四つ目の願いの日、俺と彩乃は須磨にいた。駅を出ると、潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、目の前には長田とは違う開けた空が広がっている。海沿いを歩きながら、彩乃は何度も足を止めては、波や遠くの街並みにスマートフォンを向けていた。俺にとって須磨は、神戸に住んでいれば、最低でも一度くらいは遊びに来る場所でしかない。それでも、隣で嬉しそうに写真を撮っている彩乃を見ていると、見慣れた神戸の景色が少し特別に思えてくる。
「陽介、海ってやっぱりいいね」
「そうかなぁ? 俺は山のほうが好きやけどな」
「長田生まれなのに?」
「長田生まれやから山なんや。坂道ばっかりやし」
「それ、理由になってないよ」
「細かいこと言うなや」
「アハッ。でも、今日ここに来られてよかった」
彩乃はそう言って海を振り返る。その笑顔を見ていると、俺もつられて笑ってしまう。しばらく海を眺めたあと、俺たちは須磨浦山上遊園へ向かうことにした。ロープウェイで山上へ上がると、さらに高い場所へ続く乗り物が目に入る。二人乗りの小さなカゴのような車体が、斜面に敷かれたレールの上をゆっくり進んでいる。俺はそれを見た瞬間、小学生の頃の記憶を思い出した。親に連れられてここへ来たとき、俺もあのカーレーターに乗ったことがある。
「これがカーレーター?」
「そうや。俺、小学生のとき乗ったで」
「えっ、本当に?」
「ほんまやって。親父に連れてきてもろてな」
「じゃあ、今日は二回目なんだ」
「いや、何度か乗ったことあるで。でも、何年ぶりやろ」
カーレーターは、ロープウェイの山上駅と園内の山頂を結ぶ、全国でもここにしかない珍しい乗り物である。二人乗りのカゴのような車体に乗り込み、斜面をゆっくり進んでいく。その見た目だけなら、普通の山の乗り物に思える。しかし、この乗り物には有名な特徴がある。公式にも『乗り心地の悪さ』が魅力として紹介されているほど、ゴトゴトと激しく揺れるのだ。
昭和四十一年に運行が始まった乗り物で、今も昔の雰囲気を残しているらしい。俺が小学生の頃に乗ったときも、座席が上下に揺れるたびに笑っていた覚えがある。
「じゃあ、乗ってみようよ」
「ええけど、覚悟しといたほうがええで」
「そんなに?」
「小学生の俺でも覚えとるくらいやからな」
「怖いの?」
「怖いっちゅうより……」
俺が言い終わる前に、カーレーターがゴトッと大きく揺れた。彩乃が目を丸くして、俺の腕をつかむ。
「うわっ!」
「ほらな」
「ちょっと待って、今の何?」
「それがカーレーターや」
「まだ動き始めたばっかりだよね?」
「そうやで」
「……大丈夫かな、私」
「たぶん、大丈夫や」
俺たちは二人乗りのカゴに並んで腰を下ろした。カーレーターが動き始めると、ゆっくりと斜面を上っていく。速度そのものは速くない。全長九十一メートルの区間を約二分二十秒かけて進む乗り物で、問題なのは速さではなく、その途中で伝わってくる独特の振動なのだ。車体がゴトゴトと揺れるたびに、座席から身体が跳ねるような感覚が伝わってくる。俺は思わず笑ってしまった。小学生の頃も同じだった。あのときは両親と一緒に騒ぎながら乗っていたが、今は隣に彩乃がいる。
「陽介!」
「なんや?」
「これ、想像してたよりすごい!」
「そうやろ?」
「全然進まないのに、めちゃくちゃ揺れる!」
「それが売りみたいやで」
「こんなの初めて!」
「俺は小学生のときに初めて乗ったけど、今でも覚えとったわ」
「よくこんなのに乗って笑ってたね」
「子供やったからな」
また大きく車体が揺れ、彩乃の身体が少しこちらへ寄った。二人とも思わず顔を見合わせ、それから同時に笑う。怖いというより、あまりにも予想外の揺れ方がおかしかった。カーレーターは二十五度の斜面をゆっくり上っていくため、進むたびに眼下の景色が少しずつ変わっていく。揺れに気を取られていた彩乃も、ふと海へ目を向けた。
「陽介、見て」
「海か?」
「うん。さっきより高くなってる」
「ほんまやな」
「こういう景色、好きだな」
「俺も、小学生のとき見た気がするわ」
「覚えてる?」
「全部やないけどな。海が見えて、めっちゃ揺れて、親父に笑われたんは覚えとる」
「じゃあ、今日のことも覚えてる?」
「……たぶんな」
「絶対?」
「絶対や」
彩乃は満足そうに笑う。その表情を見ていると、俺はさっきまでとは違うことを考えてしまう。俺にとって今日のカーレーターは、昔の記憶を思い出す場所だった。小学生の頃に乗った自分と、今ここで彩乃と乗っている自分が、同じ景色の中で重なっている。でも彩乃にとっては、この一度が神戸で過ごした時間の一つになる。だから、俺よりもずっと真剣に景色を見ているのかもしれない。
「ねぇねぇ、陽介」
「ん?」
「私ね、今まで何回も引っ越してきたでしょ」
「うん」
「新しい街へ行くたびに、その街のことを覚えるようにしてたの」
「学校までの道とか?」
「そう。近所のお店とか、駅とか、友達と行った場所とか」
「そら大変やな」
「でも、いつも思ってた。どうせまた離れるんだろうなって」
彩乃の声が少しだけ小さくなる。俺は何も言わず、隣に座ったまま海へ目を向けた。俺には”離れる”ということが、こんなに身近なものではない。長田で生まれ、これからも神戸で働く。住む場所が変わる未来なんて、今の俺には考えたことすらなかった。
「だから、好きになりすぎないようにしてたんだ」
「……街を?」
「うん」
「なんで?」
「離れるとき、つらくなるから」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ重くなってしまう。俺はこれまで、彩乃が神戸の景色を一つずつ写真に残す理由を、単純に思い出を作りたいからだと思っていた。でも違う。彩乃は、いつか失うかもしれないものを、失う前に自分の中へ残そうとしているのだろう。
「でも、神戸は無理だった」
「何が?」
「好きにならないようにするの」
「……なんでや?」
「陽介がいたから」
俺は返事ができなかった。カーレーターは相変わらずゴトゴトと揺れているのに、その瞬間だけ音が遠くなったように感じた。彩乃は少し恥ずかしそうに前を向いている。
「長田も、モトコーも、新開地も、須磨も好き」
「そうか」
「でも、そこで陽介と一緒に過ごした時間が、一番大切」
「……そんなん、急に言うなや!」
「どうして?」
「恥ずかしいやろ」
「陽介でも恥ずかしいんだ」
「俺でも恥ずかしいわ!」
彩乃が笑い、俺も笑った。ゴトゴトと揺れるカーレーターの中で、俺たちはしばらく何も言わずに海を眺めた。小学生の頃の俺は、この乗り物の揺れを面白がっていただけだった。今の俺は、隣にいる彩乃がこの景色をいつまで見られるのかを考えている。同じ場所なのに、見えているものがまるで違う。そのことが、少し寂しかった。
やがて山上に着き、俺たちはカーレーターを降りる。振り返ると、さっきまでいた場所が小さく見える。彩乃は海を眺めながら、ノートを鞄から取り出した。そこにはこれまで叶えてきた願いが並んでいる。そして、その先にはまだ空白のページが残っている。俺はその空白を見ながら、また十個目の願いのことを考える。彩乃がここまでして神戸の思い出を残そうとしている理由を知れば知るほど、最後の願いを聞くのが怖くなっていく。俺はその気持ちを隠すように、海の向こうを見ながら笑った。
「次はどこ行くんや?」
「まだ内緒」
「またそれか」
「だって、楽しみは残しておきたいでしょ」
「……そうやな」
彩乃がノートを閉じる。俺もそれ以上は聞かなかった。今はまだ、隣にいる。それだけで十分だと思った。そう思いながらも、卒業までの時間が少しずつ減っていることだけは、以前よりハッキリと感じていた。
「陽介、海ってやっぱりいいね」
「そうかなぁ? 俺は山のほうが好きやけどな」
「長田生まれなのに?」
「長田生まれやから山なんや。坂道ばっかりやし」
「それ、理由になってないよ」
「細かいこと言うなや」
「アハッ。でも、今日ここに来られてよかった」
彩乃はそう言って海を振り返る。その笑顔を見ていると、俺もつられて笑ってしまう。しばらく海を眺めたあと、俺たちは須磨浦山上遊園へ向かうことにした。ロープウェイで山上へ上がると、さらに高い場所へ続く乗り物が目に入る。二人乗りの小さなカゴのような車体が、斜面に敷かれたレールの上をゆっくり進んでいる。俺はそれを見た瞬間、小学生の頃の記憶を思い出した。親に連れられてここへ来たとき、俺もあのカーレーターに乗ったことがある。
「これがカーレーター?」
「そうや。俺、小学生のとき乗ったで」
「えっ、本当に?」
「ほんまやって。親父に連れてきてもろてな」
「じゃあ、今日は二回目なんだ」
「いや、何度か乗ったことあるで。でも、何年ぶりやろ」
カーレーターは、ロープウェイの山上駅と園内の山頂を結ぶ、全国でもここにしかない珍しい乗り物である。二人乗りのカゴのような車体に乗り込み、斜面をゆっくり進んでいく。その見た目だけなら、普通の山の乗り物に思える。しかし、この乗り物には有名な特徴がある。公式にも『乗り心地の悪さ』が魅力として紹介されているほど、ゴトゴトと激しく揺れるのだ。
昭和四十一年に運行が始まった乗り物で、今も昔の雰囲気を残しているらしい。俺が小学生の頃に乗ったときも、座席が上下に揺れるたびに笑っていた覚えがある。
「じゃあ、乗ってみようよ」
「ええけど、覚悟しといたほうがええで」
「そんなに?」
「小学生の俺でも覚えとるくらいやからな」
「怖いの?」
「怖いっちゅうより……」
俺が言い終わる前に、カーレーターがゴトッと大きく揺れた。彩乃が目を丸くして、俺の腕をつかむ。
「うわっ!」
「ほらな」
「ちょっと待って、今の何?」
「それがカーレーターや」
「まだ動き始めたばっかりだよね?」
「そうやで」
「……大丈夫かな、私」
「たぶん、大丈夫や」
俺たちは二人乗りのカゴに並んで腰を下ろした。カーレーターが動き始めると、ゆっくりと斜面を上っていく。速度そのものは速くない。全長九十一メートルの区間を約二分二十秒かけて進む乗り物で、問題なのは速さではなく、その途中で伝わってくる独特の振動なのだ。車体がゴトゴトと揺れるたびに、座席から身体が跳ねるような感覚が伝わってくる。俺は思わず笑ってしまった。小学生の頃も同じだった。あのときは両親と一緒に騒ぎながら乗っていたが、今は隣に彩乃がいる。
「陽介!」
「なんや?」
「これ、想像してたよりすごい!」
「そうやろ?」
「全然進まないのに、めちゃくちゃ揺れる!」
「それが売りみたいやで」
「こんなの初めて!」
「俺は小学生のときに初めて乗ったけど、今でも覚えとったわ」
「よくこんなのに乗って笑ってたね」
「子供やったからな」
また大きく車体が揺れ、彩乃の身体が少しこちらへ寄った。二人とも思わず顔を見合わせ、それから同時に笑う。怖いというより、あまりにも予想外の揺れ方がおかしかった。カーレーターは二十五度の斜面をゆっくり上っていくため、進むたびに眼下の景色が少しずつ変わっていく。揺れに気を取られていた彩乃も、ふと海へ目を向けた。
「陽介、見て」
「海か?」
「うん。さっきより高くなってる」
「ほんまやな」
「こういう景色、好きだな」
「俺も、小学生のとき見た気がするわ」
「覚えてる?」
「全部やないけどな。海が見えて、めっちゃ揺れて、親父に笑われたんは覚えとる」
「じゃあ、今日のことも覚えてる?」
「……たぶんな」
「絶対?」
「絶対や」
彩乃は満足そうに笑う。その表情を見ていると、俺はさっきまでとは違うことを考えてしまう。俺にとって今日のカーレーターは、昔の記憶を思い出す場所だった。小学生の頃に乗った自分と、今ここで彩乃と乗っている自分が、同じ景色の中で重なっている。でも彩乃にとっては、この一度が神戸で過ごした時間の一つになる。だから、俺よりもずっと真剣に景色を見ているのかもしれない。
「ねぇねぇ、陽介」
「ん?」
「私ね、今まで何回も引っ越してきたでしょ」
「うん」
「新しい街へ行くたびに、その街のことを覚えるようにしてたの」
「学校までの道とか?」
「そう。近所のお店とか、駅とか、友達と行った場所とか」
「そら大変やな」
「でも、いつも思ってた。どうせまた離れるんだろうなって」
彩乃の声が少しだけ小さくなる。俺は何も言わず、隣に座ったまま海へ目を向けた。俺には”離れる”ということが、こんなに身近なものではない。長田で生まれ、これからも神戸で働く。住む場所が変わる未来なんて、今の俺には考えたことすらなかった。
「だから、好きになりすぎないようにしてたんだ」
「……街を?」
「うん」
「なんで?」
「離れるとき、つらくなるから」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ重くなってしまう。俺はこれまで、彩乃が神戸の景色を一つずつ写真に残す理由を、単純に思い出を作りたいからだと思っていた。でも違う。彩乃は、いつか失うかもしれないものを、失う前に自分の中へ残そうとしているのだろう。
「でも、神戸は無理だった」
「何が?」
「好きにならないようにするの」
「……なんでや?」
「陽介がいたから」
俺は返事ができなかった。カーレーターは相変わらずゴトゴトと揺れているのに、その瞬間だけ音が遠くなったように感じた。彩乃は少し恥ずかしそうに前を向いている。
「長田も、モトコーも、新開地も、須磨も好き」
「そうか」
「でも、そこで陽介と一緒に過ごした時間が、一番大切」
「……そんなん、急に言うなや!」
「どうして?」
「恥ずかしいやろ」
「陽介でも恥ずかしいんだ」
「俺でも恥ずかしいわ!」
彩乃が笑い、俺も笑った。ゴトゴトと揺れるカーレーターの中で、俺たちはしばらく何も言わずに海を眺めた。小学生の頃の俺は、この乗り物の揺れを面白がっていただけだった。今の俺は、隣にいる彩乃がこの景色をいつまで見られるのかを考えている。同じ場所なのに、見えているものがまるで違う。そのことが、少し寂しかった。
やがて山上に着き、俺たちはカーレーターを降りる。振り返ると、さっきまでいた場所が小さく見える。彩乃は海を眺めながら、ノートを鞄から取り出した。そこにはこれまで叶えてきた願いが並んでいる。そして、その先にはまだ空白のページが残っている。俺はその空白を見ながら、また十個目の願いのことを考える。彩乃がここまでして神戸の思い出を残そうとしている理由を知れば知るほど、最後の願いを聞くのが怖くなっていく。俺はその気持ちを隠すように、海の向こうを見ながら笑った。
「次はどこ行くんや?」
「まだ内緒」
「またそれか」
「だって、楽しみは残しておきたいでしょ」
「……そうやな」
彩乃がノートを閉じる。俺もそれ以上は聞かなかった。今はまだ、隣にいる。それだけで十分だと思った。そう思いながらも、卒業までの時間が少しずつ減っていることだけは、以前よりハッキリと感じていた。



