は存在しないはずだ。

 そのとき、紬の脳裏に、以前長谷川が「海外旅行の予約で、非常口(Emergency)の席を取ったんだよね」と笑っていた他愛のない会話がフラッシュバックした。

 アルファベットの「E」は、非常口や非常階段を指す「Emergency」の頭文字。そして数字の「3」は――。

『「E-3」……北側非常階段の、三階……!?』

 AIのテキスト監視をかいくぐり、自分にだけ場所を伝えるための、彼なりのカモフラージュなのか。

 その長谷川の鮮やかな機転に気づいた瞬間、紬の心臓がどくんと激しく跳ね上がった。

 紬は周囲に悟られないよう、平静を装ってゆっくりと席を立った。手元が少しだけ緊張で震えるのを隠すように。

「藤沢先輩、ちょっと自動販売機まで行ってきますね」

「ええ、いってらっしゃい」

 藤沢先輩の優しい声に背中を押されながら、紬はノートを一枚小脇に抱え、書類を確認に行くフリをしてフロアの奥へと歩き出した。

 重い防火扉を開け、静まり返った薄暗い非常階段の踊り場へと一歩足を踏み入れる。

 コンクリートのひんやりとした空気の向こうから、トントン、と小刻みに床を踏む靴の音が聞こえてきた。

 胸の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響くなか、紬はゆっくりと階段を上っていった。この扉の向こうで、長谷川さんが私を待っている。