経理課・木下紬の恋のバグ

 いつもよりずっと重い足取りで三鷹駅のホームに降り立ったときには、夜の八時をとうに過ぎていた。

 改札を抜けて見慣れた夜道を歩いていても、紬の頭の中にあったのは、あの真っ赤なアベニールのエラー画面と、瀬尾の「非常に迷惑です」という冷徹な声だった。

 それらがまるで消えない耳鳴りのように、頭の中で何度も繰り返されていた。

 一日中、営業部とシステムの板挟みになってすっかり擦り切れてしまった心は、五月の生ぬるい夜風に吹かれても、一向に軽くなる気配はなかった。

 自分の居場所がどこにもないような心細さを抱えながら、紬は逃げ込むようにして実家の門をくぐった。

「ただいま……」

 鍵を開けて実家の玄関に入ると、聞き慣れたテレビの音とともに、出迎えてくれたのはどこか懐かしい出汁の匂いだった。

「あら、紬、おかえりなさい! 今夜は随分と遅かったじゃない。連絡がないから心配したわよ」

 エプロン姿の母・恵子が、リビングからパタパタと小走りで顔を出した。

 いつもと変わらない、少しお節介で、太陽のように明るい笑顔。

「うん……」

「ちょうど良かったわ。今夜はね、紬の大好物の肉じゃがよ。さ、早く荷物を置いて手を洗っていらっしゃい。今すぐ温め直すからね」

 リビングの食卓に向かうと、そこには湯気を立てる大皿の肉じゃがが鎮座していた。

 しっかりと味が染みて黄金色になったジャガイモ、柔らかそうな豚肉、ツヤツヤとした玉ねぎが食欲をそそる。

 一口食べると、じんわりと甘い醤油の味が口いっぱいに広がり、ホクホクとしたジャガイモが舌の上で優しく解けていく。

 それは、どんな高級レストランでも再現できない、母の「長年の勘」だけが生み出せる味だった。

「美味しい……すごく美味しい、お母さん」

「そうでしょう? 今夜はね、ちょっとお醤油を多めにして、みりんの代わりに隠し味でハチミツを少しだけ入れてみたのよ。お父さんの仕事が最近忙しそうだったから、ちょっと濃いめの甘口にしてみたんだけど、紬にもぴったりだったみたいね」

 恵子は嬉しそうに目を細めながら、紬の茶碗に炊きたての温かい白米を山盛りによそってくれた。

 ハチミツを少しだけ。お父さんの体調に合わせて、いつもの味をほんの少し変える。

 そんな小さな気遣いに、紬はいつも感心させられる。

 アベニールなら、きっと「標準的なレシピ」から外れた不合理な変更として処理するのだろう。

 けれど、母にとっては、それが家族を想うための当たり前の工夫だった。

「……うん。本当に美味しい」

 噛み締めるたびに、一日中オフィスでピリピリと折り重なるように張り詰めていた紬の肩の力が、解けていくのがわかった。

 冷たいシステムに支配され、人間らしさを否定されてボロボロになっていた心が、母の愛おしい手料理によって、ゆっくりと底の方から救われていく。

「どうしたの、紬? なんだか元気がないみたいだけど、会社で何かあった?」

 母が心配そうに顔を覗き込んできた。

 いつもなら「なんでもないよ」と笑って誤魔化すはずの紬だったが、今夜は母の優しい眼差しの前で、どうしても強がることができなかった。

「ううん……ちょっとね、会社に新しいAIのシステムが入って、今までのやり方が全部ダメって言われちゃってさ。みんな困ってるのに、システムの人には『人間の脳を追いつかせてください』なんて冷たく言われちゃって……」

 そこまで一気に吐き出すと、紬は温かいお茶を飲み干した。

 母はそれ以上深くは追求せず、ただ「そう、大変だったわねぇ」と優しく微笑みながら、紬の背中をそっと大きな手のひらでさすってくれた。

「会社のことなんて私にはよくわからないけれど、機械がどれだけ正しくても、これまで紬が一生懸命みんなのミスをカバーしたり、優しく助けてきたりしたことのほうが、ずっと大事に決まってるじゃない。紬は何も間違ってないわよ。さ、たくさん食べて元気出しなさい」

 その言葉と、背中を労う手のひらのじんわりとした温もりに、紬の心はすっかり満たされていた。

 オフィスでの孤独な戦いは明日も続く。けれど、この温かい食卓がある限り、自分はまだ戦える。

 実家の不合理な優しさに包まれながら、紬は明日への小さな一歩を踏み出す勇気を、確かに取り戻していた。