「あの、……っ」
部活の時間。
わたしは先輩のもとへ直行した。
「なに?」
いつも通り優しい、のはずの、先輩の声。
なのになぜか、とても冷たく聞こえる。
「ちょっと、話、いいですか……?」
「いいよ。どこで話す?」
「……じゃあ、部室前の廊下でお願いします」
先輩とふたりきり。
場所とシチュエーションはちがえど、その事実は変わらないのに。
いまわたしの心は、まったく浮ついていない。むしろすごく冷静だ。
いまなら、どんなことでも言えそうな気がした。
「――先輩。先輩が吹奏楽部の人と付き合ったって噂、ほんとうなんですか?」
先輩が息を呑み、少しだけ視線を下げたのが見えた。
その先輩がなにをいうか、その姿をじっと見つめる。
一秒が何十分にも感じられる沈黙のなか、先輩は視線をこちらに戻した。
「……そうだよ」
くらりとした。そして、視界が揺れる。
わかっていたはずなのに。覚悟していたのに、ショックはどうやっても訪れる。
決して倒れまいと持ちこたえながら、唇を噛み締めた。
先輩、すきな相手がいたんですか。
じゃあなんで、わたしの告白を、保留にしたりしたんですか。
保留なんてされなければ、わたしはこんなに苦しくなかったのに。
どうして、どうして。
いいたいことが多くて、言葉を発そうとした口はから回る。
たったひとつを、辛うじて告げた。
「なんで、……なんでわたしの告白、断らなかったんですか」
にわかに、先輩は切なそうな顔をした。
先輩の、形の整った唇が、思ってもみなかった言葉を紡ぎ出す。
「……断ったら、きみを、傷つけてしまうかもしれないと思ったから」
「…………え?」
わたしは、思わず目を見開く。
――傷つけるかもしれないから、断らなかったってこと?
冷静に考えてみれば、それも、優しさといえるのかもしれない。
だけど、いまのわたしにはそう思えなかった。
……逃げ、じゃないのかな。
相手を傷つけたくない。
自分が、相手を傷つけたくない。傷つく顔を見たくない。
だからこその、保留。
だからこその、逃げ。
先輩はとっても誠実な人だけど、それ以上に優しい人という印象があった。
今回、先輩はきっと、「優しさ」に甘んじて、誠実を捨てたんだ。
わたしは、不思議とそのことにがっかりしなかった。
「わかり、ました。……ありがとうございます」
「うん」
先輩はわたしに、ゆっくりと背を向けた。
だけど見送ることはせず、そのわきをすり抜けて先に部室に戻った。
「おかえり、乃々花。……どうだった……?」
「……えっと、噂は、ほんとうだったみたい」
「そっか。……大丈夫……?」
心配げにわたしの顔を覗き込んだ由実に、にっこりと笑顔を向ける。
「大丈夫だよっ」
「……乃々花、なんか顔つきがちがう。なにかあった?」
不思議そうな表情に変わった親友。
わたしはふっと微笑んだ。
「傷つくくらいなら、傷つけられたかったなって思ってさ」
由実が、ぽかんと口を開けた。
「……え、それって、どういう――」
「こっちの話〜!それよりもさ、早く絵描こうよ。だってわたしたち美術部じゃん?」
そう、ただの美術部。
これは、ただ絵を描くことがすきな、ただの美術部員の、ただの一日だ。



