告白
「会社の同僚としか思ってません。もうメールしないで下さい」
白鳥恵子23歳から返信されてきた言葉。1988年。平成元年。
ここは福岡県の久留米に近い郊外の小さな街にある。自動車工場。ある夜。龍太郎は部屋の明かりを落とし、パソコンの前に座った。
電話回線につながったモデムから、甲高い電子音が響く。「ピーヒョロロ……」やがて画面に文字が現れた。
MAIL 白鳥恵子、龍太郎は少し迷ったあと、キーボードに指を置いた。
パソコンの画面だけが、暗い部屋の中で青白く光っている。やがて龍太郎は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……そうか」
アツミ製作所は従業員百人が働いている。トヨタの協力工場でカローラの部品を主に製造している。朝になると、工場の門が開く。
作業服姿の従業員たちが次々と工場へ入り、プレス機や旋盤の音が場内に響き渡る。龍太郎も、その中の一人だった。恵子も同じ工場で働いている。毎日、顔を合わせる。休憩時間になれば、同じ食堂で昼食を取ることもある。だからこそ
「もうメールしないで下さい」
その言葉が、龍太郎の胸に重く残った。職場では、これまでと同じように接しなければならない。恵子に気まずい思いをさせるわけにはいかない。龍太郎は、そう自分に言い聞かせた。
だが、人を好きになるという気持ちは、スイッチを切るように消せるものではなかった。翌朝。いつものように工場へ向かう龍太郎の前に、アツミ製作所の大きな看板が見えてきた。
その向こうでは、今日もカローラの部品が次々と作られている。
恵子と目が合った瞬間。龍太郎の心が、ざわついた。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬が妙に長く感じられた。
恵子は龍太郎と目が合った瞬間、ふっと顔を背けた。その仕草を見た途端、龍太郎の胸の奥で、何かが大きく揺れた。なぜ、顔を背けた?偶然なのか。
それとも、自分を意識しているのか。
答えの出ない問いが、頭の中を駆け巡る。そして龍太郎の心のざわつきは、頂点に達した。
まるで、長い年月を越えて何かが動き始めたようだった。
ファックスを恵子のもとへ届ける用事ができた。龍太郎は、意を決して彼女のいる部屋のドアを開けた。恵子は、ひとりだった。
デスクに座り、黙々と仕事をしている。龍太郎が入ってきたことに気づくと、恵子は一瞬だけ顔を上げた。目が合った。けれど、二人とも何も言わなかった。龍太郎は無言のまま、手にしていたファックスを恵子の机の上に置いた。
「……」
「……」
ただ、それだけだった。わずか十秒ほどの出来事。それなのに龍太郎には、その十秒が何時間にも感じられた。恵子の表情。視線。
ほんのわずかな仕草。そのすべてが、妙に鮮明に心へ刻み込まれていく。龍太郎は何も言わず、静かに部屋を出た。ドアが閉まる。
その瞬間、胸の奥で、またあのざわつきが始まった。なぜだ。たった十秒、顔を合わせただけなのに。
その日は、結局、恵子と一言も言葉を交わすことはなかった。龍太郎の部署では、今度のQCサークル活動の話題で盛り上がっていた。
「今回のテーマ、何にする?」
「やっぱり不良率を下げる方向でいこうよ」
同僚たちの声が、事務所に飛び交っている。いつもと変わらない職場の風景だった。龍太郎も、時折その会話に相槌を打った。
しかし、頭の片隅から離れない。恵子。ほんの数秒、目が合っただけだった。それなのに、あの瞬間の彼女の表情が、何度も脳裏に浮かんでくる。仕事の話を聞きながらも、龍太郎の意識は、いつの間にか隣の部署へ向いていた。
「龍太郎さん、どうしたの? ぼーっとして」
同僚に声をかけられ、龍太郎は我に返った。
「あ……いや、何でもない」
そう答えながら、龍太郎は自分でも不思議に思っていた。
なぜ、あの人のことが、こんなにも気になるのだろう。その答えは、まだ龍太郎自身にも分からなかった。
「会社の同僚としか思ってません。もうメールしないで下さい」
白鳥恵子23歳から返信されてきた言葉。1988年。平成元年。
ここは福岡県の久留米に近い郊外の小さな街にある。自動車工場。ある夜。龍太郎は部屋の明かりを落とし、パソコンの前に座った。
電話回線につながったモデムから、甲高い電子音が響く。「ピーヒョロロ……」やがて画面に文字が現れた。
MAIL 白鳥恵子、龍太郎は少し迷ったあと、キーボードに指を置いた。
パソコンの画面だけが、暗い部屋の中で青白く光っている。やがて龍太郎は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……そうか」
アツミ製作所は従業員百人が働いている。トヨタの協力工場でカローラの部品を主に製造している。朝になると、工場の門が開く。
作業服姿の従業員たちが次々と工場へ入り、プレス機や旋盤の音が場内に響き渡る。龍太郎も、その中の一人だった。恵子も同じ工場で働いている。毎日、顔を合わせる。休憩時間になれば、同じ食堂で昼食を取ることもある。だからこそ
「もうメールしないで下さい」
その言葉が、龍太郎の胸に重く残った。職場では、これまでと同じように接しなければならない。恵子に気まずい思いをさせるわけにはいかない。龍太郎は、そう自分に言い聞かせた。
だが、人を好きになるという気持ちは、スイッチを切るように消せるものではなかった。翌朝。いつものように工場へ向かう龍太郎の前に、アツミ製作所の大きな看板が見えてきた。
その向こうでは、今日もカローラの部品が次々と作られている。
恵子と目が合った瞬間。龍太郎の心が、ざわついた。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬が妙に長く感じられた。
恵子は龍太郎と目が合った瞬間、ふっと顔を背けた。その仕草を見た途端、龍太郎の胸の奥で、何かが大きく揺れた。なぜ、顔を背けた?偶然なのか。
それとも、自分を意識しているのか。
答えの出ない問いが、頭の中を駆け巡る。そして龍太郎の心のざわつきは、頂点に達した。
まるで、長い年月を越えて何かが動き始めたようだった。
ファックスを恵子のもとへ届ける用事ができた。龍太郎は、意を決して彼女のいる部屋のドアを開けた。恵子は、ひとりだった。
デスクに座り、黙々と仕事をしている。龍太郎が入ってきたことに気づくと、恵子は一瞬だけ顔を上げた。目が合った。けれど、二人とも何も言わなかった。龍太郎は無言のまま、手にしていたファックスを恵子の机の上に置いた。
「……」
「……」
ただ、それだけだった。わずか十秒ほどの出来事。それなのに龍太郎には、その十秒が何時間にも感じられた。恵子の表情。視線。
ほんのわずかな仕草。そのすべてが、妙に鮮明に心へ刻み込まれていく。龍太郎は何も言わず、静かに部屋を出た。ドアが閉まる。
その瞬間、胸の奥で、またあのざわつきが始まった。なぜだ。たった十秒、顔を合わせただけなのに。
その日は、結局、恵子と一言も言葉を交わすことはなかった。龍太郎の部署では、今度のQCサークル活動の話題で盛り上がっていた。
「今回のテーマ、何にする?」
「やっぱり不良率を下げる方向でいこうよ」
同僚たちの声が、事務所に飛び交っている。いつもと変わらない職場の風景だった。龍太郎も、時折その会話に相槌を打った。
しかし、頭の片隅から離れない。恵子。ほんの数秒、目が合っただけだった。それなのに、あの瞬間の彼女の表情が、何度も脳裏に浮かんでくる。仕事の話を聞きながらも、龍太郎の意識は、いつの間にか隣の部署へ向いていた。
「龍太郎さん、どうしたの? ぼーっとして」
同僚に声をかけられ、龍太郎は我に返った。
「あ……いや、何でもない」
そう答えながら、龍太郎は自分でも不思議に思っていた。
なぜ、あの人のことが、こんなにも気になるのだろう。その答えは、まだ龍太郎自身にも分からなかった。



