あの日を境に、美優は授業をサボることをやめなかった。
もちろん、かつてのような息苦しさから逃げるためではない。時折、自分のことを心配して図書室の秘密基地へと顔を出す伊澄先生。その人と過ごすかけがえのない時間を、何よりも大切にしたかったからだ。
埃っぽい本棚の隙間、二人並んで座る特等席。そこだけが、美優にとって世界で唯一の、息ができる場所になっていた。
ある日の昼下がり、窓から差し込む暖かな木漏れ日の中で、美優は胸元に小説を抱えたまま、悪戯っぽく目をキラキラと輝かせた。
「ねぇ、伊澄先生! 先生って彼女いるの?」
唐突な問いかけに、すぐ隣に座っていた伊澄先生は、あからさまにたじろいだ。それから「んー」とわざとらしく顎に手を当てて、考える素振りをする。
「どうかなー、いたかなー。さあー、どうだったっけなー?」
あやふやに言葉を濁し、視線をあちこちに泳がせながらはぐらかす大人の対応。その分かりやすすぎる態度に、美優は思わず吹き出した。
「あ! 絶対いないやつだ!」
クスクスと楽しそうに笑う美優を、伊澄先生は眉をひそめて睨みつける。だけど、その目元は少しも怒っていなくて、どこか決まり悪そうだ。
「笑うなよ! ほら、そんなこと言う姫野こそ、彼氏つくんないのか?」
先生からの不意の一突きに、美優の笑い声がぴたりと止まった。
それまで白かった頬が一瞬にして真っ赤に染まっていく。心臓がうるさいほどに脈打ち、先生の顔を真っ直ぐ見られなくなってしまった。美優はきゅっと唇を結び、うつむきながら小声で呟く。
「……ない」
「ん? どした?」
急に静かになった美優の様子を不思議に思ったのか、伊澄先生が少し顔を覗き込んできた。すぐ近くにある先生の綺麗な瞳。美優は高鳴る鼓動を必死に抑え込み、顔を上げて精一杯の笑顔を作った。
「私、今が充分楽しいから……彼氏なんて、いらない!」
真っ直ぐな、嘘偽りのない言葉だった。先生とこうして二人きりでいられる今が、何よりも満たされている。だから、他の誰かも、これ以上の何かをも欲してはいなかった。
その瞬間、伊澄先生は少しだけ目を見開いた。
いつもの冗談混じりの表情が消え、大人の男性としての真剣な眼差しが、ほんの一瞬だけ美優の姿を捉える。
狭い本棚の隙間に、いつもとは違う、静かで熱い空気が流れた。
美優の純粋すぎる好意が、教師と生徒という境界線を、ほんの少しだけ揺るがした瞬間だった。



