伊澄 奏多という教師は、端正な顔立ちと飾らない人柄で、女子生徒の間で密かに絶大な人気を誇っていた。
今までの美優は、親の期待に応えることと自分の順位を保つことに必死で、そんな周囲の噂など気にしたこともなかった。けれど、こうして誰の目も届かない狭い空間で肩を並べて座られると、嫌でも彼が一人の「男の人」であることを意識してしまう。緊張のあまり、心臓の音がうるさいほどに跳ね上がっていた。
伊澄先生は膝を抱えたまま、横目でちらりと美優の顔を盗み見た。
「なんで、サボってたんだ?……何か悩み事か?」
低く落ちついた声が、静かな図書室に鼓動のように響く。美優は少しの間ためらい、胸元で抱きしめていた本の表紙を見つめた。
「……小説を、読みたかったんです」
ほんの少し照れくさそうに、だけど嘘をつけずにぽつりと答える。
伊澄先生はそんな美優の横顔を見て、可笑しそうにまたクスりと笑った。
「そっか。受験、息が詰まるもんなぁ」
先生はぽん、と自分の膝を叩くと、美優の藤色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「姫野は真面目すぎるからさ。……実は、いつも気になってたんだよ」
その真っ直ぐで温かい言葉は、美優の冷え切っていた心の水面に、ぽつんと一滴の雫を落とした。
じわり、と波紋を広げるように、その優しさが心の奥深くまで浸透していく。
(ああ、私――)
美優は激しい眩暈のような感覚の中で、気づいてしまった。
これは、恋だ。
親のレールの上を走るだけの灰色だった世界が、この人を前にしただけで、一瞬で鮮やかな色彩を帯びていく。生まれて初めて知る、甘くて苦しい胸の痛み。
自分の不純な衝動を隠すように、美優は手元の恋愛小説をぎゅっと胸に強く抱きしめた。そして、消え入りそうな声で俯く。
「……先生、ごめんなさい。サボったりして」
優等生としての、そして恋をしてしまった子供としての、精一杯の謝罪だった。
けれど、伊澄先生は怒るどころか、困ったように眉を下げて笑った。
「謝らなくていーよ」
先生の大きな手が、再び美優の頭を優しく撫でる。その手のひらの熱が、たまらなく愛おしかった。
「姫野の大切な場所、絶対に、俺が奪ったりしないからさ」
そう言って笑う先生は、やっぱり完璧に大人で、ずるくて、そして酷く眩しかった。
この優しさが、自分だけの特別なものではないと知る由もない美優は、その温もりにどこまでも溺れていくのだった。



