六つ目の願いの日、俺と彩乃は摩耶山へ向かった。駅から摩耶ケーブルの乗り場へ歩いていく途中、彩乃は何度も山の上を見上げていた。摩耶ケーブルは、摩耶山の麓から山上へ向かうケーブルカーで、急な斜面を車体ごとゆっくり登っていく。俺にとっては神戸の山へ行くための乗り物という程度の認識だったが、彩乃は乗り場に着いた瞬間から楽しそうにしている。改札を抜けて車内へ入り、窓際の席に並んで座ると、発車を知らせる音が聞こえた。
「楽しそうやな」
「だって、ケーブルカーって乗ったことないんだもん」
「そうなん?」
「うん。こういうの、住んでた場所にはなかったから」
「じゃあ、今日は俺より詳しくなるかもしれんな」
「陽介は乗ったことあるの?」
「小学生の頃にな。家族で一回だけやけど」
「じゃあ、案内してよ」
「案内って言われても、俺もそんな覚えてへんで」
彩乃が笑ったところで、車体がゆっくり動き始める。最初は目の前に建物や木々が見えていたが、坂を上るにつれて視界が少しずつ開いていく。窓の向こうでは住宅街が下へ遠ざかり、その先に神戸の街が広がっていた。俺は小学生の頃に見た景色を思い出そうとしたが、記憶に残っているのは家族と並んで座っていたことくらいだった。そんな俺の隣では、彩乃が窓へ顔を近づけるようにして街を眺めている。スマートフォンを取り出して写真を撮る姿を見ながら、俺はまた彼女が一つの景色を記憶に残そうとしているのだと思った。
「見て、陽介。海が見えてきた」
「ほんまやな」
「すごい。さっきまであんなに近くにあった建物が、もう小さく見える」
「上から見ると、神戸って細長い街やろ」
「山と海の間に街があるんだね」
「そうやで。俺はずっと見とるから、あんまり考えたことなかったけどな」
「私は好きだな。この景色」
彩乃は窓の外を見たまま、そう言った。俺は返事をしながら、同じ景色へ視線を戻した。山の斜面から見下ろす神戸は、普段歩いている道路から見る街とはまるで違っている。建物が重なり、その向こうに海が広がり、さらに遠くまで街が続いている。俺にとっては生まれ育った場所を上から眺めているだけなのに、彩乃にとっては卒業したあとに簡単には見られなくなる景色なのだ。そう思った瞬間、俺は写真を撮る彩乃の指先まで気になってしまった。何枚撮っても足りないのではないかと思うほど、彼女は窓の外から目を離さなかった。
ケーブルカーが山を登るにつれて、彩乃は高校一年生だった頃の話を始めた。東北から神戸へ引っ越してきたばかりの春、最初に見た神戸の街は、彼女にとってただの新しい生活場所だったという。父親の転勤が決まれば家族で引っ越し、学校が変われば新しい教室へ入り、知らない街を覚える。それまで何度も繰り返してきたことだから、神戸へ来たときも特別な期待は持っていなかったらしい。
俺はそんな話を聞きながら、彩乃と初めて同じクラスになった日のことを思い出していた。俺にとっては新しいクラスに転校生が一人増えたくらいの出来事だったのに、彩乃にとっては何度目かの『新しい街での生活』の始まりだったのだ。
「最初は、神戸も同じだと思ってた」
「今まで住んどった街と?」
「うん。ここで友達ができても、学校に慣れても、いつかは離れるんだろうなって」
「そんなこと考えながら高校生活送っとったん?」
「最初はね。でも、陽介と一緒にいるようになってから、少しずつ変わった」
「俺と?」
「うん。放課後に長田を歩いたり、商店街でご飯を食べたり、何でもない話をしたりしたでしょ?」
「したな」
「そういう時間が増えるたびに、神戸のいろんな場所が好きになっていったの」
彩乃の声は穏やかだった。窓の外では街がさらに遠ざかり、道路を走る車が小さく見えている。俺はその景色を眺めながら、彩乃がこれまで叶えてきた願いを思い返す。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨も、どれも特別な観光地だけを選んでいるわけではない。俺と一緒に過ごした場所だからこそ、彩乃はそこへ行きたいと思ったのだ。そう考えると、十個の願いが単なる思い出作りではないことが、少しずつ分かってくる。
「じゃあ、摩耶山も俺と来たかったん?」
「うん」
「景色を見るためだけやなくて?」
「それもあるよ」
「それも?」
彩乃は少しだけ笑って、窓の外へ視線を戻した。
「ここからなら、今まで行った場所を全部見られる気がするから」
俺はその言葉に何も返せなかった。長田の街も、その先にある神戸の中心部も、海沿いの景色も、今まで二人で歩いた場所も、この山の上からなら一つの景色として見渡せる。彩乃はそれを知っていたから、六つ目の願いに摩耶山を選んだのだろう。ケーブルカーはゆっくりと山を登り続け、窓の向こうの神戸はさらに大きな一枚の景色へ変わっていった。
山上に着いてから、俺たちは展望できる場所まで歩いた。高い場所から見下ろす神戸の街には、今まで一緒に過ごした時間が全部詰まっているように思える。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨の海も、どこにあるのか正確には分からなくても、この街のどこかにある。
彩乃は柵の近くに立ち、海と街を眺めながら何度も写真を撮っていた。俺はその横顔を見つめていたが、ふと、卒業後のことを考えてしまう。俺は神戸に残る。彩乃は神戸を離れる。今は同じ景色を見ているのに、その未来だけは二人で共有できない。
「陽介」
「ん?」
「三年前は、こんなところから神戸を見るなんて思ってなかった」
「俺もや」
「本当に?」
「ほんまや。小学生のときに一回乗っただけやからな」
「じゃあ、今日は二回目?」
「そうなるな」
「じゃあ、二回目は私と一緒だね」
「……そうやな」
彩乃は嬉しそうに笑った。俺はその笑顔を見ながら、今日のこともきっと彼女の中に残るのだと思った。だったら俺も忘れたくない。山の上から見た景色だけではなく、彩乃が隣で笑っていたことも、この場所で交わした言葉も、全部覚えておきたいと思った。これまで俺は、彩乃のために願いを叶えているつもりだった。でも今は、自分自身も同じ時間を大切にしたいと感じている。彩乃が神戸を離れたあと、この景色を一人で見る日が来るかもしれない。そのとき俺は、今日のことを思い出すのだろう。そう考えると、胸の奥に寂しさが広がっていった。
「ねぇ、陽介」
「なんや?」
「神戸って、やっぱりいい街だね」
「今さら気づいたんか?」
「うん。三年かかった」
「遅すぎやろ」
「だって、最初は好きにならないつもりだったから」
「……そっか」
「でも、もう無理みたい」
彩乃はそう言って、海の向こうを見つめる。俺には、その言葉の意味が分かる気がした。好きにならないつもりだった街を好きになり、離れたくないと思うほど大切な場所に変わった。それは、彩乃にとって初めてのことなのだろう。だからこそ、卒業が近づくほど辛くなる。
俺は隣に立つ彩乃と同じ方向を見た。山の上から見る神戸は、いつも歩いている街よりずっと広く感じられる。それなのに、俺にはその街の中から彩乃がいなくなる未来だけが、妙にはっきり見えてしまった。残された願いは、あと四つ。ノートの空白は少しずつ埋まっていく。それは思い出が増えることでもあるが、同時に卒業の日へ近づいているということでもある。
「彩乃」
「なに?」
「あと四つもあるんやろ?」
「うん」
「なら、全部行こうや」
「もちろん」
「最後まで、俺も一緒におるから」
彩乃は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「……ありがとう、陽介」
俺たちはもう一度、神戸の街を見下ろす。山と海に挟まれた街の中には、今まで二人で過ごした時間がいくつも残っている。俺はその景色を眺めながら、彩乃との残された時間が思っていたよりずっと短いことを、痛烈に感じていた。
「楽しそうやな」
「だって、ケーブルカーって乗ったことないんだもん」
「そうなん?」
「うん。こういうの、住んでた場所にはなかったから」
「じゃあ、今日は俺より詳しくなるかもしれんな」
「陽介は乗ったことあるの?」
「小学生の頃にな。家族で一回だけやけど」
「じゃあ、案内してよ」
「案内って言われても、俺もそんな覚えてへんで」
彩乃が笑ったところで、車体がゆっくり動き始める。最初は目の前に建物や木々が見えていたが、坂を上るにつれて視界が少しずつ開いていく。窓の向こうでは住宅街が下へ遠ざかり、その先に神戸の街が広がっていた。俺は小学生の頃に見た景色を思い出そうとしたが、記憶に残っているのは家族と並んで座っていたことくらいだった。そんな俺の隣では、彩乃が窓へ顔を近づけるようにして街を眺めている。スマートフォンを取り出して写真を撮る姿を見ながら、俺はまた彼女が一つの景色を記憶に残そうとしているのだと思った。
「見て、陽介。海が見えてきた」
「ほんまやな」
「すごい。さっきまであんなに近くにあった建物が、もう小さく見える」
「上から見ると、神戸って細長い街やろ」
「山と海の間に街があるんだね」
「そうやで。俺はずっと見とるから、あんまり考えたことなかったけどな」
「私は好きだな。この景色」
彩乃は窓の外を見たまま、そう言った。俺は返事をしながら、同じ景色へ視線を戻した。山の斜面から見下ろす神戸は、普段歩いている道路から見る街とはまるで違っている。建物が重なり、その向こうに海が広がり、さらに遠くまで街が続いている。俺にとっては生まれ育った場所を上から眺めているだけなのに、彩乃にとっては卒業したあとに簡単には見られなくなる景色なのだ。そう思った瞬間、俺は写真を撮る彩乃の指先まで気になってしまった。何枚撮っても足りないのではないかと思うほど、彼女は窓の外から目を離さなかった。
ケーブルカーが山を登るにつれて、彩乃は高校一年生だった頃の話を始めた。東北から神戸へ引っ越してきたばかりの春、最初に見た神戸の街は、彼女にとってただの新しい生活場所だったという。父親の転勤が決まれば家族で引っ越し、学校が変われば新しい教室へ入り、知らない街を覚える。それまで何度も繰り返してきたことだから、神戸へ来たときも特別な期待は持っていなかったらしい。
俺はそんな話を聞きながら、彩乃と初めて同じクラスになった日のことを思い出していた。俺にとっては新しいクラスに転校生が一人増えたくらいの出来事だったのに、彩乃にとっては何度目かの『新しい街での生活』の始まりだったのだ。
「最初は、神戸も同じだと思ってた」
「今まで住んどった街と?」
「うん。ここで友達ができても、学校に慣れても、いつかは離れるんだろうなって」
「そんなこと考えながら高校生活送っとったん?」
「最初はね。でも、陽介と一緒にいるようになってから、少しずつ変わった」
「俺と?」
「うん。放課後に長田を歩いたり、商店街でご飯を食べたり、何でもない話をしたりしたでしょ?」
「したな」
「そういう時間が増えるたびに、神戸のいろんな場所が好きになっていったの」
彩乃の声は穏やかだった。窓の外では街がさらに遠ざかり、道路を走る車が小さく見えている。俺はその景色を眺めながら、彩乃がこれまで叶えてきた願いを思い返す。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨も、どれも特別な観光地だけを選んでいるわけではない。俺と一緒に過ごした場所だからこそ、彩乃はそこへ行きたいと思ったのだ。そう考えると、十個の願いが単なる思い出作りではないことが、少しずつ分かってくる。
「じゃあ、摩耶山も俺と来たかったん?」
「うん」
「景色を見るためだけやなくて?」
「それもあるよ」
「それも?」
彩乃は少しだけ笑って、窓の外へ視線を戻した。
「ここからなら、今まで行った場所を全部見られる気がするから」
俺はその言葉に何も返せなかった。長田の街も、その先にある神戸の中心部も、海沿いの景色も、今まで二人で歩いた場所も、この山の上からなら一つの景色として見渡せる。彩乃はそれを知っていたから、六つ目の願いに摩耶山を選んだのだろう。ケーブルカーはゆっくりと山を登り続け、窓の向こうの神戸はさらに大きな一枚の景色へ変わっていった。
山上に着いてから、俺たちは展望できる場所まで歩いた。高い場所から見下ろす神戸の街には、今まで一緒に過ごした時間が全部詰まっているように思える。長田の商店街も、モトコーも、新開地も、須磨の海も、どこにあるのか正確には分からなくても、この街のどこかにある。
彩乃は柵の近くに立ち、海と街を眺めながら何度も写真を撮っていた。俺はその横顔を見つめていたが、ふと、卒業後のことを考えてしまう。俺は神戸に残る。彩乃は神戸を離れる。今は同じ景色を見ているのに、その未来だけは二人で共有できない。
「陽介」
「ん?」
「三年前は、こんなところから神戸を見るなんて思ってなかった」
「俺もや」
「本当に?」
「ほんまや。小学生のときに一回乗っただけやからな」
「じゃあ、今日は二回目?」
「そうなるな」
「じゃあ、二回目は私と一緒だね」
「……そうやな」
彩乃は嬉しそうに笑った。俺はその笑顔を見ながら、今日のこともきっと彼女の中に残るのだと思った。だったら俺も忘れたくない。山の上から見た景色だけではなく、彩乃が隣で笑っていたことも、この場所で交わした言葉も、全部覚えておきたいと思った。これまで俺は、彩乃のために願いを叶えているつもりだった。でも今は、自分自身も同じ時間を大切にしたいと感じている。彩乃が神戸を離れたあと、この景色を一人で見る日が来るかもしれない。そのとき俺は、今日のことを思い出すのだろう。そう考えると、胸の奥に寂しさが広がっていった。
「ねぇ、陽介」
「なんや?」
「神戸って、やっぱりいい街だね」
「今さら気づいたんか?」
「うん。三年かかった」
「遅すぎやろ」
「だって、最初は好きにならないつもりだったから」
「……そっか」
「でも、もう無理みたい」
彩乃はそう言って、海の向こうを見つめる。俺には、その言葉の意味が分かる気がした。好きにならないつもりだった街を好きになり、離れたくないと思うほど大切な場所に変わった。それは、彩乃にとって初めてのことなのだろう。だからこそ、卒業が近づくほど辛くなる。
俺は隣に立つ彩乃と同じ方向を見た。山の上から見る神戸は、いつも歩いている街よりずっと広く感じられる。それなのに、俺にはその街の中から彩乃がいなくなる未来だけが、妙にはっきり見えてしまった。残された願いは、あと四つ。ノートの空白は少しずつ埋まっていく。それは思い出が増えることでもあるが、同時に卒業の日へ近づいているということでもある。
「彩乃」
「なに?」
「あと四つもあるんやろ?」
「うん」
「なら、全部行こうや」
「もちろん」
「最後まで、俺も一緒におるから」
彩乃は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「……ありがとう、陽介」
俺たちはもう一度、神戸の街を見下ろす。山と海に挟まれた街の中には、今まで二人で過ごした時間がいくつも残っている。俺はその景色を眺めながら、彩乃との残された時間が思っていたよりずっと短いことを、痛烈に感じていた。



