「……紬。帰ってたのか」
居間の奥から、地鳴りのような低い声が響いた。
紬が顔を上げると、そこには新聞を片手にした父・康男が立っていた。
小さな町工場で長年職人を務めている父は、少し日焼けした頑固親父風の無骨な見た目をしている。
手元を見れば、いまだにスマートフォンではなく古いガラケーを大切に使っているような不器用な男だ。
「お父さん、ただいま。今夜はちょっと仕事が遅くなっちゃって」
「そうか」
父の康男はそれだけ言うと、持っていた新聞を無造作に放り出し、紬の向かい側の席にどっかりと腰を下ろした。
恵子が「お父さんにも肉じゃが温め直すね」とバタバタと台所へ向かっていく。
康男は紬の少し潤んだ目元をじっと見つめ、大きく節くれ立った手で湯呑みをすすった。
「紬。なんか会社に、へんてこな機械が入ったんだって?」
母との会話が聞こえていたらしい。
康男の無骨な問いかけに、紬は小さく頷き、お茶の入った湯呑みを両手で包み込んだ。
「うん、AIっていう自動で計算しちゃうシステムなの。今まで私たちが人間の目で見て『これくらいなら大丈夫』って通してきた書類をさ、そのアベニールって機械は一秒でダメって弾いちゃうのよ」
紬はふぅと息を吐き、室井の冷酷な訓示や、昼間の瀬尾の冷たい顔を思い出して奥歯を噛み締めた。
毎日パソコンの画面と格闘して、営業部のみんなが頭を下げて持ってくる伝票を丁寧に処理してきた。そのすべてが否定されたような気がして、胸の奥が痛かった。
「営業の人たちもみんな困って私に直談判しにくるし、システムの人には『機械のスピードに、人間の脳を追いつかせてください』なんて冷たく言われちゃって……。なんだか、私たちがこれまでやってきた仕事が、全部無駄だったって言われたみたい……」
一気に吐き出した紬の言葉を、康男は腕を組んだまま、黙ってじっと聞いていた。
台所から、電子レンジがチーンと鳴るのどかな音が聞こえてくる。
やがて、恵子が「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」と、湯気の立つ肉じゃがの皿を食卓へ運んできてくれた。
康男は重いため息をつくと、ようやく温め直された自分の分の肉じゃがに箸を伸ばした。
「紬。機械がどれだけ賢くなろうが、そんなもんに人間が振り回されてどうする」
無骨で、飾らない、しかし重みのある声がリビングに響く。紬は顔を上げ、父の刻まれた顔のシワを見つめた。
「道具ってのはな、人間が使うためにあるんだ。どんなに便利な機械ができようが、最後に仕事を通すのは、人と人との信用だろうが」
康男は箸を止め、大きな手のひらを食卓にトントンと打ち付けた。その手は、油と金属の匂いが染みついた、長年モノづくりを支えてきた職人の手だった。
「お前がこれまで五年間、真面目にみんなの書類を見て、うっかりミスをカバーしてやってきたからこそ、周りはお前を信用してるんだ。その信用はな、パソコンの画面の中にゃ絶対に映るもんじゃない」
父はジャガイモを口に放り込み、紬の目を真っ直ぐに見据えた。
機械の出す数字がどれだけ正しくても、それを使う人間の心が通っていなければ、組織なんてただの冷たい箱になってしまう。
父の言葉には、長年現場で戦ってきた職人としての揺るぎない誇りがあった。
「冷たい機械のルールに、お前自身の心を合わせる必要はない。お前は経理のプロとして、これまで通り人間の目で、堂々と仕事をしていればいいんだ。お前が折れなきゃ、機械に負けたことにはならんぞ」
職人の頑固なこだわりと、娘を信じる温かさが詰まった、康男なりの精一杯の励ましだった。
康男の言葉が、紬の心の奥底に眠っていた芯を、もう一度カチリと呼び覚ます。
「……うん」
紬は今度こそ、心からの笑顔を浮かべて力強く頷き、肉じゃがを口に運んだ。
アベニールの計算は確かに完璧で、おそろしい。けれど、実家の家族の「不合理な温かさ」に触れた紬の心は、もう昨日までの頼りない紬ではなかった。
明日からのオフィスで、私は私の仕事を「ちゃんと」やってみせる。紬の心から、迷いは完全に消え去っていた。
居間の奥から、地鳴りのような低い声が響いた。
紬が顔を上げると、そこには新聞を片手にした父・康男が立っていた。
小さな町工場で長年職人を務めている父は、少し日焼けした頑固親父風の無骨な見た目をしている。
手元を見れば、いまだにスマートフォンではなく古いガラケーを大切に使っているような不器用な男だ。
「お父さん、ただいま。今夜はちょっと仕事が遅くなっちゃって」
「そうか」
父の康男はそれだけ言うと、持っていた新聞を無造作に放り出し、紬の向かい側の席にどっかりと腰を下ろした。
恵子が「お父さんにも肉じゃが温め直すね」とバタバタと台所へ向かっていく。
康男は紬の少し潤んだ目元をじっと見つめ、大きく節くれ立った手で湯呑みをすすった。
「紬。なんか会社に、へんてこな機械が入ったんだって?」
母との会話が聞こえていたらしい。
康男の無骨な問いかけに、紬は小さく頷き、お茶の入った湯呑みを両手で包み込んだ。
「うん、AIっていう自動で計算しちゃうシステムなの。今まで私たちが人間の目で見て『これくらいなら大丈夫』って通してきた書類をさ、そのアベニールって機械は一秒でダメって弾いちゃうのよ」
紬はふぅと息を吐き、室井の冷酷な訓示や、昼間の瀬尾の冷たい顔を思い出して奥歯を噛み締めた。
毎日パソコンの画面と格闘して、営業部のみんなが頭を下げて持ってくる伝票を丁寧に処理してきた。そのすべてが否定されたような気がして、胸の奥が痛かった。
「営業の人たちもみんな困って私に直談判しにくるし、システムの人には『機械のスピードに、人間の脳を追いつかせてください』なんて冷たく言われちゃって……。なんだか、私たちがこれまでやってきた仕事が、全部無駄だったって言われたみたい……」
一気に吐き出した紬の言葉を、康男は腕を組んだまま、黙ってじっと聞いていた。
台所から、電子レンジがチーンと鳴るのどかな音が聞こえてくる。
やがて、恵子が「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」と、湯気の立つ肉じゃがの皿を食卓へ運んできてくれた。
康男は重いため息をつくと、ようやく温め直された自分の分の肉じゃがに箸を伸ばした。
「紬。機械がどれだけ賢くなろうが、そんなもんに人間が振り回されてどうする」
無骨で、飾らない、しかし重みのある声がリビングに響く。紬は顔を上げ、父の刻まれた顔のシワを見つめた。
「道具ってのはな、人間が使うためにあるんだ。どんなに便利な機械ができようが、最後に仕事を通すのは、人と人との信用だろうが」
康男は箸を止め、大きな手のひらを食卓にトントンと打ち付けた。その手は、油と金属の匂いが染みついた、長年モノづくりを支えてきた職人の手だった。
「お前がこれまで五年間、真面目にみんなの書類を見て、うっかりミスをカバーしてやってきたからこそ、周りはお前を信用してるんだ。その信用はな、パソコンの画面の中にゃ絶対に映るもんじゃない」
父はジャガイモを口に放り込み、紬の目を真っ直ぐに見据えた。
機械の出す数字がどれだけ正しくても、それを使う人間の心が通っていなければ、組織なんてただの冷たい箱になってしまう。
父の言葉には、長年現場で戦ってきた職人としての揺るぎない誇りがあった。
「冷たい機械のルールに、お前自身の心を合わせる必要はない。お前は経理のプロとして、これまで通り人間の目で、堂々と仕事をしていればいいんだ。お前が折れなきゃ、機械に負けたことにはならんぞ」
職人の頑固なこだわりと、娘を信じる温かさが詰まった、康男なりの精一杯の励ましだった。
康男の言葉が、紬の心の奥底に眠っていた芯を、もう一度カチリと呼び覚ます。
「……うん」
紬は今度こそ、心からの笑顔を浮かべて力強く頷き、肉じゃがを口に運んだ。
アベニールの計算は確かに完璧で、おそろしい。けれど、実家の家族の「不合理な温かさ」に触れた紬の心は、もう昨日までの頼りない紬ではなかった。
明日からのオフィスで、私は私の仕事を「ちゃんと」やってみせる。紬の心から、迷いは完全に消え去っていた。
